原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

国立国会図書館にブログを保存する必要性があるか??

2019年11月02日 | 時事論評

 我が「原左都子エッセイ集」は2007年9月の開設だが、その当初交流があった若き某男性ブロガー氏と、コメント欄で頻繁にやり取りをしていた。

 その方若いも若いって、当時未だ19歳の小説家を目指して活動している人物だったのだが。 何故かこの原左都子と気が合い、我がエッセイ集にいつも素晴らしい感性のコメントを記していただいたものだ。

 その方から頂戴したコメントを探してみたのだが、探すと見つからないものだ。  少し前頃「再掲載もの」を我がエッセイ集にて数本公開した中にもその方からのコメントがあったのに、残念ながら今ざっと探しても見つからない。 やむを得ないため我が記憶に頼り、その方から頂いたコメントより今回の表題テーマに沿ったコメントを紹介することにしよう。

 当時19歳小説家を目指していた男性が、文学的な表現でおっしゃるには… 

 「ブログとは日々流れ去り消えゆくもの… 」

 彼が言わんとした意味合いと私が捉えたその言葉の意味合いに、もしかしたら齟齬があったかもしれないが、私としてはその感性にいたく感動し同感させていただいたものだ。

 あれから12年余りが経過した現在に於いて、更にこの言葉こそが「ブログ」と言う媒体の存在の現実を言い当てている思いが強い。

 要するに、「ブログ」とは軽い(もっと厳しい表現をするならば)軽薄な存在であることに間違いないだろう。 とにかく蓄積性の無いブログが実に多い事。 書きっ放してお友達同士でポチポチ(よく言えば“交流”)し合っては、すぐに次へ行く。 そうしてまたポチポチし合ってそのポチ数に自己満足して、また次へ行く……

 そうではない「蓄積性のある記載物」を目指したい私は、つい最近も一人芝居で“悪あがき”しまくった。 結果として最終的に「私からの読者登録を最小限にする」との措置を採用したのだが、これ“正解だった”と今実感している。 実際私はブログを綴り公開するに当たり現在“自由度が上がった”感覚が強靭だ。

 

 その観点から、今回の表題に掲げたエッセイを綴ろう。

 朝日新聞2019.10.31朝刊記事を見て、我が目を疑った。 何故、国立国会図書館に「日々消え去る運命にある軽薄なブログ」などを保存せねばならないのか、と。

 ただこの記事に少し目を通すと、保存するのは「市川海老蔵氏による妻・小林麻央さんの闘病を綴ったブログ」や「プロ野球広島カープの鈴木ナンタラ選手のブログ」等42組に限定され、今月からHPで公開しているとのことだ。

 な~~~んだ、そう言う事か。 要するに著名人が公開している「オフィシャルブログ」とやらに限定している訳ね。 まあ、見たい人が見れば済む話って事か。

 当該朝日新聞記事によると、国立国会図書館にてネットデータを保存し始めたのは2002年に遡るとのことだ。 重要な情報を記録する場が紙からネットに移行しているのを受け、随時その措置をとっているらしい。 内容としては国や地方公共団体など公的機関のウェブサイトのデータは幅広く収集して保存しているとの記載だ。 民間のサイトについても、公共性や記録性の高いものを中心に集めているとの事でもある。  (ん???  海老蔵氏や野球選手のブログも公共性や記録性が高い、との国立国会図書館の判断か?????)

 まあ、いいだろう。 所詮図書類など、読みたい人・見たい人が選択して利用すればよい媒体だし。

 

 最後に参考だが。

 当該朝日新聞記事によれば。 出版物に関しては「納本制度」に基づき、すべての国内出版物は国会図書館に納入することが義務付けられている。 との記載だ。

 いやはや、これぞ怖いねえ。 

 ろくでもない図書を出版した輩がそれを取消したいと思えど、国立国会図書館に奉納され後世にまで恥を晒さねばならないとなれば… 

 自分が納得できるブログ記事を生命があるうちに現世にて公開し、自らが生命を閉じた暁には後の世にまで蔓延らない「ブログ」って、利用価値があるんじゃないかと再認識させられる!