学校が2学期に入り、自宅に程近い小学校から否応なくチャイムや放送の音声が日々聞こえてくる環境下に置かれている。
さて本日の再掲載ものは、表題の通り幼児の話題だ。
それでは早速、2017.04.24公開の上記表題エッセイを再掲載させていただこう。
私が住む集合住宅南面ベランダ側が、幼稚園バスの停留所となっている。
4月の新学期が始まった2、3週間程前からだろうか。
毎朝午前9時15分頃より、幼稚園バス停留所から幼児の泣き叫ぶ声が我が家の室内までけたたましく響き渡る。
「幼稚園バスに乗るのが嫌だ!」「幼稚園へ行かない!」 「ママが好きだ!」 「ママがいい! ママと一緒にいる!!」
そんな幼児の“命からがら”の訴えを完全無視して、幼稚園バスはママから幼児を引き剥がしバス内に強制収容して連れ去っていく……
この"惨たらしい”までの仕打ち” に耐え切れず、私は日々幼児と共に涙している。
そして、今日こそ下の停留所へ行って幼児を救おう! と決断しかけては、「他人が出過ぎた真似をしてはならないよなあ…」と思い直し諦める日々だ。
物心ついて間もないかと思しき幼児相手に日々こんな惨劇を繰り返していると、幼児の人格を歪め後々までトラウマとなってしまいやしないか…。
と、本気で頭を悩ませる私自身の私事と私論に入ろう。
私自身は元々集団嫌いの気質があったものの、幼き頃よりどういう訳か客観力が育っていて理性で自我を押し殺す事を暗黙の内に学んでいた事もあり、自分の意に反してひたすら真面目に健気に幼稚園や小学校へ通ったものだ。
片や、我が姉は全く異なった。
“集団嫌い”という面では私と同質なのだが、姉は自分の感情を常に素直に表出していた。 毎朝「幼稚園へ行かない!」と母に告げつつ泣きじゃくっていたことを記憶している。
ただ我が姉の素晴らしさは、その嫌悪感を実行に移した事だ。 一度、姉が4歳頃に幼稚園から一人で家まで帰って来たことがある。 それをこっそり後から付けて来てくれた幼稚園の先生が、姉が庭に干してあった布団の間に隠れているところを発見して、「どんなに上手に隠れても、可愛いあんよが見えてるよ♪♪」と歌ってくれたとのエピソードは、我が家で後々まで語り継がれている美談だ。
小学校へ入っても姉は、学校から途中で一人で家へ帰るとの(私には真似が出来ない)“実力行使”を何度かやり遂げていたものだ。
今に至って尚自我が強く自分の心に素直に生き抜いている姉は、国際結婚にて米国に渡った後、「2度と嫌いな日本の地を踏まない!!」意思が強靭だ。 その徹底した日本嫌いは、学校等が全生徒に集団生活を強要する日本の教育体質に馴染めなかったことに苦しめられた怨念かと、私は理解している。
我が娘に話を移そう。
娘の場合、これまた事情が大きく異なる。 若干の事情を持ってこの世に生まれ出ざるを得なかった娘のサリバン先生として、母である私は娘幼き頃よりずっと二人三脚でかかわって来ている。
専門家筋からも相談・指導を受けつつ、某相談所にて「幼稚園へ早めに行かせた方が今後小学校へ上がるに当たって娘さんのためにプラスになる」とアドバイスを頂いたのだ。
これに大いに迷ったサリバンだ。 何分、娘の能力が何ら開花していない時期だった。 もう少し母であるサリバンの手元に置いて、私が1対1で一心に育てたいとの思いが強靭だった。 それでも専門家筋のアドバイスを尊重し、結局3歳時に娘を幼稚園へ入園させた。
結論としては、すぐさまいじめに遭うわ、幼稚園教員との意見はすれ違うわ、途中幼稚園転園を余儀なくされるわ、でサリバンとしては散々要らぬ苦労をさせられたとのマイナスの思いしか残っていない。
それでも素晴らしかったのは、我が娘が一日足りとて幼稚園へ行くのを嫌がるでもなく泣き叫ぶでもなく、サリバン指導に素直に従順に3年間に及ぶ幼稚園通いを全うしてくれた事実だ。
そんな娘に比較的最近、サリバンとして問うた事がある。
「貴女は本当に素直に幼稚園通いをしたのだけど、あの時どんな感情に基づいてそうしてくれたの?」
既に成長を遂げている娘が応えて曰く、「何も覚えていないと言うのか、何のために幼稚園へ行っているかとか、とにかく何も分からずにただお母さんが連れて行ってくれるから行った。 本当にまったく何も分からずに行った。」
この娘の回答に心底安堵した私だ。 結局、娘が生来的に抱えている事情に助けられる思いさえ抱く。
と言いう事は、娘が過去に受けた「いじめ」や「周囲の無理解」に対しても、サリバン母が懸念し今尚心を痛めている程には、本人にとっては鮮明な記憶がないという事なのだろう。
サリバンの方針として、こんな娘の特質を再認識しつつ、今後共良き社会人生活を全うさせてやりたいものだ!
