鶴見俊輔氏が7月に亡くなられて以降、様々な分野の“見識者”氏達が新聞紙上等々にて鶴見氏に対する敬弔の念を語っておられる記事に出くわす。
鶴見 俊輔(つるみ しゅんすけ、1922年〈大正11年〉6月25日 - 2015年〈平成27年〉7月20日)氏とは、日本の哲学者、評論家、政治運動家、大衆文化研究者 であられる。 (ウィキペディア情報より引用。)
ちょうど氏が亡くなった時期に、同時進行で安倍政権が安全保障関連法案を強行に押し進め、戦後日本が歩んで来た道筋を自らの歪んだ見解にて身勝手にも大きく変えようとしていた。
(その後、2020東京五輪に関する五輪組織委員会の大失策続き等々により、自民党は国民からの支持率を大幅に下げるに至っている。 それに伴い戦後70年談話に於いては、安倍氏は主語をぼかし中途半端感が否めないものの、侵略相手国に対して“一応の”謝罪の言葉を発するに至っている。)
鶴見氏のリベラルな立場からの発言や執筆は戦後の我が国の思想や文化に大きな影響を与え、国民個々に民主主義思想を根付かせたとも言えよう。
安倍氏が戦後70年談話に於いて自らの偏った硬直路線を貫くことを直前に断念せざるを得なかったのも、鶴見氏の死去を受けて国民が抗議行動を繰り広げた事実等が大きく作用したのかもしれない。
つい最近も、朝日新聞9月1日付夕刊文化ページのコラムに鶴見俊輔氏を取り上げた記事を見つけた。
「文芸・批評」“終りと始まり” 作家 池澤夏樹氏による 「時間の再配分 その話おもしろいねえ」である。
以下にコラム内容の一部を要約して紹介しよう。
鶴見俊輔さんが亡くなった。 氏からは「融通無碍」の思想法や「剛直」を教わった。
「融通無碍」から、次の著述を紹介しよう。 「生産性が最高度に上がった社会においては、少人数の労働で多くの生産が上げられることになり、人々の需要を満たすことができるので、その結果おのずと多くの人が失業することになる」。 との労働上の問題に対して「時間の再配分」がヨーロッパで提案されているという。 所得と同じように労働時間を再配分する。 ドイツには「生涯労働時間口座」があり、超過勤務分の時間が貯蓄され、それを後で有給休暇として使うことが出来る。 職場の空気で事が決まる日本社会に対して、国民の休日倍増を提案している。 生産性が上がると失業者が増える。 職がある事が幸運とはならず、その職を失業者に奪われまいと過労に陥る。 要は皆が少しずつ働くように雇用の形を変えていけばよいのだ。
某氏は次のように言う。 「一人で寂しくしていたら疑心暗鬼になるやん。市民運動にいてたら一人じゃなくなる。」 昔の日本では大人が果たすべき責務が二つあった。 一つは家族を養うための「かせぎ」、もう一つは世間さまへの「つとめ」。 祭りの手配や困窮者に手を課すことや、もめごとの仲裁、等々。
それが今は「かせぎ」ばかりになってしまった。 上記の某氏は次のようにも言う。「昔は人をつぶすところまではせえへんかった。今はちがうやろ? 大学出たかて、みんなつぶされてるやん。」
鶴見俊輔さんは人の話を聞いてよく「おもしろいねえ」と言われた。 「時間の再配分」と聞いて、上記某氏の話を聞いて、身を乗り出して「おもしろいねえ」と言っている鶴見氏の姿が目に浮かぶ。
(以上、朝日新聞 池澤夏樹氏によるコラム内容より一部を要約引用したもの。)
「時間の再配分」なる用語は、現在に於いて未だ学術用語としての地位を得ていないと私は理解している。
その一方、「富の再配分」、「資本の再配分」、「所得の再配分」、「資源の再配分」などは、現在の学問に於いてある程度の“専門用語”としての地位を得ているのではあるまいか。
その中の二つ、「富の再配分」「所得の再配分」につき、ウィキペディア情報より一部を引用して紹介しよう。
富の再分配・所得再分配は、貧富の差を緩和させ、階層の固定化とそれに伴う社会の硬直化を阻止して、社会的な公平と活力をもたらすための経済政策の一つであるとされる。 富の再分配・所得再分配が指し示す範囲はかなり広く、富裕層・貧困層間の所得移転から先進国・発展途上国間の所得移転までも議論の対象となる。
