原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

魔の自殺多発特異日9月1日、是が非でも我が子の命を守ろう

2015年08月22日 | 時事論評
 長い夏休みが明けて2学期初日の9月1日に、年端もいかない子供達が「死にたい」とまで追いつめられるその心理が、私には痛い程理解可能だ。

 おそらく「学校嫌い」を経験した人間であるならば、大なり小なりその思いに共感可能な事と期待したい。

 とは言え、私の場合はこの通り今に至って尚しぶとくこの世を生き抜き続けている。 実際には「自殺」とまでの切羽詰まった状態にまでは精神が追い込まれずに済んだ故であろう。
 ただ、夏休み中の8月下旬頃より我が脳裏に襲い掛かる(また学校へ行かなければならない…)なる強迫観念と憂鬱感は、幼稚園年中の頃から高校卒業までの十数年間に及びずっと続いた。
 不思議な事に大学生の頃には学問意欲に燃えていたためか、学生個々の自由度が高かった故か、あるいは学業以外での楽しみ(恋愛、酒等々)に満たされていたせいか、そのような感情は抱かなかった記憶がある。

 ところがこの強迫観念が、またもや30代後半期に高校教員になった時点で我が脳裏に再燃した。 
 学校教員とは、生徒同様の休暇道程を辿る。 (いや、現在では夏季休暇中の教員出勤日が増えていると耳にするが)、我が教員時代には部活指導等を担当していない限り、結構長期間の夏季休暇を取得可能だった。 そうすると、高校生だった頃までのあの恐怖の「9月1日」到来に対する強迫観念と憂鬱感が我が脳裏に鮮明に蘇るのだ…。 (教員の立場とて、学校になど行きたくない! なる切羽詰まった感情が恐るべくもぶり返して来るのだ。)
 おそらくこれは、我が若年層の時代に十数年間に渡って毎年経験させられた「9月1日」“恐怖トラウマ”が我が脳裏に燦然と存在していて、それが蘇って来たものと分析している。

 そんな私は、大学新卒後ずっと教員をしている某人物に質問したことがある。「教員の夏休みとは長いですが、その休暇を堪能した後に9月1日に学校に行く事が嫌になったりしないですか?」  応えて教員氏曰く、「大学までの延長線上で教員をしている自分としては、何も今まで通りの生活です。 9月1日に学校に行くことが特段特殊な事と考えた事もありません。」……
 なるほど。 そういう恵まれた人間もこの世にいるんだ。 それにしても、この種の教員の指導下にある生徒達の「9月1日の苦悩」の程は、教員側には到底理解不能な課題なのだろうなあ。


 8月12日付朝日新聞一面にて、興味深い記事を発見した。
 「子供自殺9月1日最多」との一面記事内容、及び当日朝日新聞3ページに記載された記事を、以下に要約引用しよう。
 国の調査によれば、18歳以下の自殺人数を日付別に分析したところ、9月1日が突出して多く、夏休みなど長期休暇が明けた時期に集中していることが分かった。 増加傾向が見られる8月下旬頃から9月上旬を前に、文科相は今年4月に児童・生徒への見守りを強化するなど重点的な対応を求める通知を全国自治体教委に提出した。
 夏休みや春休みが終わりに近づくと自殺者が増える傾向につき、内閣府は「環境が大きく変わり、プレッシャーや精神的動揺が生じやすいと考えられる」と指摘。 児童・生徒の見守りを強化したり相談に応じる事が効果的と提言した。 
 いじめ問題に取り組む某NPO法人は、「いじめに苦しむ子供は学校が始まる日を指折り数えて追いつめられている」 にもかかわらず、いじめが解消したと期待して親が子供を登校させても、学校側は結局何も変わっておらず、それに落胆した子供が自殺に追い込まれたと見ている。  そんなNPO法人は「子供は親に悩みを話しにくいため、学校の責任が大きい」と言う。  子供が悩み苦しんでいる事は承知していたが、まさか自殺するとは思ってもみなかった、とまで当該NPO法人の理事は語っている。  当該理事曰く、「学校は命を削ってまで行くところではない。 本当に辛い時はちょっと休む事も考えて」とアドバイスする。
 (以上、後半部分は原左都子の批判も交えて朝日新聞記事を要約引用したもの。)


 ここで再び私論に入ろう。

 言いにくい事をここではっきり言うが、上記に紹介した朝日新聞記事の後半部分の某NPO法人理事氏とやらは、15歳の娘さんを「自殺に追い込むべくして」追い込んだ張本人と私は分析する。

 えっ、何? 
 貴女の娘さんが学校内でのいじめ問題が解消したと“期待”して登校させた、だと? その親としての判断は何に基づいてるいたのだろうか。 
 しかも、学校側は結局何も変わっておらず、そのせいで自分の娘さんが自殺した??  
 更には、「子供は親に悩みを話しにくいため、学校の責任が大きい」??? 
 驚く事にはこの母親は、自分の親としての責任の程を顧みる事なくすべての責任を学校側に転化して、娘さん自殺後に自らNPO法人を立ち上げ、娘自殺の責任はすべて学校側にあると総括したものと、私は判断する。


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 いやいや、上記朝日新聞記事内にあるNPO法人理事氏である娘を自殺で失った母親としての思いも分からなくはない。
 通常の親達とは、それ程までに学校教育に「多く」の期待を寄せているのであろう。
 ところが、多少の社会経験や学術経験を積んでいる人間であれば、現在の学校教育現場が置かれている“お粗末”かつ“無力”な現状も把握可能かと私などずっと以前より理解しているのだが…。

 それにしても上記某NPO法人理事氏は、娘さん自殺防止に向けて家庭内でもう少し対応策が取れたはずだ。
 現状の安倍政権の行政能力の程を日々観察すれば、現在の学校教育現場が昔から現在に至るまでさほどの進化を遂げていない事など、庶民の立場にして想像して余りあろう。 そんな現状下に於いて、娘さんの自殺を学校現場に責任転嫁する以前の課題として、家庭内での自助努力によりいくらでも娘さんを自殺から救い出せたはずだ。

 「子供は親に悩みを話しにくい」???  それなど、お宅の個人的事情に過ぎないよ。 
 我が家など、国政は元より、地方自治体の教育行政にも大いなる疑惑の念を抱き続けつつ我が子を育てて来ている。 ここは親こそが一生我が子の教育責任を総括せんとの観点及び覚悟の下に、子供の教育に関わろうではないか。
 その観点に立てば、「学校とは可愛い我が子の命を削らせてまで行かせるところではない」のは元より自明の理であり、その代替として親こそが一生命をかけて我が子の教育の主体となるべき事など当然の事と気付くはずだ。

 とにもかくにも、世の親達よ!
 子供をこの世に産んだ親の責任に於いて、我が子を絶対自殺させてはなるまい。 迫りつつある9月1日自殺多発特異日に向け、親の判断に於いて「学校へ行かせない」選択肢を含めて、是が非でも我が子の命を守るべく行動しよう!