(写真は、大震災発生時における都心の交通規制図。 2015年の運転免許証更新時に東京都公安委員会から配布されたパンフレットに記載されていたもの。)
我が家は、上記交通規制図に書かれている環七(環状七号線)に程近い場所にある。
6年前の2011年3月11日、この環七通りを中心に都心部の主要道路は膨大な数の帰宅難民で溢れパニック状態に陥った。
6年前の大震災当日のレポートに戻ろう。
(既に当エッセイ集内で幾度となく大震災の日のレポートを繰り返しているため、反復する部分も多い事をお断りしておく。)
震災発生直後より高層住宅上階部に位置する我が家では、本震・余震と大揺れ状態が何度も繰り返された。
耐震措置を施していたため家具の転倒こそは免れたものの、本棚や食器棚の戸が開いて中身が飛び出すわ、机の引き出しも開くわ、棚の上の物品がすべて床に放り飛ばされるわ、机や椅子が3、40㎝程移動するわ…… 生まれて初めて経験する我が家の惨状の恐怖におののきつつ、我が身を守るためとりあえず室内の安全な場所に立つ(座ると物が頭に落ちてくるようで怖かった)ことしか出来ない私だった。
本震の大揺れが収まった頃、私は一時少しだけ我を取り戻した。
まずは火の確認。 次に避難を視野に入れ、玄関とベランダ方面の窓が開くかどうかの確認。(と言うより、ベランダ側の大窓は鍵をかけていなかったため大揺れにより既に開いた状態だった。こんな大きな重い窓が開いている事実にまたもや恐怖心を煽られつつ。)
そして、ベランダから周囲の状況を偵察した。 もしも火災が発生していたり崩壊している建物等がある場合、すぐさま避難体制に入らねばならない故だ。
すべてがOKだった事を確認後、私は半端ではない揺れの余震が繰り返す中、自分の力で動かせる家具を元の位置に戻したり、各部屋の床に散乱した物を片付ける作業に入った。 もしも、当時高校生だった娘が早い時間に帰宅した場合、室内を一見して恐怖心を植え付ける事態を少しでも回避したい母心だった。
ところが、その娘と連絡が一切取れない。
16時半を回った頃だろうか? やっと、パソコンメールから学校にいる娘と連絡が取れた。
我がメールに応える形で娘から返って来た返信によれば、「学校では父兄が迎えに来た生徒から順に帰している。 その他の生徒は学校に留まっている。」 我が家には学校から何らの連絡も届いていないのだが、娘が伝えるその様子はガッテンした。
ただ、テレビ報道は東北地方の巨大津波の情報を流すばかり。 一番知りたい地元東京のニュースが入手しにくい。 そうだ、ラジオだ、と思いつきスイッチをいれても、午後4時程の時間帯は巨大津波のニュース一辺倒だ。 その後、テレビもラジオもパソコンもつけっ放しにしておいたのだが…。
夜が近づき、やっと首都圏交通網のすべてが大震災の打撃を受け運転休止状態であることが判明した。 しかも幹線道路も大渋滞との報道。 参考のため、我が娘は首都圏交通網の電車3本を乗り継いで高校へ通っていた。 ここは下手に娘を迎えに行くよりも、もしも学校が生徒を一夜学校に留めてくれるのならば、交通網壊滅状態のこの大混乱の中、娘も母の私も一番無事に夜を明かせるのではないかと結論付けようとしていた。
19時が過ぎた頃、娘から「未だ父兄が学校へ迎えに来ない生徒は体育館で夜を明かす」との連絡が入った。 安堵した私は、「学校がそうしてくれるならば、それが一番安全だと考えるからそれに従いなさい」と指示し、娘は素直に体育館で一夜を明かしてくれた。
さて後日談だが、娘が言うには大震災当日学校へ迎えに来なかった親は全体の1割弱だったとの話だ。
他の親は、たとえ翌日の朝になろうが道路大渋滞を耐えて自分の娘(参考のため女子校だが)を学校まで迎えに来たらしい。
大震災直後、これが“美談”として学校職員や生徒の間で語られたらしい。 その一方、迎えに行かなかった親どもは“冷血非常識親”として差別的に扱われるような風潮があったとも娘から見聞している。 そうか、私も冷血非常識親か。
