原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「愛国心」の本音を問いたい

2019年11月13日 | 時事論評

 ここのところ「原左都子エッセイ集」 “Popular entories top 10" 内に、2012.09.24 公開の 「『愛国心』を騒ぎ立てる奴らの“愛”って一体何?」 がランクインしている。

 

 早速、当該バックナンバーの一部を以下に要約引用しよう。 

 冒頭から私見を述べると、その対象の如何にかかわらず 「愛」「愛」と騒ぎ立てる奴ら程「愛」の真の意味が理解できていなかったり、“薄っぺら”な「愛」を求めていたりする傾向がなかろうか?
 そもそも日本の伝統的歴史・文化に培われた日本人の気質の一つとして、「愛」という言葉を口から直接発する事に恥らったり多少の抵抗感すら抱く慎ましやかさが取り得であり、控え目かつ美しい人間関係を育んで来れたように私は記憶している。
 時代が移り変わり、現在に至っては 「愛しているよ!」 なんて一般人が軽々しく叫べるまでに日本文化は変遷しているのか??

 今回のエッセイを綴るきっかけを得たのは、朝日新聞9月19日「耕論」欄の 「愛国」 と題する記事を読んだことによる。
 まずは、その書き出しの全文を以下に紹介しよう。
 中国、韓国に甘い顔をするな。 国賊、売国奴は日本から出て行け。 子どもの命は国に捧げろ―。 それが本当に愛国なのか。 真の愛国者の言葉なのか。 愛国を考える。

 「原左都子エッセイ集」に於いても、つい先だって、「竹島、尖閣諸島は誰の財産か?」 と題する記事を綴り公開したばかりだ。
 そのエッセイ中で、原左都子が世に言う「愛国」云々に対応して以下のごとくの懸念をしているため引用する。
 8月中旬に韓国大統領が竹島に上陸した際、既に関連エッセイを綴り公開したかったにもかかわらず、何故に私らしくもなく弱気になり保留措置になどしたのかについて説明すると、ペンネームの「左」の文字が物語っている通り多少“左”志向故である。 この領土問題に関する8月当時の率直な私論をそのままエッセイ集にて公開したならば、「愛国心」旺盛な国民の皆さんより“袋叩き”に遭いそうな危機感を察知したからに他ならない…。

 ここで補足説明をさせていただくが、原左都子は決して「左翼」思想の持ち主ではない。 そんな大それた思想など一切ない、と言うよりも元々政治にはさほどの興味がない人間である。
 ただ、どうやら先天的に“天邪鬼気質”が備わっていることには間違いないようで、世の中に発生する多種分野の現象に関して人とは異なる観点の発想が自然と湧き出て来るのだ。 周囲の皆が大勢に迎合して盛り上がっているような場面においても、「いや、それはどうなのだろう?」「そうではない考え方もあるのではなかろうか?」等々あれこれ思考を巡らす脳内構造を幼い頃より持ち合わせているようだ。(だからこそ私は「集団(迎合)」が苦手である…)

 加えて(上記我がエッセイ集バックナンバーにメッセージを頂いた読者の方と話し合ったのだが)、ベルリンの壁崩壊以降、世界規模で情報が収集し易くなったお陰で個々人の情報収集に際しても障壁がなくなり、末端部分に於ける個々の自由評価が可能となった。 その結果、この世に「右翼」「左翼」思想が薄れたとの結論に至った。 (メッセージを頂戴した方には無断で本文中に転載させて頂いたことをお詫びします。)

