原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

衝突が産み出す新しい世界

2008年03月22日 | 人間関係
 昨日、春休みに入っている娘を誘ってランチついでにプラネタリウムを観に行った。
 私はリクライニングシートにゆったりと腰かけて天空を見上げるプラネタリウムのあの癒しの空間、寛ぎの一時が昔からお気に入りなのである。一番組が50分程度と映画ほど長くもなく時間のロスも少ないため、以前より買い物等のついでによく立ち寄っている。

 昨日観たのは「COSMIC COLLISIONS -接近!宇宙大衝突-」と題するCGプラネタリウム番組だったのだが、宇宙で繰り広げられる“衝突”をテーマに迫力あるスペースアトラクションが放映された。例えば、衝突による地球と月との誕生物語、銀河系同士の衝突、恐竜の絶滅を引き起こした地球への小惑星の衝突、などが天空大画面にCG画像で再現された。
 今回のこのプラネタリウム番組で一貫するテーマを私なりに要約すると、“衝突”とは破滅、破壊をもたらす一方で新しい世界や生命を誕生させる進化の一過程である、といったところであろう。


 話がガラリと変わるが、人間関係が希薄化している今の時代、社会において人間同士の“衝突”が回避される傾向にあるように感じられる。“触らぬものにたたりなし”と言ったところであろうか。議論を好まず、生き方や考え方の異質な人種とは元々交わらない、避けて通るのが無難とする人たちが急増しているようだ。

 人とのかかわり上、それもひとつのスマートな選択肢であることは私も認める。この私も自分自身の人間関係においてそのような選択をすることはある。両者関係に将来性がない場合、すなわちこのままお付き合いを続けたところでパワーやハートが循環しそうもない相手(当ブログのバックナンバー「人間関係継続の源は循環力」を参照下さい。)や、付き合いによる人格的向上が望めそうもない場合など、その人間関係をバッサリと切り捨てることはある。特に若かりし頃はそういうことも多かった。

 ただ、加齢と共に人間が少しは丸くなった(?)今、たとえ衝突を繰り返しながらも継続させるべき人間関係も多いということに気付く。
 例えば、夫婦をはじめ家族という存在はその最たるものであるかもしれない。日々小衝突の繰り返しである。時には大衝突が展開され破滅の危機もある。それでも、衝突によるリフレッシュ効果を皆さんも日常的に経験されているのではなかろうか。
 家族に限らず、衝突を繰り返しつつも継続させたい人間関係はある。やたらぶつかるけれど、冷静になってみるとなぜかやっぱりお気に入りの魅力的な相手っているものだ。そういう相手との間には一見ぎこちなさそうに思えても潜在的にパワーとハートがうまく循環し続けているのであろうし、またお互いの人格的向上があるからこそ続くのであろう。

 何度も書くが、当ブログの趣旨は「自己のオピニオンの公開」であり、異論反論を問わずオピニオンに対するコメントを歓迎すると公約している。何もそこまで公約せずとて、仲良し読者の方々から賛同意見だけ頂戴し、たまに来る異論反論は無視しながら平和にブログを綴り続けていくという手もあるのであろう。
 たが、私は自分自身の成長、進化のためにあえて異論反論を歓迎している。(これに関しては既にコメント欄で述べているので繰り返しになるが。) 異論反論を実際にいただくと、この私とて一瞬ムッとしたりカッとなったりしなくもない。ただ、そんな感情を抑えつつ冷静さを取り戻す過程が私は好きだ。その過程で様々な考えが頭を巡る。 頂戴したコメントを読み、主観的な思考を離れ事象を違った角度から客観視してみると、自分自身の考えは曲げずとも、いただいた異論反論にも信憑性があることにも気付かされたりする。異論反論というものは、様々な価値観を提示してくれ、より柔軟な思考を促してくれる貴重な存在なのだ。
 まさに、衝突が新しい世界を産み出してくれるのだ。

