原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

実力と人気と使い易さの3次方程式

2009年10月10日 | その他オピニオン
 秋も深まりつつある今、そろそろ8月の民主党のあの圧勝劇も“過ぎ去りしひと夏の出来事”として国民の熱が冷め始め、一般庶民の間では早く各種手当てが支給されることのみが待たれる段階に突入している感もする今日この頃である。

 今回の選挙における民主党の当選者の場合、候補者自らの政治家としての実力(潜在力)が有権者に評価、支持されて当選した人物はごく少数派なのではなかろうか。
 国政選挙とて結局はそういうレベルの話にしか過ぎないのであろうが、政界においても、経済界においても、芸能界においても、「実力」と「人気」と「使い易さ」の3要素こそが指導者にとって後進を掘り出して育てていく基本原則と位置づけられるのではなかろうかとの感を抱く原左都子である。

 今回の記事は国政とは一切関係なく、上記3要素の相関関係について考察する内容であることを最初にお断りしておく。


 何故に突然この3要素の概念が頭に浮かんだのかと言うと、きっかけは「モーニング娘。」である。
 ダンス好きな私であるが、秋になってフィットネスクラブに入会して以降はそこで「ヒップホップ」と「エアロビ・ステップエクササイズ」に励んでいる。 それ以前はもっぱら、ユーチューブの70年代ディスコサウンドやピンクレディやそして「モーニング娘。」の曲に合わせて、一人で踊りまくって自主トレしていたのである。(ちなみに、ピンクレディはほぼ全曲踊れるし、モーニング娘の“恋愛レボリューション21”は私のダンスの得意ナンバーであるのだが。


 今は廃れた(失礼!)「モーニング娘。」であるが、今その全盛時代の影像を見るとなかなかのエンターテイメントぶりである。歌はともかく踊りは本格的だ。全員が基礎基本を一応きちんとマスターしている様子で、舞台やスタジオでの激しいダンスの動きに最後まで手抜きがない。

 そんな中、踊り以外で興味深いのはメンバーの「人気」と「実力」とそして“私の好み”が一致しないことである。 “この娘(こ)がグループの中で一番の人気者だったはずだけど、私の目には魅力的に映らないなあ。こっちの娘(こ)の方がずっと洗練された魅力があるし踊りもうまいのになぜこんな隅っこにばかり追いやられているのだろう? 私がプロデューサーならば、この子こそ中心に置きたいけどなあ。”といった具合である。

 この「モーニング娘。」に関しては、プロデューサーのつんく氏によりデビュー当初より興味深いプロデュースの試みがなされていたようだ。 単独リードボーカルを立てず、ほぼ全員を入れ替わり立ち替わりソロ、デュエット等に起用し、その持ち時間の長短はあれど、一曲中に全員が一度は“日の目をみるよう”メンバーを配置したのがその特徴のようだ。 このような構成は見る側の“好みの多様性”を尊重したものに他ならない。 そして、グループが陳腐化して「人気」が廃れる前にメンバーを少しずつ入れ替えつつその“鮮度を保つ”という、今までの芸能界にはない斬新な試みをしたのも、つんく氏による「モーニング娘。」プロジェクトが初めての事例ではなかっただろうか。

 そのような斬新なプロデュースの試みの「モーニング娘。」においてさえ、やはり中心メンバーをつんく氏は立てていた。 実名を挙げて申し訳ないが、初代の中心メンバーは“阿倍なつみ”だったのだが、私個人的には個性が乏しく感じるし歌唱力も大したことがなくメンバーの中で一番印象が薄い存在と捉えていた。 それでも、つんく氏が何故に“阿倍なつみ”を中心に据えたのかを私は理解できるような気がする。
 それはプロデューサーの立場として“阿倍なつみ”が「使い易い」からに他ならないからだと私は考えるのだ。(いや~、真実は知りませんよ。つんく氏の個人的な好みだったのかもしれないし~。)


 実はつんく氏の「モーニング娘。」プロジェクトに限らず、学校のクラスや職場、そして国政等において、上位の立場の人間が下位の生徒や部下や新人議員を扱う上でもこの「使い易さ」という概念は欠かせない要素であると、私は以前より考察しているのだ。
 例えば、教員の立場として学級委員はこの生徒にやってもらうと自分の意思伝達がスムーズに運んでクラス運営が容易となる、といった魂胆で教員自らが指名することも多かったように記憶している。 職場においても、真に実力のある部下とは能力のない上司には扱いにくい存在である。そこであえて「実力」ではなく「使い易い」人材を採用するのはどこの職場でも常識であるとも言える。
 今回の民主党圧勝により誕生した“小沢チルドレン”に関しても、結局小沢氏が「扱い易い」人材を周囲に蔓延らせようとした結果でしかないのであろう。


 ところが残念ながら、世の中のシステムとは、狭い集団内における(名目だけ)上の立場にいる人間が下の人間を「使い易い」という安易な論理のみで扱っていたのでは発展し得ないものである。
 組織の如何にかかわらずその“長”たるものは、世の中をオープンシステムとみなして自分の都合や狭い見識のみではないグローバルな視野で捉え、真に「実力」のある人材を勇気を持って育成していかないことには、結局はオープンシステムにおける長続きする「人気」を確保できず、その発展も望めないのではなかろうか。

 真の実力がものを言い、それが世を動かす時代に早く移り変わって欲しいものである。
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