 さて、上記朝日新聞「耕論」に掲載された 「愛国」 の記事に戻ろう。
 この記事では、立場が異なる3名の著名人の方々がそれぞれの見解を述べておられる。
 あくまでも原左都子にとって興味深い部分のみを抜粋することにより、上記“著名人”3者の「愛国」に対するご見解の一部を以下に紹介しよう。 
 まずは、新右翼団体「一水会」顧問の鈴木邦男氏。
 私は日本で一番の愛国者と自負しているが、「愛」とは欠点も失敗も認めた上で愛しいと思う心だと考える。 日本はアジア諸国に対し弁解しようもない失敗を犯してきた。それを認めず日本は正しかった、失敗を認めるのは反日的だと言いつのるのは愛国心ではない。 心の痛みが伴わない愛国心はフィクションに過ぎない。 大局的に国益を考え、中韓をやっつけろと騒ぐ世論を抑えるのが政治家の役割であるのに、国民と一緒になって騒いでどうする!?  本来「愛国心」とは家族への愛、故郷への愛、その延長に位置するものである。 しかし、最近は自分と国家を直接結びつけることが「愛国」と考えられている。 多様性、敵対性もすべて含めて抱きしめられる心こそが真の「愛国」だ。
 次に、作家の岩井志麻子氏。
 こないだ「竹島は日本の領土でしょ」って言って、韓国の新聞に「極右作家」と書かれた。 我が夫は29歳の韓国人である。 (大幅中略)  そもそも、よその国をおとしめて自国を愛するという「愛国心」は、ようないと思う。 あなたの国はよい国ですね、うちの国も良い国ですよ、と言った方が母国の良さが相手に届くでしょう。 それこそ真の「愛国」じゃないですか。よその国を尊重する気持ちがない人が、「愛国心」を名乗ちゃいけんのじゃないですかね。
 3人目は、衆院議員の亀井静香氏。 
 国を愛するということは当たり前のことであるから、自分達の郷土を素晴らしいものにしていく努力をするのが「愛国」。 こんな当たり前のことが強調される時は何かよこしまな意図がある場合が多い。 戦前は政府がやろうとする事の正当性や必要性を国民に説明しないで「愛国」というある意味誰も抵抗できない言葉で正当化、美化し、人々を戦争に駆り立てた。それに従わない奴は「愛国心」がないと批判して。 隣国との領土問題に関しては仲良くするに勝る防衛はない。 にもかかわらず簡単な言葉で酔う時代だから、政治家が威勢のよいことを言っていれば国民が拍手してくれるし、マスコミも取り上げてくれる。 それで一時の人気を得てダメになったら別の人間が同じような事を繰り返す。 賽の河原みたいなもんだ。

 上記3名の“著名人”のご意見を拝見すると、その立場は大幅に異なれど、皆さん“一応”原左都子が思い描く「愛国心」と同一の見解を述べておられる。
 これらの見解を総合的に考察した場合、「愛国心」とのテーマに関して現在はまさに「右翼」「左翼」の垣根を越えて統一見解が得られそうな時代と成り行く感覚を抱く。

 ここで今一度、私が同感する「原左都子エッセイ集」バックナンバーで紹介した朝日新聞「声」欄 60歳男性の投書を紹介しよう。
 力関係による領土問題の解決は将来までしこりを残し、本当の解決にはつながらない。 しかも偏狭なナショナリズムは繰り返し報道されることによって一気に沸騰しコントロールが効かなくなる。 日本が力によって領土問題を解決する道を選択するのなら、日米軍事同盟は一層緊密になり緊張状態を絶えず強いられることになる。 領土問題はあくまでも時間をかけて話し合うべきだ。本質的な解決に至るまでは「棚上げ」にして漁業問題や海洋資源問題の暫定的な取り決めをすればいいと思う。

 尖閣諸島日本国有化に反発して、中国現地日本企業に火炎瓶を投げるとの暴力行為に出ている中国人若者の中には、「周囲が反日感情で盛り上がっているからそうしているが、尖閣諸島が何処の領土なのかは分からない…」との正直な談話も聞こえているそうだ…

 「愛国心」の真の意味合いとは何なのか?
 これは、“ベルリンの壁崩壊後”に於ける全世界の国家指導者の指導力こそが問い直されるべく課題であろう。

 (以上、本エッセイ集2012年9月バックナンバーより一部を引用したもの。)


 2019年11月、今現在の我が私論を語ろう。

 香港に於ける争いを見るに忍びない思いだ。 

 私は若かりし過去に“イギリス領”だった香港を旅した経験がある。 観光のみならず、経済面でも活気付いた香港の姿を垣間見てきている。

 あんなに素晴らしい観光地だった香港を、一体全体中国はどうしたいと言うのか!??