 今後も、“衝突”を恐れず人間関係を育て進化させていく勇気を持ち続けたいものである。
    
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愛された記憶

2008年03月20日 | 恋愛・男女関係
 本ブログ「原左都子エッセイ集」の“雑記”カテゴリーは、ブログ開設趣旨である“自己のオピニオンの公開”からははずれ、肩の力を抜いて気ままに綴っている記事が多い。
 本ブログの場合、現在の私生活や家族に関する暴露ネタはプライバシー保護、及び個人情報保護の観点から正面きっての記事は避ける方針を貫いている。私の単なる道楽であるブログ公開ごときのために、家族に迷惑がかかることを避けたい思いが強いからである。 前回の年金の記事のように、自己のオピニオンの公開にあたってプライベート情報の中から家族にとって公開しても差し支えのない事柄を補足説明のために持ち出すことはあるのだが。

 “雑記”カテゴリーの主たる内容は、私自身の独身時代の恋愛ものの暴露記事である。自分自身の過去のプライバシーを暴露する分には他者に迷惑をかけることも少ないであろうし、自分で責任を持てる範囲内であるからだ。要するに自己責任の下、ブログを展開したいと考えているのである。

 さてうれしいことに、この“雑記”カテゴリーが一部の読者の方々の間で結構人気があるのだ。
 長い独身時代に私は様々な方々にお世話になっているのだが、そんな私の単身一人暮らしを温かく見守って下さった方々が、現在ブログを覗きに来て下さっている。その時代の私の生き様を垣間見ていた知人が結構この“雑記”を面白がってくれているのだ。 私本人は、息抜き、手抜きで綴っている記事を楽しみにしていてくれる読者の方々がいるということも、私のブログの本来の趣旨からはずれるが、それはそれでブロガーとしてはほくそ笑んでしまうものだ。
 
 そこで、今回の記事では私の“雑記”カテゴリーの恋愛関連記事への思いを綴ってみたいと考える。


 ずい分と前置きが長くなってしまったが、この“雑記”カテゴリーにおいて私が自分自身の過去の恋愛ネタを暴露する理由とは、表題の通りその当時の「愛された記憶」が私にとっては今なお輝きを失わない貴重な思い出であり、一生の宝物であるためだ。もちろん「愛した記憶」も同様だが。

 もしも、いわゆる“適齢期”に普通に恋愛をして結婚をしていたならば、まったく違う人生を歩んだことであろう。
 ところが私の場合幸か不幸かそういう道程ではなく、20歳代半ば頃から“結婚しないかもしれない症候群”であったため、長い独身時代を過ごすこととなった。当時は20歳代後半以降の女が独り身でいると、“ハイミス”だの“売れ残り”だのと呼ばれて後ろ指をさされたものだが、今思えば30歳代なんてほんとにまだまだ若いとつくづく思う。そんな若い女が結婚もせず長い期間一人で生きて、職業や学業や趣味等の形で社会にはびこっていると、様々な男性と巡り会う機会も多くなるものなのだ。
 結婚を強く意識するならば、必然的に一人の男性と懇意の関係になるのであろう。 ところが“結婚”を二の次と捉え、“恋愛”に関しても自分にとっての第一義とは考えずに仕事に学業に集中して生きていると、何が何でも一人の男性に長年執着する必要がないため必然的に別れが早めにやってくる。そして、自ずと恋愛経験の数が豊富になるものなのだ。

 そうは言えども、人を恋すると言う事はすばらしいことである。恋愛中はもちろん私だって真剣だ。一時、仕事や学業が手に付かなくなるものだ。
 恋愛の数を踏んでいると、“気が多い奴”と後ろ指をさされ不埒でいい加減な人間と思われ勝ちだが、決してそうではない。その時はその相手に一途なのだ。恋愛の一本一本がかけがえがなく、すべてが貴重なのだ。こういう考え方自体がアンビリーバブルであろうか? 不謹慎であろうか?

