今週の「原左都子エッセイ集」は、現在我が身内が手術入院している関係で、自ずとテーマがそれに関連する話題に偏っている事をあらかじめお詫びしておく。
昨日も病院を訪れたところ、身内に術後の回復傾向がみられる事に大いに安心した。
手術直後より多量の出血が続いていたが、ここに来て出血量が目に見えて減少傾向にある。 加えて手術により併発した感染症による微熱も、高熱には至らず経過しているようだ。
何よりも、患者本人である身内の表情に明るさが見える事実に一番安堵させられる。
食事に関しては(おそらく微熱の影響により)未だ半分ほどしか食べられないとのことだが、昨日初めて「プリンが食べたい」との要望に沿い、病院内売店でそれを買い求めて来た。 早速その蓋を開けて、介護人である私の目の前で食べ始めてくれた事実こそが、回復の兆しを物語るものと感激すら抱かされた。
更には自分自身で担当医とある程度の会話も可能となっている様子である。 術後間もない頃には、そんな余裕などあるはずがなかったのは当然だったのであろう。
昨日私が病院へ訪れた際に、主治医が身内に対し指摘した現在の病状や今後の展望を、元医学関係者である私相手にある程度詳細に伝えられるようになっている事実にも、身内の回復ぶりを実感した。
身内が手術入院したのは、今回が初めてである。 (本人の人生に於いても、配偶者である私にとってもまさに初めての経験だった。) 身内のこの度の手術入院事態とは、お互いに高齢域に達している事が幸か不幸か、判断し兼ねるような現在の我が心境だ。
身内が訴えた病状が“高齢化に伴う”一疾患だった事には間違いない。 そのお陰で私にとっては“子育て終了間際課程”での発病だったことにおそらく感謝するべきであろう。
何分多少の事情を抱えてこの世に生まれ出た我が子である。 家庭内での日々の我がサリバン指導教育の現実は並大抵のものではなかった。 もしも万一身内の手術入院が我が子が未だ手間がかかる時期だったならば、娘のサリバン先生である我が身としては、おそらく外部から“介護人”でも雇う等の手段を施さねば、娘・亭主両人の世話が叶わなかったことと想像する。
その意味では、娘が大学4年生に進級している現在に於いて亭主が入院してくれた事実に、実に助けられたと言えよう。
ところが世の中はそう言っていられる程には甘くはない。
年齢を重ねたら重ねたなりに、これまた他の介護対象者を我が身に抱えざるを得ないものだ。
現在、我々夫婦は両方の母の後見人を任されている。 (とは言っても、我が郷里の母など未だ田舎過疎地に一人暮らし状態で放置しているが…)
我々夫婦は亭主の定年退職後「独立採算制」を採用し実行しているため、互いの家系親族の相続財産に関しても、双方がそれぞれにその財産を引き継ぐ事をも約束している。
そんな中、亭主側の義理母は、一昨年長女である実の娘を膵臓癌にて亡くすとの不運に苛まれている。 その後頼るべきは長男夫婦(我々夫婦)との事実だ。
我が家が夫婦間の「独立採算制」を採用しているとは露知らぬ義母が現実問題として日常一番頼っているのが、実は“他人”の私である… (要するに、私としては義母より微々たる税務管理手数料を受け取るのみで、義母死去後の遺産はすべて亭主のものとする約束だ。 それを義母は一切知らず、自分の死後遺産が夫婦の共有財産となるものと理解して現在私を全面的に頼っている。)
今回身内が手術入院するに当たり、義母に対し如何なる対応をするべきか事前に話し合った。
私の意見としては、「お義母さんに今さら貴方のお見舞いに来てもらうとて、私がケアマンションまで迎えに行かねばならないとの余分の手間が発生して鬱陶しいのみだ。 しかも医学に関してド素人の身にしてプライドばかりは健全な義母に病院に来てもらったとて、弊害こそあれメリットなど一切無い。 今回の手術入院は義母にバレるまで内密にしておこう。」
その我が意見に従い、身内も入院前に義母からの見舞い拒否に賛同していた。
それでも、必ずやケアマンションに住む身内の母(義理母)から亭主入院中に私の元に電話が来るのは想定内だった…。
覚悟はしていたものの、やはり多少痴呆が混ざっている義母が亭主手術直後に電話を掛けて来て私に告げるのは、どうでもよい自分本位の課題だ。
それをしばらく聞いた私だが、何分病院にて手術後体調が安定していない亭主を抱える身である。 「お義母さんのお話は把握しました。 申し訳ないのですが実は現在お母さんの息子さんである亭主が大学病院で手術をしたばかりです。 体調が良くなりましたら連絡しますので、私から連絡をするまでお待ち頂けませんか?」
