原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

私にも初々しい新人時代があったなあ…

2015年04月01日 | 仕事・就職
 4月1日、我が国に於いて本日よりまた新たな年度が始まる。 

 昨日の東京は初夏のような陽気に加え、南からの強風が吹き荒れた。 つい最近まで冬のコートに頼る肌寒い日が続いたが、昨日の陽気に誘われミニスカワンピースに軽い上着のいでたちで街に出た私の足元を、南風がスカートを捲り上げに来る。

 一転して本日4月1日の東京は、どんよりと曇り空が広がる中、強風も収まり落ち着いた新たな年度の幕開けだ。
 テレビニュースによれば、新卒新入社員達がそれぞれの職場の入社式を迎えた様子だ。  本日昼のNHKニュースにてその報道を視聴したが、トヨタ自動車㈱と東京都庁の入社式が取り上げられていた。 トヨタ自動車㈱の場合新人皆が制服姿、そして都庁は皆がリクルートスーツ着用の入社式風景だった。


 毎年4月1日に「新卒採用社員入社式」の映像をメディアで目にする度、私自身の「入社式」が我が脳裏にフラッシュバックする。
 これに関してエッセイを綴ろうとするのが今回の趣旨である。

 それに先立ち、当該「原左都子エッセイ集」7年程前の 2008.4.24 バックナンバーに於いて 「旅立ちの日の情景」 と題するエッセイを公開しているため、その一部を以下に要約させて頂こう。

 桜咲く時期に、今なお私の脳裏に浮かぶ忘れえぬ光景がある。   それは、今からウン十年前の3月下旬のある日、新卒で就職するために田舎から東京へ上京した日の情景である。
 東京へは父が軽トラに荷物を積んで、私の田舎から海路フェリーで東京まで送ってくれる計画を立てていた。 出発の日の前日からあいにく春の大雨で、荷物の積み込みに難儀した。 そして旅立ちの朝となり、まだ降り続く春の雨の中いよいよ出発の時間となった。  さっきまでお弁当を持たせてくれたり何だかだと世話を焼いてくれていた、今回は留守番役の母の姿が見えない。  もう出発しなければフェリーの時間もある。 どうしたんだろう、娘の旅立ちという人生におけるビッグイベントの大事な時に母は見送りもせず何をしているのだろう、と不服に思いつつ車に乗り込んだ。
 車が動き出そうとした時、やっと母が玄関から少し顔を出した。その顔を見て母の姿が見えなかった理由がわかった。泣きはらした顔をしているのだ。  普段は決して人前では涙を見せない気丈な母が、私の出発準備を終えた後、陰で泣きはらしていたのだ。 旅立ちの時に、一人で旅立つ私に泣き顔を見せてはいけないと考えたのだろう。それでも私が旅立つ姿を一目見たくて玄関から少しだけ顔を覗かせたのだろう。   あんなに泣きはらした母の顔を私はこの時生まれて初めて見た。  母の思いが沁みて、今度は私が涙が溢れて止まらない。それでも、今私が泣いて父を心配させてはいけないと考え、泣くまい泣くまい、気丈に振舞おうと助手席で涙をこらえるのだが、そんな思いとは裏腹に止めどなく涙が溢れ出る。  父は私の心情を察してか一言も話しかけず、ただ黙々とフェリー乗り場まで運転を続けた。もしかしたら、父も泣いていたのかもしれない。
 フェリーは一昼夜かけて次の日の朝東京に着いた。  父がしばらく滞在して私の東京での新生活の準備を手伝ってくれた。
 そして父が田舎に帰る日がやって来た。 どうしても父との別れがつらい。心細い。朝から泣けてしょうがない。 後1日でも滞在を延長して欲しいと泣きながら父に訴えるのだが、父には仕事もある。 実は私の東京行きを直前まで反対した父だった。 そんな父が、東京でひとりで生きる決意をした私を激励し、心を鬼にして田舎へ帰って行った。
 後で父から聞いた話だが、父にとってもあの時ほど辛かったことはなかったらしい。アパートの部屋の窓から泣きながら手を振る私の姿が、父にとっても人生において忘れえぬ光景だと、よく話してくれたものだ。   そんな父ももう既に他界している。
 こうして私の東京での初めての自立生活がスタートしたが、父が去った後午前中泣きはらした私は、午後には気持ちの切り替えをした。 この東京で強く生きていかねば!、とその日の午後早速都心の街に出かけることにした。ターミナル駅まで電車に乗って出かけ買い物をしたことを憶えている。
 あれからウン十年が経過し、大都会東京で図太く生き抜いている私が今ここにいる。  今年の母の日には、どんな親孝行をしようか。
 (以上、原左都子エッセイ集2008年4月公開バックナンバーより一部を要約引用。)


 その後まもなく私は4月1日を迎え、某医学関連企業(現在東証一部上場企業)の新卒対象入社式に参列した。
 その日に着用する“衣装”に関しては郷里の母とも相談しつつ、私に似あうワンピースを郷里にて母に買って貰っていた。 (リクルートスーツが幅を利かせている現世に於いて、入社式にワンピース姿など想像不能な話であろう。)、ただ私の場合、国家資格取得を条件とした医学専門職にての民間企業就業だったため、周囲の新卒者も同様に服装はバラエティに富んだ入社式風景だったものだ。  その後の研修期間中も、新人皆がジーパン姿等ラフないでたちだった事に大いに助けられる職場環境だった。(古き良き時代背景だったのかもしれない…)
 そして、我が配属先が少人数の部署だった事が集団嫌いの私にとって幸いした。 その年度に開設されたばかりの(仮称)「研究室」には一人の女性上司と私しかいなかった。  
 ところが新人研修が修了した5月の連休明けに、私は早くも“単身での出張”を余儀なくされた。
 その出張先とは、都心にして自宅アパートから電車を2本乗り換え途中“殺人的ゲロ混み山手線”に揺られる運命だった。  出張先だった某大学医学部“免疫学研究室”にての業務使命よりも、ゲロ混み電車内での殺人的混雑こそが、“田舎ポンと出”の私にとって耐えがたかったものだ…

 その後数十年が経過した今現在、首都圏では交通網の通勤時混雑緩和を主たる方策として複々線化を実行して来ている。 それを評価するとして、私は今尚混雑時間帯に電車に乗る事態を出来る限り避けている。


 話題が飛んだが、その後私は通勤先への「逆方向」への住居を買い求め「電車内混雑」を回避する方針を貫き通している。

 遠隔地の親の心配とかかわりなく、子供本人が社会進出するに当たり様々な「障壁」にぶち当たるのは自然の摂理であろう。
 私の場合は新卒就職当初時点で、その主たる障壁対象が「都心電車のゲロ混み」状態だったと言えよう。 その事実に上京直後の出張により気付けた事がラッキーだった。 そんな事態は、自分の今後の住居地選択によって幾らでも解消可能な分野だ。 その原則に従い、私はその後もずっと住居地を勤務先(通学先)より中央の地に買い求め“下り方向”へ通勤(通学)する方策を導いている。(娘にも痴漢回避等の理由でそれを指南し続けている。)


 それはそうとして、私が上京直後に経験した“初々しかった新卒新入社員時代”など、後で思えばほんの僅かな期間でしかない。
 その後郷里へ戻りたいなどとの想いをただの一時も我が心情として描くことなく、現在の住居地である東京を“終の棲家”と愛おしみ続ける日々だ… TOKYO