原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

1985.8.12 日航機事故、やはり機長の責任も問いたい

2015年08月03日 | 時事論評
 1985年(昭和60年)8月12日に発生した日本航空123便ボーイング747型機の事故。
 羽田空港18:00発、大阪伊丹空港へ向かっていた当該機は離陸12分後から32分間に渡り迷走飛行の末に、群馬県多野郡上野村の山中に墜落した。 搭乗員524名の内520名が死亡した。
 旅客機の単独事故としては、世界でも最大の犠牲者数を出した事故である。 「日本航空123便」という便名は、1985年9月1日のダイヤ改正以降欠番とされ、後に対となる「日本航空122便」も欠番扱いとなっている。   


 私の脳裏に当該日航機事故が、おそらく生涯忘れ得ぬ記憶として刻み込まれている。
 それには私なりの“究極個人的事情”がある故だ。

 1985.8.12。 まさにその日、私は旅に出ていた。  その旅に関する詳細を「原左都子エッセイ集」バックナンバーにて綴り公開しているが、現在の我が心理を交えつつ以下に少しだけ反復させていただこう。

 毎年8月12日が訪れると、30年前に起きた日航ジャンボ機墜落の大惨事が私の脳裏にフラッシュバックする。  私は30年前のまさにこの日、この歴史的大惨事の第一報を旅先のテレビニュースで見聞した。
 当時30歳を直前に控え未だ独身だった私は、自己実現欲に溢れると同時に恋愛三昧とも言える日々を謳歌していた。  その頃付き合っていた男性とは音楽の趣味が合っていた。 私が素人ロックバンドのボーカル経験があることを知った男性の提案で、“にわかロックバンド”を結成して三重県の某音楽リゾートで合宿をしようという話になった。 「ロックバンド合宿」と言えば聞こえがいいが、実はこの旅行は要するに独身男女の“合コン旅行”と表現するのが相応しいことを、当然ながら承知の上での旅立ちだった。
8月12日と言えば、我が故郷における日本に名高い盆踊りの開催日初日でもある。 毎年この時期には、職場の夏季休暇を利用して郷里に帰省するのが例年の私の行事だった。 ところが85年の夏は、上記の「ロックバンド合宿」のスケジュールが入ったため故郷には帰省しないつもりなのだが、実家の親には“軽ノリ合コン旅行”へ行くことは内密にして、その年は帰省しない事実のみをあらかじめ伝えておいた。
 さて、8月12日の出発の朝はあいにくの雨だったことをよく憶えている。 そしてその日の午後三重県のリゾートに到着し、リゾート内のスタジオでいよいよ「ロックバンド練習」と相成る。 練習曲は既に決まっていた。私が過去にボーカルをした楽曲の練習をして来くれていたメンバー達が、音合わせの後直ぐにその楽曲を奏でてくれる。 ボーカル担当としてはこれは心地よい!  観客役の女性2人もノリよく音楽に合わせてそれぞれに踊ってくれたりする。  それはいいのだが…  どうしても、にわかに集められた素人ミュージシャンメンバーのノリがイマイチ悪いのだ。 それが気になって仕方がないボーカル担当の私は心より楽しめないまま、当時若気の至りの私はそれにどう対応していいのやらその方策が打てないうちにこの「ロックバンドの合宿」はその後、夜の飲み会へと時が移る。
 テレビニュースが大惨事の前兆を伝えたのはちょうどその時だった。  「東京から大阪に向かっている乗客乗員524名を乗せた日航ジャンボ機が消息を絶った…」
 我が“にわか仕立ての合コン”ロックバンド仲間の間にも戦慄が走った…
 あの時我が心の内部にどんより押し寄せたのは、何と表現してよいのかわからない一種“罪の意識”だった。 私の我がままでロックバンドボーカルを再現したいがために見知らぬミュージシャン達にご足労いただいて迷惑を掛けてしまっている。 郷里の親にも今年のお盆は帰らないと言ったものの、その結果、こんな面白くないことになってしまった…。 そして、現在付き合っている男性を私がどう捉えているのかに関して自己分析も出来ていないのに、浅はかにもこのような旅に出てしまっている…  私自身がこれ程中途半端だから、こんな大惨事が同時進行で起こってしまったとしか考えようがない……
 あくる日、予定通り東京の単身住まいの居住地へ帰宅したら、私の固定電話には郷里の母からの留守電が何本も入っていた。  それは“今年の夏は帰省しない”と言った私の安否を郷里の母が気遣うものだった。  (娘はああ言ったが、きっと今年も“阿波踊り”を見るために墜落した日航ジャンボ機に乗って大阪経由で帰省しようとしていたのかもしれない…  娘と昨日から連絡が取れないのは娘が墜落事故に巻き込まれているからに間違いない! テレビニュースでも娘の名前と似た搭乗者名がずっと発表されていた!)……
 そうではなくて、単に留守にしていたから電話に出られなかっただけだと母を説得しつつも…  歴史上最大惨事の航空機墜落事件が起きたまさにその日に、当時付き合っていた男性と実りの無い旅に出た自身が侘しく悲しくて、マイナスイメージでいつまでも我が脳裏に刻まれる事に相成った当該事件だ。
 (参考だが、上記の我が煮え切らない中途半端な恋愛関係は夏の終わりを待たずして、その後まもなく終焉を迎えた…。) 