さて、議論を表題の「幼稚園バスへ乗るのが嫌だ!」と泣き叫ぶ幼児に戻そう。
この幼児は我が娘とはまったく異なり、元々何らの瑕疵なくこの世に生まれ出た“お利口さん”の様子だ。
そして、「ママが好き。いつもママと一緒にいたい!!」 なる自己のポリシーが明白でもある。
そんな自分の感情を素直に表現出来る幼き子供を、何故、その叫び声に背いてまでも幼稚園バスに乗せる必然性があるのだろう!?!
もしも、この幼児のお母様が現在自宅で養育可能な環境にあるのならば、是非ともご自宅で幼児が大好きなママとの時間を共有して欲しいものだ。
日本の旧態依然とした(特に幼児分野教育学者)からの得体の知れない“集団主義教育”の言い分など聞き捨てては如何か? (我が国に於いては、森友学園問題が発生したばかりだろう??)
泣き叫ぶ可愛い我が子を力づくで幼稚園へ預けるよりも、親自らが自身が培ってきた豊かな教育を成した方が、よほど子どもの未来があるのではないかと私は訴えたい。
(以上、2017年4月バックナンバーより再掲載したもの。)
このエッセイに関しては、後日談がある。
単なる偶然なのだろうが、この男の子はその後すぐに幼稚園通いをやめたようだ。
その理由の程は測り知れないが。 我が記述通り、親が本人の意思を尊重したものと期待したい。
あれから2年半が経過し、この男の子はおそらく小学生になっているものと想像する。
あの時、毎朝あれ程明瞭に自分の意思を母親に伝えていた子だ。 きっと成長と共にその利発さが表面化し、立派な小学生になっている事だろう。
子ども達よ、頑張れ!!
さて本日の再掲載ものは、表題の通り幼児の話題だ。
それでは早速、2017.04.24公開の上記表題エッセイを再掲載させていただこう。
私が住む集合住宅南面ベランダ側が、幼稚園バスの停留所となっている。
4月の新学期が始まった2、3週間程前からだろうか。
毎朝午前9時15分頃より、幼稚園バス停留所から幼児の泣き叫ぶ声が我が家の室内までけたたましく響き渡る。
「幼稚園バスに乗るのが嫌だ!」「幼稚園へ行かない!」 「ママが好きだ!」 「ママがいい! ママと一緒にいる!!」
そんな幼児の“命からがら”の訴えを完全無視して、幼稚園バスはママから幼児を引き剥がしバス内に強制収容して連れ去っていく……
この"惨たらしい”までの仕打ち” に耐え切れず、私は日々幼児と共に涙している。
そして、今日こそ下の停留所へ行って幼児を救おう! と決断しかけては、「他人が出過ぎた真似をしてはならないよなあ…」と思い直し諦める日々だ。
物心ついて間もないかと思しき幼児相手に日々こんな惨劇を繰り返していると、幼児の人格を歪め後々までトラウマとなってしまいやしないか…。
と、本気で頭を悩ませる私自身の私事と私論に入ろう。
私自身は元々集団嫌いの気質があったものの、幼き頃よりどういう訳か客観力が育っていて理性で自我を押し殺す事を暗黙の内に学んでいた事もあり、自分の意に反してひたすら真面目に健気に幼稚園や小学校へ通ったものだ。
片や、我が姉は全く異なった。
“集団嫌い”という面では私と同質なのだが、姉は自分の感情を常に素直に表出していた。 毎朝「幼稚園へ行かない!」と母に告げつつ泣きじゃくっていたことを記憶している。
ただ我が姉の素晴らしさは、その嫌悪感を実行に移した事だ。 一度、姉が4歳頃に幼稚園から一人で家まで帰って来たことがある。 それをこっそり後から付けて来てくれた幼稚園の先生が、姉が庭に干してあった布団の間に隠れているところを発見して、「どんなに上手に隠れても、可愛いあんよが見えてるよ♪♪」と歌ってくれたとのエピソードは、我が家で後々まで語り継がれている美談だ。
小学校へ入っても姉は、学校から途中で一人で家へ帰るとの(私には真似が出来ない)“実力行使”を何度かやり遂げていたものだ。
