原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

高橋尚子と荒川静香

2008年03月15日 | 時事論評
 最初に断っておくが、この記事はマラソンランナー高橋尚子に対する批判記事である。
 高橋尚子ファンから袋叩きにされることを回避するため、先週の名古屋国際女子マラソンのほとぼりが覚めるのを待つため、あえて一週間置いて旬をはずしての執筆を目論んだ。

 さて、表題の高橋尚子と荒川静香、両女性の共通点は言わずと知れているが、オリンピックで金メダルを獲得していることである。トップアスリートとして輝かしい功績を残し、一世を風靡した世にも稀な女性二人である。

 そのような共通点のある両人なのだが、金メダルを獲得した後の生き様が大きく異なっている。
 本記事においては、両人の金メダル獲得後の生き様について私論を展開していく。

 結論から先に述べると、私は“クールビューティ”荒川静香の生き様に惹かれるし、賛同したいのだ。

 高橋尚子もシドニーオリンピックで金メダルを獲得するまでは、とても魅力的なマラソンランナーであったし私も応援していた。
 ところが金メダル獲得後の高橋尚子は、一気に私の目にはまったく魅力が失せてしまったのだ。なぜならば、金メダル獲得後の彼女は“マスメディア”と“大衆”に頼りきってしまったからである。“走り続けたい、トップアスリートでい続けたい”と宣言し続けるのはよいのだが、ことある毎にマスメディアに登場し「皆さんの応援のお陰です。」と媚を売る。まるでマスメディアに踊らされてしまっている。金メダル獲得前のさわやかな彼女らしさがまるでない。内面の弱さばかりが浮彫りになる。「皆さんの応援のお陰です…」マスメディアで彼女の口からこの言葉が出る程に、確固としたスポーツマンシップが感じられなれなくなっていくのだ。
 案の定、その後のマラソンレースで決定打が打てない。金メダル以前のあの彼女らしいレース強さがまったく感じられない。レースで負ける度に「故障していた」との言い訳を繰り返す。そんな言い訳が通ると思うほど高橋尚子は敗者に成り下がってしまったのか…。聞いていてまたかと飽き飽きするだけだ。
 当ブログのバックナンバー“その他オピニオン”カテゴリー「成功の尺度」の記事において、成功とは“他者の評価”で決まるのではなく自分自身の達成感、すなわち自分の心が決めるものである、との私論を展開している。 まさに高橋尚子の金メダル後の敗因は自分の成功の尺度をマスメディアを通した“他者の評価”に頼ってしまったところにあると、私は分析している。
 金メダル以前の高橋尚子には成功の尺度を自分の内面に求める強さが確かに感じられたのだ。だからこそ、金メダルという成功を手中にできたのだと私は思う。
 先週の名古屋のレース後に、高橋尚子は「まだ走り続ける」と宣言している。
どうか初心に帰って内面の強さを取り戻して、自分自身の成功のために走り続けることを祈るばかりである。

 さて、片や荒川静香であるが、まさに彼女の印象は一貫して“クール”である。いつ見ても研ぎ澄まされた表情をして、論理的な受け答えをする。金メダル前後で彼女の印象にまったく変化がない。確固とした自己を確立している人物である。
 彼女が媚を売るのはプロスケーターとしてリンクに立つ時のみである。マスメディアにも登場するのだが、彼女の場合マスメディアに決して踊らされていない。彼女の方がマスメディアを抜け目なく利用している様子が伝わってくる。
 金メダル獲得に関しても論理的に計算し尽くされたものであったらしい。点数競技であるフィギュアスケートで勝つための要素を自らこと細かく分析し尽くし、それを完璧にマスターしての金メダル獲得だったと見聞している。金メダル後のプロスケーターへの転身に関しても、その意思の固さたるやすばらしいものがあった。
 とにかく荒川静香はやることなすことに首尾一貫して確固とした自己があるのだ。私はこういう人物が好きだ。

 ついでに言うと、北京オリンピックで女子マラソン二連覇をめざす野口みずきであるが、この人にも荒川静香と共通点があると私は捉えている。成功の尺度を自分自身の内面で捉えている。浮ついたところが一切なく、研ぎ澄まされた自己が感じられる人物である。
 こういう人物こそ、私は応援したいのだ。北京オリンピックでの二連覇を陰ながらお祈りしよう。 
  
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