ここで話題を変えて、私事及び私論に入らせていだだこう。
我が大学4年生の“就活娘”が未だに「内定」をゲット出来ずに就活底辺を右往左往彷徨っている。 世間の情報によれば、既に7割以上の大学4年生が「内定」をゲットしていると見聞するにもかかららず…。
いえいえ、何もそんな外部数値情報にうろたえる程軟弱な“サリバン先生”の原左都子ではない。 自分自身の十分な学術経験や職業経験及び“遊び心経験”の下、我が娘にはこんな職種や職場に於いて適性があるのではないかと陰ながら目論んでいる。 その我が眼鏡に叶わない職場からは“不採用”決定が下された方が、むしろ我が娘の将来を潰されずに済むなる安堵感すら抱くのだ。
これぞ、人間個々の「適性の再配分」とでも表現すればよいのかもしれない。
その意味で、上記池澤夏樹氏がコラムにて取り上げられている某氏曰く「今は大学出たかて、みんなつぶされてるやん」に痛く同感だ。
我が娘が未だ就活「内定」を取れない事実よりも、既に「内定」を取り“糠喜び”している大学4年生達が今後一体何年その職場に残れるのか? はたまた、その職場でどれだけどういう風に活躍可能なのか…、我が未来目線として他人事ながら心配申し上げている。
いえいえ、もちろん我が娘にも必ずや大学4年生にして“就活内定ゲット”を遂げて欲しいとの希望は私にもある。
ただ親としての私の希望とは、世間一般の大卒者を抱える家庭とは元より大いに趣旨が異なっているのかもしれない。 上記に記した通り、我が娘には自分の適性に於いて「貴方を雇いたい!」なる職場と巡り合って欲しい思いが親として強靭だ。
せっかく「内定」をゲットしたにもかかわらず短期間でその職場を去らねばならなかったり、違和感を抱きつつ不本意な仕事に耐え続けるのではなく、娘の個性を認めてくれる職場で精一杯の自己実現をして欲しい思いが山々だ。
そういう意味で、人間個々の個性に応じた 「適性の再配分」 理論を学説として唱えたい私である。
鶴見 俊輔(つるみ しゅんすけ、1922年〈大正11年〉6月25日 - 2015年〈平成27年〉7月20日)氏とは、日本の哲学者、評論家、政治運動家、大衆文化研究者 であられる。 (ウィキペディア情報より引用。)
ちょうど氏が亡くなった時期に、同時進行で安倍政権が安全保障関連法案を強行に押し進め、戦後日本が歩んで来た道筋を自らの歪んだ見解にて身勝手にも大きく変えようとしていた。
(その後、2020東京五輪に関する五輪組織委員会の大失策続き等々により、自民党は国民からの支持率を大幅に下げるに至っている。 それに伴い戦後70年談話に於いては、安倍氏は主語をぼかし中途半端感が否めないものの、侵略相手国に対して“一応の”謝罪の言葉を発するに至っている。)
鶴見氏のリベラルな立場からの発言や執筆は戦後の我が国の思想や文化に大きな影響を与え、国民個々に民主主義思想を根付かせたとも言えよう。
安倍氏が戦後70年談話に於いて自らの偏った硬直路線を貫くことを直前に断念せざるを得なかったのも、鶴見氏の死去を受けて国民が抗議行動を繰り広げた事実等が大きく作用したのかもしれない。
つい最近も、朝日新聞9月1日付夕刊文化ページのコラムに鶴見俊輔氏を取り上げた記事を見つけた。
「文芸・批評」“終りと始まり” 作家 池澤夏樹氏による 「時間の再配分 その話おもしろいねえ」である。
以下にコラム内容の一部を要約して紹介しよう。
鶴見俊輔さんが亡くなった。 氏からは「融通無碍」の思想法や「剛直」を教わった。