今に至って尚自我が強く自分の心に素直に生き抜いている姉は、国際結婚にて米国に渡った後、「2度と嫌いな日本の地を踏まない!!」意思が強靭だ。 その徹底した日本嫌いは、学校等が全生徒に集団生活を強要する日本の教育体質に馴染めなかったことに苦しめられた怨念かと、私は理解している。
我が娘に話を移そう。
娘の場合、これまた事情が大きく異なる。 若干の事情を持ってこの世に生まれ出ざるを得なかった娘のサリバン先生として、母である私は娘幼き頃よりずっと二人三脚でかかわって来ている。
専門家筋からも相談・指導を受けつつ、某相談所にて「幼稚園へ早めに行かせた方が今後小学校へ上がるに当たって娘さんのためにプラスになる」とアドバイスを頂いたのだ。
これに大いに迷ったサリバンだ。 何分、娘の能力が何ら開花していない時期だった。 もう少し母であるサリバンの手元に置いて、私が1対1で一心に育てたいとの思いが強靭だった。 それでも専門家筋のアドバイスを尊重し、結局3歳時に娘を幼稚園へ入園させた。
結論としては、すぐさまいじめに遭うわ、幼稚園教員との意見はすれ違うわ、途中幼稚園転園を余儀なくされるわ、でサリバンとしては散々要らぬ苦労をさせられたとのマイナスの思いしか残っていない。
それでも素晴らしかったのは、我が娘が一日足りとて幼稚園へ行くのを嫌がるでもなく泣き叫ぶでもなく、サリバン指導に素直に従順に3年間に及ぶ幼稚園通いを全うしてくれた事実だ。
そんな娘に比較的最近、サリバンとして問うた事がある。
「貴女は本当に素直に幼稚園通いをしたのだけど、あの時どんな感情に基づいてそうしてくれたの?」
既に成長を遂げている娘が応えて曰く、「何も覚えていないと言うのか、何のために幼稚園へ行っているかとか、とにかく何も分からずにただお母さんが連れて行ってくれるから行った。 本当にまったく何も分からずに行った。」
この娘の回答に心底安堵した私だ。 結局、娘が生来的に抱えている事情に助けられる思いさえ抱く。
と言いう事は、娘が過去に受けた「いじめ」や「周囲の無理解」に対しても、サリバン母が懸念し今尚心を痛めている程には、本人にとっては鮮明な記憶がないという事なのだろう。
サリバンの方針として、こんな娘の特質を再認識しつつ、今後共良き社会人生活を全うさせてやりたいものだ!
さて、議論を表題の「幼稚園バスへ乗るのが嫌だ!」と泣き叫ぶ幼児に戻そう。
この幼児は我が娘とはまったく異なり、元々何らの瑕疵なくこの世に生まれ出た“お利口さん”の様子だ。
そして、「ママが好き。いつもママと一緒にいたい!!」 なる自己のポリシーが明白でもある。
そんな自分の感情を素直に表現出来る幼き子供を、何故、その叫び声に背いてまでも幼稚園バスに乗せる必然性があるのだろう!?!
もしも、この幼児のお母様が現在自宅で養育可能な環境にあるのならば、是非ともご自宅で幼児が大好きなママとの時間を共有して欲しいものだ。
日本の旧態依然とした(特に幼児分野教育学者)からの得体の知れない“集団主義教育”の言い分など聞き捨てては如何か? (我が国に於いては、森友学園問題が発生したばかりだろう??)
泣き叫ぶ可愛い我が子を力づくで幼稚園へ預けるよりも、親自らが自身が培ってきた豊かな教育を成した方が、よほど子どもの未来があるのではないかと私は訴えたい。
(以上、2017年4月バックナンバーより再掲載したもの。)
このエッセイに関しては、後日談がある。
単なる偶然なのだろうが、この男の子はその後すぐに幼稚園通いをやめたようだ。
その理由の程は測り知れないが。 我が記述通り、親が本人の意思を尊重したものと期待したい。
あれから2年半が経過し、この男の子はおそらく小学生になっているものと想像する。
あの時、毎朝あれ程明瞭に自分の意思を母親に伝えていた子だ。 きっと成長と共にその利発さが表面化し、立派な小学生になっている事だろう。
子ども達よ、頑張れ!!