 香港の若者達は、「今まで通りの“自由な香港であって欲しい!!”」と訴えていると私の耳は捉えている。(若者達の闘い方が未熟である事実は私も認めるものの…)

 そんな切なる若者達の思いを断絶し命を奪うまでの闘いを繰り広げて、中国側に如何なる利益がもたらされると言いたいのか!

 原左都子のあくまでも愚かな私論に過ぎないが…   この香港での闘いに関し、私は若者達の香港に対する「愛国心」にこそ、軍配を挙げたい!


自分が辛いときに人に頼られると元気になるから不思議

2019年11月13日 | 自己実現

 ロードレースを全力疾走して疲れ果てている老体に、次々と難題が押し寄せる。

 高齢者施設暮らしの義母は、体調不良だと訴えてくる。 (あのーー。私も疲れていますが… )とは決して言わない。 認知症と難聴を抱える義母に電話口で「身体の何処がどうような状態ですか?」と大声を張り上げて問わねばならない。 

 こんな時に亭主も体調不良で、やはり私にその状態を話しに来る。 

 更にはこんな時に娘が残業続きで帰宅が遅い。 眠い目をこすりつつ娘の帰りを待ち、娘の夕食の隣で「今日はどうだった?」 等々とコミュニケーションをとる。

 ああーー、 参ったなあ。 こんな時に年賀状のシーズンだ。 過去の「筆ぐるめ」データは旧パソコンの壊滅的故障によりその全部を失っている。 住所録からすべてを入力し直しだ…

 

 そんな折に、本エッセイ集2017.02.27公開の「いつの間にやら“頼られる”人間を強要されていた」と題するバックナンバーがランクインしていた。

 早速以下に、要約引用させて頂こう。

 朝日新聞 別刷「be」 between のテーマは 「甘えられる人はいますか?」 だった。  これ、今の私にとって人から聞かれて一番辛い質問だ。  何故かと言えば、それが周囲に一人もいない事実こそが現在の私にとって一番の悩みであるためだ。

 いえいえ、決して「孤独」という訳ではない。  私に甘えたい(頼りたい、と表現するのが適切だが。)人間は家族を中心に複数存在する。

 たとえば、今朝も郷里の実母より電話が入った。
 3月2日から実母の高齢者施設を訪問する予定となっているが、その時に「何を持参して欲しい。到着したら何をして欲しい。……」云々の依頼内容だ。 「うん。前にも聞いているし、既に準備出来ているよ。」と私が応えると母は安心した様子だ。 
 その留守中一人で自宅で暮らさざるを得ない亭主からも、「〇子(私の事)は2日の何時に出発だっけ? 帰りは何時頃になる?」とこれまた繰り返しの質問。 それに応えて、「2日は午前中の出発だし、帰りの日の帰宅時間は夜11時を過ぎるよ。 その分の食費を渡しておくから、一人でちゃんと食事するのよ。」とまるで子供に言い聞かせるように指導せねばならない。
 今回は、娘が職場の有給休暇を取れるとの事で同行するため、娘の心配は不要だ。 「郷里の施設のお婆ちゃんの世話は私がするから、貴方はせっかくの旅行なんだから自分が好きな場所を観光して楽しみなさい。」と促しても、どうやら私と一緒に行動したい様子だ…
 まったくもって軟弱家族を抱えると短期間旅行に出るのも大変であることを、いつもの事ながら実感させられる。

 私自身はそもそも「人に甘える」人格だったと振り返る。
 特に幼少時代より子供の頃は、とにかくスキンシップを愛好する子どもだった。 家族等々周囲の誰にも自然ともたれかかったり手を繋いだりしていた記憶がある。
 あるいは友達の女の子達と手を繋ぐのも好きで、それを小学校高学年までしていた記憶がある。 ある時友人から「女同士で手を繋ぐと変な関係と思われるからやめた方がいいよ」と指摘された時には、(確かにそうだなあ)と悟ったものだ。
 時は流れ大人になり、上京して仕事や学問に励み職場の長に任命されても、私は「人に甘える」との手段により自身の心の平穏を保ちつつ、自己実現を繰り返して来た感覚がある。
 周囲に“甘えさせてくれる”人材を集める事が得意技だった気もする。 そういう人物(そのほとんどが男性)と仲良くなる事に長けていたと言うのか… 
 まさにそのお陰をもって、我が“長き華の独身栄光の時代”を謳歌出来たのであろう。