 いずれにせよ、長い独身時代を送ったからこそ経験できた数多い恋愛における「愛された記憶」「愛した記憶」は時間が経過した今でも私にとって輝きを失わない貴重な宝物であり、私の人格を創り上げ支えてくれていると言っても過言ではない。
 また、時々振り返っては“雑記”カテゴリーで過去の恋愛ネタを綴ることとしよう。   
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宙に浮いた年金

2008年03月18日 | 時事論評
 我が家にも舞い込んで来てしまった。「ねんきん特別便」が…。
 我が家の身内の国民年金が宙に浮いてしまっている。
 
 年金記録問題が騒がれた昨夏あたりから、我が家でも話題にはしていた。
 私自身に関しては経歴の複雑さに伴い年金加入記録も相当複雑なため、昨夏社会保険事務所に足を運び照合して来た。結果として当方の手元にある記録と社会保険庁の記録との間に1ヶ月の差異が発生していたのであるが、手元に支払い記録の証明ができる書類を保持していないため、さらなる追求は断念した。

 身内の場合、どうやら何年分、下手をすると十数年分の年金記録が宙に浮いてしまっている。新卒入社で同一職場一筋に40年という道を歩んでおらず、年金加入経歴が複雑なためだ。 身内は自然科学の研究者であるため学究生活が長いのだが、その間の年金記録が宙に浮いてしまっているのだ。 自然科学の研究者というのは自分の研究テーマによって研究室を転々と渡り歩くことが、特に若い頃は日常茶飯事なのである。

 身内に「ねんきん特別便」が届いたため、早速社会保険事務所へ照合に出かけた。その結果、国立大学の研究室所属期間の年金記録の漏れのみは判明した。ところが、私立大学の研究室所属期間と、長期に渡る博士課程学位取得期間に自主的に納めた国民年金の記録の行方が不明なのである。なぜ、国立分は見つかるのに私立分が見つからなくて、ましてや昔は学生期間は国民年金は任意加入であったのだが、その任意加入期間に自主的に納めた期間分の年金が消え去るのか…。  納得のできない話だ。
 早速、追跡調査依頼書を提出してきたのではあるが、さて、消え去った年金は見つかるのであろうか? 一家の老後の生活がかかっている。我が家の場合、高齢で産んだ子どもも未だ小さくて身内が現在の職場を定年退職してから大学入学だ。年金を当てにしているのに…。是非とも、見つかって欲しいものである。
 が、残念ならがそれは期待薄であろう。 先だっての報道によると、「最後の一人までチェックして正しい年金を支払う」との政府与党の公約の達成はどうやら不可能であるらしい。

 身内の場合、年金自己管理力にも大きな落ち度がある。年金手帳が複数に渡っている上、学究生活期間の年金手帳を紛失してしまっている。そんな落ち度は認めるが、ただ、現実生活上、個々人が年金をこと細かく自己管理していく時間も精神的余裕も通常はないのが現状だ。やはり、保険料を受け取る側の社会保険庁のずさん管理、そして年金制度の複雑さに問題が大きい。

 思うに、学者、研究者のご家庭の皆さんは、我が家と同じような思いをしていらっしゃるのではなかろうか? たとえ年金が宙に浮かずとも、学究生活が長い分実労働期間が一般の方々より少ないため老後の受取年金額も少ないのだ。私自身もそうである。学業に励んだ期間(上記の通り、昔は学生期間は年金加入は“任意”であった。)が長いためその分受取年金額が少ない。汗水たらして働いていないのだから保険料を納めていないのだから年金がもらえなくて当然なのであろうが、日本の科学、学問の発展のために費やした時間は老後の年金としてはフィードバックされないということを、老後を目前にした今になって思い知らされている。保険料の後納等、年金制度上の救済策はないものなのか。

 我が家の場合、老後は年金以外の財源も重ねて考慮していくしかないようだ。
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高橋尚子と荒川静香

2008年03月15日 | 時事論評
 最初に断っておくが、この記事はマラソンランナー高橋尚子に対する批判記事である。
 高橋尚子ファンから袋叩きにされることを回避するため、先週の名古屋国際女子マラソンのほとぼりが覚めるのを待つため、あえて一週間置いて旬をはずしての執筆を目論んだ。