ところが痴呆が混ざり耳も遠い老人にとっては、これは理解不能な無理難題だった様子だ…
次の日にもケアマンションの義母から私に電話がかかって来た。 「○子さん(私のこと)に幾度も電話を掛けているのにいつも出ないけど、○子さんは仕事にでも通っているのかしら??」
私が応えて曰く「昨日の電話で、お母さんの息子さんが現在入院している事は申し上げた通りです。そのため私は毎日病院へ通ってその世話をしています。」
義母応えて曰く、「あ~~。それそれ。 私は息子が入院している病院へ行きたいのよ!」
私応えて、「息子さんは現在体調がすぐれないため、おそらくお母さんにお会いしたくない心境と思います。 今後息子さんの体調が回復しましたら、お母さんにお見舞いに来ていただけるよう私が手配しますので、もうしばらくお待ち下さいますように。」…
最後に原左都子の私論でまとめよう。
介護人の立場として手術後入院中の患者に対し何を一番最優先するべきかを考察した場合、当然ながら今後真に回復するべく未来を見守る事であろう。
ところがそんな簡単な事を、痴呆が混ざる義母に理解してもらう事が難儀な事実に直面させられ嫌気がさす。
患者本人の病状や意思にかかわらず、義母とは自分が息子の病床に立ち会う事こそが一番の“お見舞い”と勘違いしている始末… 一体全体自分が何様なのかまったく客観視出来なくなってしまっているお粗末さを、哀れにすら感じる…。
いやもちろん、我が亭主にも入院中に義母に来て欲しいか否かに関して質問した。 そうしたところ、「もし入院が長引いた場合、来てもらってもいいかも…」 なる軟弱回答だ。
あのさあ、その際私があんたの(痴呆が混ざり歩行力も十分でない)母を病院まで連れて行かねばならないとの“更なる労力”をも考慮した上での発言かなあ… 私とて現在腰痛に悩まされつつ日々入院中のあなたの介護を続けている現状を、誰にも一切告げずに精一杯頑張っている身だけどねえ…。
と言いたいのを堪えた…。
要するに介護人である身に課せられる条件とは、いつ何時も弱音など吐かず、介護される立場にある人物の要求に添えるべく心構えと強靭な精神力を備えているべきと悟る私だ。
実際問題、現在の私は(要介護の身の義母の我がまま対応も含め)心身共に疲れ果てている…
昨日も病院を訪れたところ、身内に術後の回復傾向がみられる事に大いに安心した。
手術直後より多量の出血が続いていたが、ここに来て出血量が目に見えて減少傾向にある。 加えて手術により併発した感染症による微熱も、高熱には至らず経過しているようだ。
何よりも、患者本人である身内の表情に明るさが見える事実に一番安堵させられる。
食事に関しては(おそらく微熱の影響により)未だ半分ほどしか食べられないとのことだが、昨日初めて「プリンが食べたい」との要望に沿い、病院内売店でそれを買い求めて来た。 早速その蓋を開けて、介護人である私の目の前で食べ始めてくれた事実こそが、回復の兆しを物語るものと感激すら抱かされた。
更には自分自身で担当医とある程度の会話も可能となっている様子である。 術後間もない頃には、そんな余裕などあるはずがなかったのは当然だったのであろう。
昨日私が病院へ訪れた際に、主治医が身内に対し指摘した現在の病状や今後の展望を、元医学関係者である私相手にある程度詳細に伝えられるようになっている事実にも、身内の回復ぶりを実感した。
身内が手術入院したのは、今回が初めてである。 (本人の人生に於いても、配偶者である私にとってもまさに初めての経験だった。) 身内のこの度の手術入院事態とは、お互いに高齢域に達している事が幸か不幸か、判断し兼ねるような現在の我が心境だ。
身内が訴えた病状が“高齢化に伴う”一疾患だった事には間違いない。 そのお陰で私にとっては“子育て終了間際課程”での発病だったことにおそらく感謝するべきであろう。
何分多少の事情を抱えてこの世に生まれ出た我が子である。 家庭内での日々の我がサリバン指導教育の現実は並大抵のものではなかった。 もしも万一身内の手術入院が我が子が未だ手間がかかる時期だったならば、娘のサリバン先生である我が身としては、おそらく外部から“介護人”でも雇う等の手段を施さねば、娘・亭主両人の世話が叶わなかったことと想像する。