「融通無碍」から、次の著述を紹介しよう。 「生産性が最高度に上がった社会においては、少人数の労働で多くの生産が上げられることになり、人々の需要を満たすことができるので、その結果おのずと多くの人が失業することになる」。 との労働上の問題に対して「時間の再配分」がヨーロッパで提案されているという。 所得と同じように労働時間を再配分する。 ドイツには「生涯労働時間口座」があり、超過勤務分の時間が貯蓄され、それを後で有給休暇として使うことが出来る。 職場の空気で事が決まる日本社会に対して、国民の休日倍増を提案している。 生産性が上がると失業者が増える。 職がある事が幸運とはならず、その職を失業者に奪われまいと過労に陥る。 要は皆が少しずつ働くように雇用の形を変えていけばよいのだ。
某氏は次のように言う。 「一人で寂しくしていたら疑心暗鬼になるやん。市民運動にいてたら一人じゃなくなる。」 昔の日本では大人が果たすべき責務が二つあった。 一つは家族を養うための「かせぎ」、もう一つは世間さまへの「つとめ」。 祭りの手配や困窮者に手を課すことや、もめごとの仲裁、等々。
それが今は「かせぎ」ばかりになってしまった。 上記の某氏は次のようにも言う。「昔は人をつぶすところまではせえへんかった。今はちがうやろ? 大学出たかて、みんなつぶされてるやん。」
鶴見俊輔さんは人の話を聞いてよく「おもしろいねえ」と言われた。 「時間の再配分」と聞いて、上記某氏の話を聞いて、身を乗り出して「おもしろいねえ」と言っている鶴見氏の姿が目に浮かぶ。
(以上、朝日新聞 池澤夏樹氏によるコラム内容より一部を要約引用したもの。)
「時間の再配分」なる用語は、現在に於いて未だ学術用語としての地位を得ていないと私は理解している。
その一方、「富の再配分」、「資本の再配分」、「所得の再配分」、「資源の再配分」などは、現在の学問に於いてある程度の“専門用語”としての地位を得ているのではあるまいか。
その中の二つ、「富の再配分」「所得の再配分」につき、ウィキペディア情報より一部を引用して紹介しよう。
富の再分配・所得再分配は、貧富の差を緩和させ、階層の固定化とそれに伴う社会の硬直化を阻止して、社会的な公平と活力をもたらすための経済政策の一つであるとされる。 富の再分配・所得再分配が指し示す範囲はかなり広く、富裕層・貧困層間の所得移転から先進国・発展途上国間の所得移転までも議論の対象となる。
ここで話題を変えて、私事及び私論に入らせていだだこう。
我が大学4年生の“就活娘”が未だに「内定」をゲット出来ずに就活底辺を右往左往彷徨っている。 世間の情報によれば、既に7割以上の大学4年生が「内定」をゲットしていると見聞するにもかかららず…。
いえいえ、何もそんな外部数値情報にうろたえる程軟弱な“サリバン先生”の原左都子ではない。 自分自身の十分な学術経験や職業経験及び“遊び心経験”の下、我が娘にはこんな職種や職場に於いて適性があるのではないかと陰ながら目論んでいる。 その我が眼鏡に叶わない職場からは“不採用”決定が下された方が、むしろ我が娘の将来を潰されずに済むなる安堵感すら抱くのだ。
これぞ、人間個々の「適性の再配分」とでも表現すればよいのかもしれない。
その意味で、上記池澤夏樹氏がコラムにて取り上げられている某氏曰く「今は大学出たかて、みんなつぶされてるやん」に痛く同感だ。
我が娘が未だ就活「内定」を取れない事実よりも、既に「内定」を取り“糠喜び”している大学4年生達が今後一体何年その職場に残れるのか? はたまた、その職場でどれだけどういう風に活躍可能なのか…、我が未来目線として他人事ながら心配申し上げている。
いえいえ、もちろん我が娘にも必ずや大学4年生にして“就活内定ゲット”を遂げて欲しいとの希望は私にもある。
ただ親としての私の希望とは、世間一般の大卒者を抱える家庭とは元より大いに趣旨が異なっているのかもしれない。 上記に記した通り、我が娘には自分の適性に於いて「貴方を雇いたい!」なる職場と巡り合って欲しい思いが親として強靭だ。
せっかく「内定」をゲットしたにもかかわらず短期間でその職場を去らねばならなかったり、違和感を抱きつつ不本意な仕事に耐え続けるのではなく、娘の個性を認めてくれる職場で精一杯の自己実現をして欲しい思いが山々だ。
そういう意味で、人間個々の個性に応じた 「適性の再配分」 理論を学説として唱えたい私である。