 さて、表題の高橋尚子と荒川静香、両女性の共通点は言わずと知れているが、オリンピックで金メダルを獲得していることである。トップアスリートとして輝かしい功績を残し、一世を風靡した世にも稀な女性二人である。

 そのような共通点のある両人なのだが、金メダルを獲得した後の生き様が大きく異なっている。
 本記事においては、両人の金メダル獲得後の生き様について私論を展開していく。

 結論から先に述べると、私は“クールビューティ”荒川静香の生き様に惹かれるし、賛同したいのだ。

 高橋尚子もシドニーオリンピックで金メダルを獲得するまでは、とても魅力的なマラソンランナーであったし私も応援していた。
 ところが金メダル獲得後の高橋尚子は、一気に私の目にはまったく魅力が失せてしまったのだ。なぜならば、金メダル獲得後の彼女は“マスメディア”と“大衆”に頼りきってしまったからである。“走り続けたい、トップアスリートでい続けたい”と宣言し続けるのはよいのだが、ことある毎にマスメディアに登場し「皆さんの応援のお陰です。」と媚を売る。まるでマスメディアに踊らされてしまっている。金メダル獲得前のさわやかな彼女らしさがまるでない。内面の弱さばかりが浮彫りになる。「皆さんの応援のお陰です…」マスメディアで彼女の口からこの言葉が出る程に、確固としたスポーツマンシップが感じられなれなくなっていくのだ。
 案の定、その後のマラソンレースで決定打が打てない。金メダル以前のあの彼女らしいレース強さがまったく感じられない。レースで負ける度に「故障していた」との言い訳を繰り返す。そんな言い訳が通ると思うほど高橋尚子は敗者に成り下がってしまったのか…。聞いていてまたかと飽き飽きするだけだ。
 当ブログのバックナンバー“その他オピニオン”カテゴリー「成功の尺度」の記事において、成功とは“他者の評価”で決まるのではなく自分自身の達成感、すなわち自分の心が決めるものである、との私論を展開している。 まさに高橋尚子の金メダル後の敗因は自分の成功の尺度をマスメディアを通した“他者の評価”に頼ってしまったところにあると、私は分析している。
 金メダル以前の高橋尚子には成功の尺度を自分の内面に求める強さが確かに感じられたのだ。だからこそ、金メダルという成功を手中にできたのだと私は思う。
 先週の名古屋のレース後に、高橋尚子は「まだ走り続ける」と宣言している。
どうか初心に帰って内面の強さを取り戻して、自分自身の成功のために走り続けることを祈るばかりである。

 さて、片や荒川静香であるが、まさに彼女の印象は一貫して“クール”である。いつ見ても研ぎ澄まされた表情をして、論理的な受け答えをする。金メダル前後で彼女の印象にまったく変化がない。確固とした自己を確立している人物である。
 彼女が媚を売るのはプロスケーターとしてリンクに立つ時のみである。マスメディアにも登場するのだが、彼女の場合マスメディアに決して踊らされていない。彼女の方がマスメディアを抜け目なく利用している様子が伝わってくる。
 金メダル獲得に関しても論理的に計算し尽くされたものであったらしい。点数競技であるフィギュアスケートで勝つための要素を自らこと細かく分析し尽くし、それを完璧にマスターしての金メダル獲得だったと見聞している。金メダル後のプロスケーターへの転身に関しても、その意思の固さたるやすばらしいものがあった。
 とにかく荒川静香はやることなすことに首尾一貫して確固とした自己があるのだ。私はこういう人物が好きだ。

 ついでに言うと、北京オリンピックで女子マラソン二連覇をめざす野口みずきであるが、この人にも荒川静香と共通点があると私は捉えている。成功の尺度を自分自身の内面で捉えている。浮ついたところが一切なく、研ぎ澄まされた自己が感じられる人物である。
 こういう人物こそ、私は応援したいのだ。北京オリンピックでの二連覇を陰ながらお祈りしよう。 
  
