原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

毎日同じ場所へ通うという行為の無気力性

2015年04月27日 | 自己実現
 我が身内が大学病院に入院して本日で10日が経過した。
 お陰様で病状が安定し、先が見通せそうな段階に入っている。


 本日の「原左都子エッセイ集」は視点をガラリと変えて、10日間(中2日程休んだが)に渡り病院通いをした我が日々を、まったく異なる角度より考察せんとするものである。

 
 身内が入院している病院へは電車とバスを乗り継いで通ったのだが、比較的空いているバスの車窓を眺めつつ、我が脳裏に過ったのは過去に於ける職場への通勤風景である。

 元々集団嫌いな私だ。 それは学校に於いても職場に於いても例外ではなかった。
 ならば学校はともかく、職場は集団生活を回避できる場を選択すればよいであろう。 確かにその行動も採った。(50歳時点でフランチャイズ自営に挑戦した経歴がある。 ただこれとてその実質は企業側からの“雇われの身”に他ならない事実を、つい先だってのコンビニ訴訟をご存知の方々はご理解頂ける事と想像する。 結局私の場合、多額の損失を計上した後早期撤退を選択する事態と相成った。)
 自営家業を継ぐとの環境下にでも生まれ出ていない限り、おそらくほとんどの市民は集団生活下にある組織体への就業を余儀なくされるのではあるまいか?
 その事態が自らの適性に合致しているのなら、特段問題はないとも考察可能だが…。

 私自身もこと職場に於いては、自己の専門能力を発揮出来るとの意味合いでは、組織体に通う意義は十分にあった。 それ故、短からぬ職場生活を全うしつつ有意義な独身時代を過ごし、ある程度の自己資産も増殖可能だった。 その観点からは、私が過去に所属した職場組織に対して感謝申し上げたい。

 ただ、とにもかくにも“集団嫌い”の私だ。 特に職場へ通う「往路」は日々憂鬱この上なかった。
 何と説明すればよいのか“集団嫌い”の身としては、とにかく「組織体」(社会学でいうところの“コミュニティ”)への“帰属意識”がどうしても抱けないのだ。  かと言って、特段人間嫌いではない私は常に職場内外に親しい人物が少なからず存在した。 片や親しいとは言えないその他大勢の人物達が組織内に存在している事自体が、私にとって煩わしく鬱陶しかったと結論付けるべきか…

 そんな事を我が脳裏に蘇らせる、身内入院病院へのバス内風景と表現可能だ。
 今回の場合、行先が私の過去の専門分野である「医学」関連場所であったことが“災い”し、そのようなマイナス観念が我が脳裏に増長して再現したとも考察出来よう。


 本日身内の合意にて病院通いを休ませてもらい、久しぶりに朝日新聞をめくって発見したのが“悩みのるつぼ”の相談である。
 4月25日付“悩みのるつぼ”40代無職男性の相談によると、「『社会不適応』の私です」とのことだ。

 以下に、その一部のみを要約して紹介しよう。
 40代後半の男性だが、10年程前に地方公務員を辞めて以来、定職に就けない。もちろん未婚だ。 公務員を辞めた理由は多岐に渡るが、その後定職にありつけない。 ただ退職後求人広告を見て、過去に於ける学歴や職歴が一切役に立たない事実を知った。  我が父は元々私と同じ「社会不適応者」でしかも酒飲みだったため、認知症になる前から母や妹を泣かせていたが、既に他界している。 父の「社会不適応」の遺伝子を引き継いだことを自分の代で終わりに出来てよかったと自分に言い聞かせたいが、悔しい思いは消えない。 負け組確定の人生、何を心の支えにすればよいのか。
 (以上、朝日新聞“悩みのるつぼ”より、相談内容を引用したもの。)


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 上記朝日新聞相談の男性は、自分を「社会不適応者」と結論付けておられるようだ。 しかも、それは父親から受け継いだ遺伝子のせいであり、自分はそのDNAによる犠牲者??  
 それしきの考察しか不能な人種こそが、次世代にもそのDNAを引き継がせてしまうのではなかろうか??! 40代後半にまで達して、自分が定職に就けない事実をDNAに責任転嫁するとの過ちこそを反省する事から始めてはどうなのか?

 そもそも「社会」とは何なのだ!?
 自分が今通っている“いとも狭き組織体”こそが「社会」??  そんな狭い見識の下に生きているからこそ、自分の首を絞める事態となることを指摘しておこう。

 そもそも「社会」とは何か?  その課題こそを、今現在この世に生きる事を宿命として背負っている個人個人が分析し直しても遅くはなかろう。
 「社会」とは、おそらくこの世を生き抜く人格ある人間それぞれ個々が描く共同体(コミュニティ)に他ならないことに気付く事を信じたい。 
 それ故、その「コミュニティ」に関する心理的多様性が豊富な程に、個人の人生経験が拡大するとの事ではなかろうか。

 そういう意味では、毎日同じ場所に通い続ける人生が存在してもよいのかと、日々病院通いのバスに揺れながら疲れた頭脳で考えたりもする。
 
 現時点に於いて身内が入院している病院(という一集団組織)に、とにかく日々通い詰めようと思える我が現在の心境こそが、今後の我が人生に何らかのプラスになる予感が確かにあるのだ…