昨日、春休みに入っている娘を誘ってランチついでにプラネタリウムを観に行った。
私はリクライニングシートにゆったりと腰かけて天空を見上げるプラネタリウムのあの癒しの空間、寛ぎの一時が昔からお気に入りなのである。一番組が50分程度と映画ほど長くもなく時間のロスも少ないため、以前より買い物等のついでによく立ち寄っている。
昨日観たのは「COSMIC COLLISIONS -接近!宇宙大衝突-」と題するCGプラネタリウム番組だったのだが、宇宙で繰り広げられる“衝突”をテーマに迫力あるスペースアトラクションが放映された。例えば、衝突による地球と月との誕生物語、銀河系同士の衝突、恐竜の絶滅を引き起こした地球への小惑星の衝突、などが天空大画面にCG画像で再現された。
今回のこのプラネタリウム番組で一貫するテーマを私なりに要約すると、“衝突”とは破滅、破壊をもたらす一方で新しい世界や生命を誕生させる進化の一過程である、といったところであろう。
話がガラリと変わるが、人間関係が希薄化している今の時代、社会において人間同士の“衝突”が回避される傾向にあるように感じられる。“触らぬものにたたりなし”と言ったところであろうか。議論を好まず、生き方や考え方の異質な人種とは元々交わらない、避けて通るのが無難とする人たちが急増しているようだ。
人とのかかわり上、それもひとつのスマートな選択肢であることは私も認める。この私も自分自身の人間関係においてそのような選択をすることはある。両者関係に将来性がない場合、すなわちこのままお付き合いを続けたところでパワーやハートが循環しそうもない相手(当ブログのバックナンバー「人間関係継続の源は循環力」を参照下さい。)や、付き合いによる人格的向上が望めそうもない場合など、その人間関係をバッサリと切り捨てることはある。特に若かりし頃はそういうことも多かった。
ただ、加齢と共に人間が少しは丸くなった(?)今、たとえ衝突を繰り返しながらも継続させるべき人間関係も多いということに気付く。
例えば、夫婦をはじめ家族という存在はその最たるものであるかもしれない。日々小衝突の繰り返しである。時には大衝突が展開され破滅の危機もある。それでも、衝突によるリフレッシュ効果を皆さんも日常的に経験されているのではなかろうか。
家族に限らず、衝突を繰り返しつつも継続させたい人間関係はある。やたらぶつかるけれど、冷静になってみるとなぜかやっぱりお気に入りの魅力的な相手っているものだ。そういう相手との間には一見ぎこちなさそうに思えても潜在的にパワーとハートがうまく循環し続けているのであろうし、またお互いの人格的向上があるからこそ続くのであろう。
何度も書くが、当ブログの趣旨は「自己のオピニオンの公開」であり、異論反論を問わずオピニオンに対するコメントを歓迎すると公約している。何もそこまで公約せずとて、仲良し読者の方々から賛同意見だけ頂戴し、たまに来る異論反論は無視しながら平和にブログを綴り続けていくという手もあるのであろう。
たが、私は自分自身の成長、進化のためにあえて異論反論を歓迎している。(これに関しては既にコメント欄で述べているので繰り返しになるが。) 異論反論を実際にいただくと、この私とて一瞬ムッとしたりカッとなったりしなくもない。ただ、そんな感情を抑えつつ冷静さを取り戻す過程が私は好きだ。その過程で様々な考えが頭を巡る。 頂戴したコメントを読み、主観的な思考を離れ事象を違った角度から客観視してみると、自分自身の考えは曲げずとも、いただいた異論反論にも信憑性があることにも気付かされたりする。異論反論というものは、様々な価値観を提示してくれ、より柔軟な思考を促してくれる貴重な存在なのだ。
まさに、衝突が新しい世界を産み出してくれるのだ。
今後も、“衝突”を恐れず人間関係を育て進化させていく勇気を持ち続けたいものである。
私はリクライニングシートにゆったりと腰かけて天空を見上げるプラネタリウムのあの癒しの空間、寛ぎの一時が昔からお気に入りなのである。一番組が50分程度と映画ほど長くもなく時間のロスも少ないため、以前より買い物等のついでによく立ち寄っている。
昨日観たのは「COSMIC COLLISIONS -接近!宇宙大衝突-」と題するCGプラネタリウム番組だったのだが、宇宙で繰り広げられる“衝突”をテーマに迫力あるスペースアトラクションが放映された。例えば、衝突による地球と月との誕生物語、銀河系同士の衝突、恐竜の絶滅を引き起こした地球への小惑星の衝突、などが天空大画面にCG画像で再現された。
今回のこのプラネタリウム番組で一貫するテーマを私なりに要約すると、“衝突”とは破滅、破壊をもたらす一方で新しい世界や生命を誕生させる進化の一過程である、といったところであろう。
話がガラリと変わるが、人間関係が希薄化している今の時代、社会において人間同士の“衝突”が回避される傾向にあるように感じられる。“触らぬものにたたりなし”と言ったところであろうか。議論を好まず、生き方や考え方の異質な人種とは元々交わらない、避けて通るのが無難とする人たちが急増しているようだ。
人とのかかわり上、それもひとつのスマートな選択肢であることは私も認める。この私も自分自身の人間関係においてそのような選択をすることはある。両者関係に将来性がない場合、すなわちこのままお付き合いを続けたところでパワーやハートが循環しそうもない相手(当ブログのバックナンバー「人間関係継続の源は循環力」を参照下さい。)や、付き合いによる人格的向上が望めそうもない場合など、その人間関係をバッサリと切り捨てることはある。特に若かりし頃はそういうことも多かった。
ただ、加齢と共に人間が少しは丸くなった(?)今、たとえ衝突を繰り返しながらも継続させるべき人間関係も多いということに気付く。
例えば、夫婦をはじめ家族という存在はその最たるものであるかもしれない。日々小衝突の繰り返しである。時には大衝突が展開され破滅の危機もある。それでも、衝突によるリフレッシュ効果を皆さんも日常的に経験されているのではなかろうか。
家族に限らず、衝突を繰り返しつつも継続させたい人間関係はある。やたらぶつかるけれど、冷静になってみるとなぜかやっぱりお気に入りの魅力的な相手っているものだ。そういう相手との間には一見ぎこちなさそうに思えても潜在的にパワーとハートがうまく循環し続けているのであろうし、またお互いの人格的向上があるからこそ続くのであろう。
何度も書くが、当ブログの趣旨は「自己のオピニオンの公開」であり、異論反論を問わずオピニオンに対するコメントを歓迎すると公約している。何もそこまで公約せずとて、仲良し読者の方々から賛同意見だけ頂戴し、たまに来る異論反論は無視しながら平和にブログを綴り続けていくという手もあるのであろう。
たが、私は自分自身の成長、進化のためにあえて異論反論を歓迎している。(これに関しては既にコメント欄で述べているので繰り返しになるが。) 異論反論を実際にいただくと、この私とて一瞬ムッとしたりカッとなったりしなくもない。ただ、そんな感情を抑えつつ冷静さを取り戻す過程が私は好きだ。その過程で様々な考えが頭を巡る。 頂戴したコメントを読み、主観的な思考を離れ事象を違った角度から客観視してみると、自分自身の考えは曲げずとも、いただいた異論反論にも信憑性があることにも気付かされたりする。異論反論というものは、様々な価値観を提示してくれ、より柔軟な思考を促してくれる貴重な存在なのだ。
まさに、衝突が新しい世界を産み出してくれるのだ。
今後も、“衝突”を恐れず人間関係を育て進化させていく勇気を持ち続けたいものである。