(冒頭写真は、今年の我が家のクリスマスパーティのために用意した フランス産シャルドネ ブリュット 白。)
こちらも同じく、フランス産ブルゴーニュ風エスカルゴ殻付き。
(参考だが、原左都子は上京直後よりエスカルゴが大好物だ!
事ある毎に、レストランで、あるいは輸入ものを買い求めて食している。)
ところが残念なことに、本日は娘が自宅テレワークなのだが。
この年末は業務が立て込んでいて、本日のテレワークも終了時間が夜9時を過ぎると言う。
残念だが、これらを食するのは明日以降に持ち越しだ。
ところで、近年は「クリスマス」を市民が騒がなくなった感がある。
それは、単に娘が成長した我が家の特徴なのか?
あるいは、ここ2,3年はコロナ禍のせいで、世界中がそれどころではないのだろうか???
いずれにせよ、既に高齢域に達している私なども、クリスマスなどどうでもよいのが本音だ。
と思っていたところ、本日の朝日新聞「天声人語」にクリスマスを巡る興味深い記事が記されていた。
早速、以下に一部を引用しよう。
大学時代の記憶では、クリスマスはつらい日々だった。 恋人と過ごさねばならないという空気があまりに強かったからだ。 相手のいない者同士で集まり、アパートで焼酎を飲んでいた。
とは言え、この日と恋愛を結びつけるのは、日本独特の習慣にすぎない。
たとえばアフリカのガーナでは、キリストの生誕にちなんで、助産婦をたたえている。
英国で19世紀に生まれたのが、本をプレゼントする習慣だ。 出版者はクリスマス前に特別な本を出すことに力を入れる。
地域により形を変え、商業主義だと批判されながらも続いてきたクリスマスである。 その柔軟さを思えば、日本流を恥じることも、日本流に縛られることもない。
一人で、好きな酒を飲むのもよし。
(以下略すが、以上朝日新聞本日付の「天声人語」より一部を引用したもの。
おそらく、この「天声人語」の筆者氏は、原左都子より若い世代の人物であろうと想像する。
少なくとも、我が郷里の一つ目の大学時代には、クリスマスに恋人と過ごさねばならないなる窮屈な「掟」は存在しなかったように記憶している。
それがやたらに“義務化”されたのは、我が上京後の2度目の大学生時代頃ではなかっただろうか??
とにかく既に青年期を過ぎていた私にとって、クリスマスの記憶はさほど無いなあ。
(豪語させていただくと)我が独身時代には“彼氏がいなかった時期”が皆無とも言えるため😜 、毎年どなたかと何らかの形でクリスマスを過ごしたのだろう。
特段クリスマスの日の記憶が無いのは、当時よりクリスマスだからと言って何らの思い入れも無かったから、と結論付けられそうだ。
皆様も、それぞれがそれぞれの立場に応じて、クリスマスの日を過ごされますように。