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原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

英語、英語と騒ぎ過ぎの気もするが…

2019年11月12日 | 教育・学校

 文科省大臣を筆頭に世間をも巻き込み、国家を挙げて「英語、英語」と大騒ぎしようが、英語ができる子(人)はできる、できない子(人)はできない。 と結論とは至って簡単なようにも思うのだが…

 

 これでは無責任過ぎる結論であろうため、本エッセイ集2012.09.24バックナンバー 「『英語』とはツールに過ぎない」の一部を以下に要約引用させて頂こう。

 私には、米国在住の実姉がいる。  30年程前に国際結婚で米国に渡り永住権を取得した後、かの地の某日本総領事館に通訳として勤務しつつ、「日本には何の未練も無い。私はこの国に骨を埋める!」と日本の家族に伝え続けている。

 姉は中学生の頃より、将来は「英語」分野に進むとの強靭な志望を抱いていた。  ところが何分過疎地のド田舎育ちのため、英語環境らしきものが周囲にほとんどない。 そんな逆境の中、我が姉は外国人神父氏がいるキリスト教会へ通い詰め自主的に英会話を学んだ。  そしてその後、姉は県内最高位進学校に進学を決めた後、第一志望だった某国立外国語大学に一発合格して更なる英語力を培っていく。

 時が経過して、姉がその大学を卒業後“フリーの通訳”となり日本国内で開催される国際競技大会やユニバーシアードレベルの通訳をこなしていたそんなある日の事だ。
 姉の日本人知人男性から厳しい指摘を受ける事と相成った。 ちょうどその席に居合わせた私は、その知人男性が言い放った言葉を今尚明瞭に記憶している。  「英語とはあくまでもツールに過ぎない。 ○子(姉のこと)がその英語力で将来一体何がしたいのか捉え処がない。 通常学問分野の専門力として英語を専攻した場合、その英語専門力をもってこそ自分の夢が描けたはずである。(例えば、国際会議レベルの同時通訳をしたい等々??) ところが○子の場合は未だにその夢の程が不明瞭だ。 単に外国に渡って生活をしたいレベルの英語力を欲していたのならば、それを学問として学ばなくとも事が足りたであろうに…。」
 この手厳しい指摘を聞いた私は、大いにガッテンしたものだ。 確かに姉の英語力の程(一応「英検1級」や「通訳検定」等の資格は取得しているが)とは、大学にて学問として「英語」を学んだ割には私の感想としても中途半端感が否めない有様だ。
 当時医学分野の民間企業で頑張っていた私だが、そんな私とて過去に学校で学んだ英語力を活かして仕事上医学英文論文を読むことなど日常茶飯事だった。 何も外国語大学を出ずとも、自分の専門分野ともなれば辞書を引きつつ論文を読むことに集中可能だ。  片や一旦外国語大学出身者ともなれば、学問としての「英語力」が社会から要求期待されるに決まっているではないか!   ただ我が姉が褒められるべきは、中学生の頃より長年自主的に培ってきている“英会話力”の程が、米国領事館での通訳力をはじめ米国での日常生活に於いて十分通用している事態である。 これはこと英語分野に於いては、私には真似の出来ない快挙と讃えるべきであろう。

  朝日新聞2012.11.21「英語をたどって」との連載記事の最終回記事内容と原左都子私論が一致するため、以下にその一部を要約して紹介しよう。
 日本人に英語力がない元凶に関して、「中高の教え方が悪い」と指摘する人が多い現実であろう。 さらには入試問題を考える大学も悪けりゃ、予備校も悪い。 いや、文科省こそが諸悪の根源だ。 TOEICを課す民間企業もバカなれば、英語教育産業とて同様の罪がある。 もっとも家庭の親どもが子どもに期待しすぎる。……
 そんなことを言っていてもきりがない。 
 東京大学某教授は、「日本人にとって英語はものすごく難しい言語である」と表明している。 文法、語順、発音、文字すべてにおいて日本語とはまったく異なる文化と背景を持つ言語であることを表明している。 しかも日本人にとって日常生活上英語はほとんど必要でもない現状だ。 にもかかわらず、何故これ程現在の日本の子ども達に英語を要求するのか?   日本の子ども達とて、読むのは好き、話すのなら任せて、書くのは得意。 そんなふうに、得意不得意があって当然だ。 日本語に於いてもそうなのに…。
 今回の連載では、主張したり議論したりする経験自体が日本人には不足しているのではないかとの取材をしてきた。
 英語教育をいくら勉強しても、そこに「言いたいこと」は書いていない。  言いたい事を言う力をまず鍛える。 日本語で出来ない事が英語で出来るはずはない。  (以上、朝日新聞記事より要約引用。)

 私論に入るが、まさに朝日新聞がおっしゃる通りだ。 
 日本国民皆が言いたい事を言える力こそを、まずは国政は鍛えるべく努力するべきである。 それを叶えた時点で、中高学校教育現場に於いて「英語コース」なるものを設けても遅くはなかろう。 (英語とは単に「ツールでしかない」ことを肝に銘じて欲しいものだ。)
 その上で大学に於ける学問としての「英語教育」に関しては、もっと専門力を上げる必然性があるのはもちろんの事だ。
 決して「英語」を大学(及び大学院)に於いて専門としていた訳ではないこの私など、今現在尚、数十年前に過疎地の中高で学んだ英語力のみで世界(とは言ってもまったく大したことはないが…)を渡ってきているぞ。
 年老いて英単語力が欠落している部分は「受験英単語集」を本棚から引っ張り出し紐解きつつ、結局は相手と話したい勢いのみで結構通じることを実感しながらのしがない英会話力範疇であるものの…

 (以上、「原左都子エッセイ集」2012年9月バックナンバーより一部を引用したもの。)

 

 最後に原左都子の結論を繰り返すが。

 上記バックナンバーにてすべての結論を述べているため、付け加えることもないのだが。

 まさに英語教育の中枢とは「中学英語」にあるのではないか?! との我が結論に揺るぎが無い。 要するに過去に於ける「読み書き」中心、「文法中心」英語教育こそが、その後の我が長き英語遍歴人生を支えてくれている感覚が今尚強靱だ。 これに加えて我が姉のごとく、主体的に英会話にも励めば尚よかったとのことだろう。 (今時は過去に比してそのチャンスはいくらでもあろう。 我が娘も中学高校にての6年間、英語のリスニング・スピーキング授業を通過し、高2時には「英検準2級」に合格している。)

 私は国内過疎県の出身者だ。 そこの中学校とてきちんと英語を教育可能な教員が存在したからこそ、その後高校・大学・大学院及び職業人と進んだ後も、読み書き英語に関しては何らの不都合もなかったものだ。

 中学英語を学習して50年の年月が流れた今尚、海外旅行へ出ても中学英語の学習力に頼り、発音は悪いものの現地の人々との簡単な英会話は何とかなっている。

 文科省が一体如何なる英語人材を育成したいのかに関しては、申し訳ないが既に娘が社会人として活躍している身にして私の知った事では無い。  ただ国民として、文科省としてのその英語政策の掴みどころがない事実こそが諸悪の根源だと思いませんか、皆さん?!? 

 “文科省と民間英語企業との癒着”や“下手な英語人材育成観点”より、今後の大学受験生や保護者及び大学現場等にこれ以上の混乱をもたらす事実こそを慎むべきなのは、私が言うまでも無い。