 大幅に話題を変えるが、現在NHK総合テレビ土曜日午後9時「NHKスペシャル」にて、当該日航機事故を毎週取り上げている。
 私の予想では、おそらく来週8月8日にその第3段が放映されNHKなりの総括をするのであろうと推測している。

 我が記憶が新しいその第2段の内容を少し振り返ろう。
 去る8月1日放映の第2段にては、ジャンボ機墜落後生存者発見までに16時間も要した失策に関して報道された。
 科学の発展が未だままなっていない当時に於いて、墜落当初より市民の一部より情報が得られていた墜落現場「御巣鷹山」を、何故長野県の某山と誤報道したのかに関する詳細のデータ解析結果が報道された。
 50分に渡りそのテレビ報道を見た私の感想としては、なぜ貴重な「第一報」を寄せた一般市民の通報を信頼しなかったのか! それが一番の怒りだ。  しかも、その後も警察・自衛隊・報道機関間で誤った解釈が次々と続く有様…
 一抹の救いとは、事故から30年が経過した現在に於いては、科学の発展によりたとえ夜中の真っ暗闇の山中であれ、墜落機の行方を確認可能なシステムが整っているとの報道である。


 遡って、その一週間前の7月25日に放映された「日航機事故関連 NHKスペシャル」を見て違和感を抱かされた我が思いを、今回のエッセイ表題に提示した。

 そのすぐ後に、調布飛行場より飛び立った小型機が調布市の民家に墜落し、民家に住む住人の被害者を出した事実をも重ね、以下に問題提起したい。

 あくまでも素人考えに過ぎないが、大小問わず航空機が事故を起こし人命を失った場合、当然ながら機長の責任が問われて当然なのではないかと私自身は常々考えている。
 ところが調布小型機事故の場合、その検証が実施されない時期に既に若き機長氏が「よき人物」だったとの報道が流れてしまっている。 そんな事よりも重視するべきは 一般市民を巻き添えにして死者を出してしまっている現実だ。 その検証が終了した暁に、若き機長氏に関するコメントを流しても何ら遅くはなかったはずだ!

 元より、520名の一般人死者を一瞬にして出した日航機事故。
 あれから30年の年月が流れたと言えども、機長を「美化」して報道したNHKの姿勢に関して私は異論を唱えたい!
 当時の機長の娘さんが現在客室乗務員になり、後輩の指導に当たっているとのNHK報道。 
 そんな現在の日航内部事情など、当時の顧客であった520名もの死者を出している現実下に於いて慎むべきはずではないのか!?

 NHKは既に機長の責任を「時効」と判断したのかもしれないが、あれ程膨大な数の犠牲者を出した日航機事故から30年経過した今こそ、出発前の諸点検等々機長の責務の実態も問われ続けるべくと私は解釈している。