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校長、そりゃあみっともないぜ。

2008年03月13日 | 教育・学校
 教え子だった女性を脅して交際を迫ったなどの理由で、埼玉県川口市立高校校長が3月8日、埼玉県警に逮捕された。
 埼玉県警の調べによると、この校長は昨年11月、12月に自らが女性に対して行ったわいせつ行為の様子などを記したメールや文書を数十回にわたって女性に送り、「何があっても知らないよ」などと脅していたとのことである。メールは校長室のパソコンから送信していたらしい。
 そもそもこの校長はこの女性が在校生だった頃から「勉強を教えてやる」などと言って近づき、みだらな行為をするようになったとされる。卒業後も交際を迫り、女性が嫌がると「殺すことは平気だ」などと度々脅していたという。
 以上はこの事件についての3月9日朝日新聞朝刊記事よりの抜粋である。


 話が変わるが、我が子が在籍していた小学校の校長が現職中に教職員に対するセクハラ行為で懲戒免職となったという事件を、我が家でも身近に経験している。

 私は子どもが幼少の頃から教育問題等社会問題についての投書投稿、意見書提出活動をライフワークとしている。 その活動の一環として、このセクハラ事件の直前にこの校長宛にも学校運営に関する意見書を提出し、実際に校長と面会して討論させていただいた経験があった。その後、この校長から私が提出した意見書に対する便箋3枚に渡る直筆の回答書を頂戴した。その内容は私の意見書の趣旨を全面的に受け入れ、自らの学校運営の不手際を詫びるものであった。
 私は子どもが現在まで在校した小中の全校長に様々な意見書を提出しているのだが、これだけ誠意ある回答をいただけたのは、このセクハラ校長と、現在子どもが在学中の私立中学の校長からのみである。(現在在学中の私立中学の校長は教育のスペシャリストでいらっしゃる等別格の存在なのだが)、公立校の校長が誠意ある回答をしてきたことに私は心底驚き、感激したものである。大抵の校長は「どうか学校運営にご理解、ご協力を…」と意見書を受理したこと自体をもみ消すか、あるいは決して自らの非を認めないことが学校の最高責任者としての使命と勘違いしている校長ばかりなのだが…。

 話を本論に戻して、上記のようないきさつがあったため我が子の元在籍校のこのセクハラ校長の懲戒免職処分には私は驚きを隠せなかった。私はセクハラ事件の詳細を把握していないのだが、誠意ある校長がなぜそのような下劣な行動に走ってしまったのか…。
 仕事の能力と性欲は別物なのか。そうであるとしても、なぜ抑えるべきときに性欲が抑えられなかったのか…。


 この川口市立高校の校長も多方面で評判は良かったらしい。
 だが、報道による限りこの校長の脅迫行為は悪質であり、教育者しかも学校の最高責任者という立場にある人間として言語道断、あってはならない事件である。

 私も過去に私立女子高校で、非常勤講師として女子高生の実態に直接触れた経験がある。高1あたりはまだまだ子どもっぽくてあどけなさが残っているのだが、高3ともなると外見はもう立派な“女”である。私などよりよっぽど色っぽい子がざらにいて、教室でフェロモンを放出しまくっている。同性である私でさえ、もう圧倒されっ放しである。男の先生達はこんなお色気ムンムンの女生徒を相手に、自制心を働かせながらの指導はさぞや大変であろうと、同情さえしたものだ。
 ただ、女子高生とはそんな外見とは裏腹に内面はやはりまだまだ子どもなのだ。どれだけ女生徒がフェロモンを放出していようと、教員は生徒を“女”として見てはいけない。教員である以上、あくまでも生徒の内面とかかわるべきだ。 内心の自由は許すとしても、生徒を“女”として捉えてしまった思いを教員という立場の下で決して男女関係の実践に発展させるべきではない。ましてや、深追いして脅迫するなど言語道断である。

 教員たるや生徒に対しては性欲のある人間である前にあくまでも“指導者”であるべきだ。今回の校長の脅迫行為は誰が考えてもみっともなさ過ぎる。いや、“みっともない”などという甘っちょろい言葉では済まされない事件である。
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