 時代そのものが変遷して、私も年齢を重ねた。  我が栄光の時代は当の昔に過ぎ去った事は自覚しているものの、何故生来的に「甘え上手」な私が「人に頼られる」身とならねばならぬのか、不可思議に思ったりもする今日この頃だ。

 そんな折に、冒頭の朝日新聞記事を見た。
 ここで、「甘えられる人がいるか?」の回答結果を発表するならば。  「はい」が56%、「いいえ」が44% との結果だ。  おおー、意外と「いいえ」も多いじゃないか!と身勝手に安堵しつつ、その詳細を記載しよう。

 「はい」と回答した人物のほとんどが誰に甘えているのかと言えば、「夫・妻」との結論だ! (おそらく回答者に高齢者が多いのだろう。)   私など「本気かよ!?」と言いたいところだし、これ、高齢者ご夫婦にとってはその後に「孤独」の危険性が燦然と待ち構えているのではなかろうかと、危惧感すら抱く。

 片や、「いいえ」と回答した人達の回答内容は多彩だ。
 「(甘える相手に)迷惑を掛けると思い、引いてしまう。」
 「気安い関係になれない。」
 「自立していたい。」 
 「借りはつくりたくない。」 
 「甘え方がわからない。」
 
 そんな「いいえ」の人々に尋ねた「本当は、誰かに甘えたいか?」なる質問の回答とは。
 「はい」が45%。  「いいえ」が55%。

 原左都子の私事及び私論でまとめよう。

 今回の朝日新聞の質問回答に関しては、一貫して「いいえ」と応えたい。  特に今現在の私は、上記「いいえ」回答内の、「(甘える相手に)迷惑を掛けると思い引いてしまう。」「自立していたい。」 「借りはつくりたくない。」 に同意する。
 「(人と)気安い関係になれない」に関しても、その思いも重々伝わる。 ただ私の場合は今置かれている自身の立場上、むしろ「(この人とは)気安い関係になってはならない」なる否定的感情が優先する場合が多いのかもしれない。 
 「甘え方がわからない」に関しては、むしろ「甘え方自体は分かっちゃいるが(この相手には)遠慮するべき」なる冷静さを優先するのは当然の事だろう。 

 それにしても、人と人との関係が何とも希薄化してしまった我が国の現状だ。 いや、それは国際レベルで同様だろう。
 これ程までに国際規模でテロが勃発する時代と化し、国内に於いてもストーカー殺害事件等々人と人が傷つけ合う事件が多発している現状下に置いて、他者に安易に甘えている場合ではない事も明らかだ。
 そんな逆境下に於いて、一番の身内である「夫・妻」こそが最高に甘えられる相手!?、と結論付けた朝日新聞記事の信憑性もあろうかと考えたいが、その生活範囲や思考の狭さに寂しさや“歪み”すら感じるのは私だけだろうか…。
 ただ、これぞ朝日新聞読者が高齢化している事実を証明したようなものとも言えるよなあ。

 (以上、本エッセイ集2017.02バックナンバーより一部を引用したもの。)

 

 いや実際、私に依存してくれる人間が近き周囲にいるとの事実は、恵まれた状況なのだろう。

 多少疲れていようがその対応に追われているうちに頭が回転し始め、身体も元気を取り戻すから不思議だ。

 ああーー。 一番鬱陶しいのは年賀状かな。 これを機会に極力差し出し人数を抑えて、いずれ年賀状廃止に持ち込む好機かもしれない。

 (と言いつつこのエッセイをわずか10分でまとめ、公開に持ち込む凄腕・素早さに我ながら感心する!)