それを一部受け入れつつも、大震災時の対応を特に交通網断絶状態の首都圏に於いて如何になすべきかの大きな課題を私は考察し続けていた。
確かに、あの日「帰宅難民」で溢れる道路を身の危険を受け入れ歩いてでも、娘を学校まで迎えに行く気があれば行けたのかもしれない。 今後娘在学中に大震災が再び発生したら、意地でもそうする!とも娘と話し合ったりもした。
ただ大震災の破壊力とは、個人の“意地”や“体裁”で片付けられる程容易い性質のものではないことを把握するべきだと考える私は、悶々とし続けていた。
学校へ誰が迎えに来た?、誰が迎えに来なかった?等々のせせこましい親同士の潰し合い感情論ではなく、少しでも多くの人間が助かる手段を採用する事こそが大震災時に要求されるべき方策だろう。
そうこう考えていたところ、3月11日の震災発生後比較的早い時期に、行政より「震災時の大都会交通網大混乱に関する対応策」が発表された。
それによれば、大震災時には通勤者や通学者を現地に留めるとの方針が前面に出されるに至った。
これを受け我が娘が当時通っていた高校からも、「今後発生する大震災時には、生徒皆を学校に留める」方針文書が配布されるに至った。
冒頭の写真は、その後更に年月を経た後に東京都公安委員会が提出した「大災害時の都心部道路の交通規制図」だ。
これを発表したのには、様々な理由があるようだ。 災害発生時の膨大な数の“帰宅難民”対策のみならず、当該都心地域に火災が発生した場合等の早急な対策を主眼としている事実を私は把握している。
東日本大震災発生から既に6年の年月が流れた。
その間に、如何程の復興がなされたのか…
特に福島原発事故を思えば、未だ何らの解決がなされないどころか、原発再開を掲げる安倍政権の下に現地の汚染状況や甲状腺癌の実情がひた隠しにされている始末…。
何年たっても劣化した仮設住宅で暮らさざるを得ない地元の人達の嘆き…。
未だに発見されない行方不明者の数々…。
現地の被災者皆様のご心痛の程を重々お察ししつつ、6周忌を迎えた本日、我がエッセイ集では大都会東京が抱える事情のみをピックアップさせて頂いた事実を心よりお詫び申し上げます。
我が家は、上記交通規制図に書かれている環七(環状七号線)に程近い場所にある。
6年前の2011年3月11日、この環七通りを中心に都心部の主要道路は膨大な数の帰宅難民で溢れパニック状態に陥った。
6年前の大震災当日のレポートに戻ろう。
(既に当エッセイ集内で幾度となく大震災の日のレポートを繰り返しているため、反復する部分も多い事をお断りしておく。)
震災発生直後より高層住宅上階部に位置する我が家では、本震・余震と大揺れ状態が何度も繰り返された。
耐震措置を施していたため家具の転倒こそは免れたものの、本棚や食器棚の戸が開いて中身が飛び出すわ、机の引き出しも開くわ、棚の上の物品がすべて床に放り飛ばされるわ、机や椅子が3、40㎝程移動するわ…… 生まれて初めて経験する我が家の惨状の恐怖におののきつつ、我が身を守るためとりあえず室内の安全な場所に立つ(座ると物が頭に落ちてくるようで怖かった)ことしか出来ない私だった。
本震の大揺れが収まった頃、私は一時少しだけ我を取り戻した。
まずは火の確認。 次に避難を視野に入れ、玄関とベランダ方面の窓が開くかどうかの確認。(と言うより、ベランダ側の大窓は鍵をかけていなかったため大揺れにより既に開いた状態だった。こんな大きな重い窓が開いている事実にまたもや恐怖心を煽られつつ。)
そして、ベランダから周囲の状況を偵察した。 もしも火災が発生していたり崩壊している建物等がある場合、すぐさま避難体制に入らねばならない故だ。
すべてがOKだった事を確認後、私は半端ではない揺れの余震が繰り返す中、自分の力で動かせる家具を元の位置に戻したり、各部屋の床に散乱した物を片付ける作業に入った。 もしも、当時高校生だった娘が早い時間に帰宅した場合、室内を一見して恐怖心を植え付ける事態を少しでも回避したい母心だった。
ところが、その娘と連絡が一切取れない。
16時半を回った頃だろうか? やっと、パソコンメールから学校にいる娘と連絡が取れた。
我がメールに応える形で娘から返って来た返信によれば、「学校では父兄が迎えに来た生徒から順に帰している。 その他の生徒は学校に留まっている。」 我が家には学校から何らの連絡も届いていないのだが、娘が伝えるその様子はガッテンした。
ただ、テレビ報道は東北地方の巨大津波の情報を流すばかり。 一番知りたい地元東京のニュースが入手しにくい。 そうだ、ラジオだ、と思いつきスイッチをいれても、午後4時程の時間帯は巨大津波のニュース一辺倒だ。 その後、テレビもラジオもパソコンもつけっ放しにしておいたのだが…。
夜が近づき、やっと首都圏交通網のすべてが大震災の打撃を受け運転休止状態であることが判明した。 しかも幹線道路も大渋滞との報道。 参考のため、我が娘は首都圏交通網の電車3本を乗り継いで高校へ通っていた。 ここは下手に娘を迎えに行くよりも、もしも学校が生徒を一夜学校に留めてくれるのならば、交通網壊滅状態のこの大混乱の中、娘も母の私も一番無事に夜を明かせるのではないかと結論付けようとしていた。
19時が過ぎた頃、娘から「未だ父兄が学校へ迎えに来ない生徒は体育館で夜を明かす」との連絡が入った。 安堵した私は、「学校がそうしてくれるならば、それが一番安全だと考えるからそれに従いなさい」と指示し、娘は素直に体育館で一夜を明かしてくれた。
さて後日談だが、娘が言うには大震災当日学校へ迎えに来なかった親は全体の1割弱だったとの話だ。
他の親は、たとえ翌日の朝になろうが道路大渋滞を耐えて自分の娘(参考のため女子校だが)を学校まで迎えに来たらしい。
大震災直後、これが“美談”として学校職員や生徒の間で語られたらしい。 その一方、迎えに行かなかった親どもは“冷血非常識親”として差別的に扱われるような風潮があったとも娘から見聞している。 そうか、私も冷血非常識親か。
それを一部受け入れつつも、大震災時の対応を特に交通網断絶状態の首都圏に於いて如何になすべきかの大きな課題を私は考察し続けていた。
確かに、あの日「帰宅難民」で溢れる道路を身の危険を受け入れ歩いてでも、娘を学校まで迎えに行く気があれば行けたのかもしれない。 今後娘在学中に大震災が再び発生したら、意地でもそうする!とも娘と話し合ったりもした。
ただ大震災の破壊力とは、個人の“意地”や“体裁”で片付けられる程容易い性質のものではないことを把握するべきだと考える私は、悶々とし続けていた。
学校へ誰が迎えに来た?、誰が迎えに来なかった?等々のせせこましい親同士の潰し合い感情論ではなく、少しでも多くの人間が助かる手段を採用する事こそが大震災時に要求されるべき方策だろう。
そうこう考えていたところ、3月11日の震災発生後比較的早い時期に、行政より「震災時の大都会交通網大混乱に関する対応策」が発表された。
それによれば、大震災時には通勤者や通学者を現地に留めるとの方針が前面に出されるに至った。
これを受け我が娘が当時通っていた高校からも、「今後発生する大震災時には、生徒皆を学校に留める」方針文書が配布されるに至った。
冒頭の写真は、その後更に年月を経た後に東京都公安委員会が提出した「大災害時の都心部道路の交通規制図」だ。
これを発表したのには、様々な理由があるようだ。 災害発生時の膨大な数の“帰宅難民”対策のみならず、当該都心地域に火災が発生した場合等の早急な対策を主眼としている事実を私は把握している。
東日本大震災発生から既に6年の年月が流れた。
その間に、如何程の復興がなされたのか…
特に福島原発事故を思えば、未だ何らの解決がなされないどころか、原発再開を掲げる安倍政権の下に現地の汚染状況や甲状腺癌の実情がひた隠しにされている始末…。
何年たっても劣化した仮設住宅で暮らさざるを得ない地元の人達の嘆き…。
未だに発見されない行方不明者の数々…。
現地の被災者皆様のご心痛の程を重々お察ししつつ、6周忌を迎えた本日、我がエッセイ集では大都会東京が抱える事情のみをピックアップさせて頂いた事実を心よりお詫び申し上げます。