その意味では、娘が大学4年生に進級している現在に於いて亭主が入院してくれた事実に、実に助けられたと言えよう。
ところが世の中はそう言っていられる程には甘くはない。
年齢を重ねたら重ねたなりに、これまた他の介護対象者を我が身に抱えざるを得ないものだ。
現在、我々夫婦は両方の母の後見人を任されている。 (とは言っても、我が郷里の母など未だ田舎過疎地に一人暮らし状態で放置しているが…)
我々夫婦は亭主の定年退職後「独立採算制」を採用し実行しているため、互いの家系親族の相続財産に関しても、双方がそれぞれにその財産を引き継ぐ事をも約束している。
そんな中、亭主側の義理母は、一昨年長女である実の娘を膵臓癌にて亡くすとの不運に苛まれている。 その後頼るべきは長男夫婦(我々夫婦)との事実だ。
我が家が夫婦間の「独立採算制」を採用しているとは露知らぬ義母が現実問題として日常一番頼っているのが、実は“他人”の私である… (要するに、私としては義母より微々たる税務管理手数料を受け取るのみで、義母死去後の遺産はすべて亭主のものとする約束だ。 それを義母は一切知らず、自分の死後遺産が夫婦の共有財産となるものと理解して現在私を全面的に頼っている。)
今回身内が手術入院するに当たり、義母に対し如何なる対応をするべきか事前に話し合った。
私の意見としては、「お義母さんに今さら貴方のお見舞いに来てもらうとて、私がケアマンションまで迎えに行かねばならないとの余分の手間が発生して鬱陶しいのみだ。 しかも医学に関してド素人の身にしてプライドばかりは健全な義母に病院に来てもらったとて、弊害こそあれメリットなど一切無い。 今回の手術入院は義母にバレるまで内密にしておこう。」
その我が意見に従い、身内も入院前に義母からの見舞い拒否に賛同していた。
それでも、必ずやケアマンションに住む身内の母(義理母)から亭主入院中に私の元に電話が来るのは想定内だった…。
覚悟はしていたものの、やはり多少痴呆が混ざっている義母が亭主手術直後に電話を掛けて来て私に告げるのは、どうでもよい自分本位の課題だ。
それをしばらく聞いた私だが、何分病院にて手術後体調が安定していない亭主を抱える身である。 「お義母さんのお話は把握しました。 申し訳ないのですが実は現在お母さんの息子さんである亭主が大学病院で手術をしたばかりです。 体調が良くなりましたら連絡しますので、私から連絡をするまでお待ち頂けませんか?」
ところが痴呆が混ざり耳も遠い老人にとっては、これは理解不能な無理難題だった様子だ…
次の日にもケアマンションの義母から私に電話がかかって来た。 「○子さん(私のこと)に幾度も電話を掛けているのにいつも出ないけど、○子さんは仕事にでも通っているのかしら??」
私が応えて曰く「昨日の電話で、お母さんの息子さんが現在入院している事は申し上げた通りです。そのため私は毎日病院へ通ってその世話をしています。」
義母応えて曰く、「あ~~。それそれ。 私は息子が入院している病院へ行きたいのよ!」
私応えて、「息子さんは現在体調がすぐれないため、おそらくお母さんにお会いしたくない心境と思います。 今後息子さんの体調が回復しましたら、お母さんにお見舞いに来ていただけるよう私が手配しますので、もうしばらくお待ち下さいますように。」…
最後に原左都子の私論でまとめよう。
介護人の立場として手術後入院中の患者に対し何を一番最優先するべきかを考察した場合、当然ながら今後真に回復するべく未来を見守る事であろう。
ところがそんな簡単な事を、痴呆が混ざる義母に理解してもらう事が難儀な事実に直面させられ嫌気がさす。
患者本人の病状や意思にかかわらず、義母とは自分が息子の病床に立ち会う事こそが一番の“お見舞い”と勘違いしている始末… 一体全体自分が何様なのかまったく客観視出来なくなってしまっているお粗末さを、哀れにすら感じる…。
いやもちろん、我が亭主にも入院中に義母に来て欲しいか否かに関して質問した。 そうしたところ、「もし入院が長引いた場合、来てもらってもいいかも…」 なる軟弱回答だ。
あのさあ、その際私があんたの(痴呆が混ざり歩行力も十分でない)母を病院まで連れて行かねばならないとの“更なる労力”をも考慮した上での発言かなあ… 私とて現在腰痛に悩まされつつ日々入院中のあなたの介護を続けている現状を、誰にも一切告げずに精一杯頑張っている身だけどねえ…。
と言いたいのを堪えた…。
要するに介護人である身に課せられる条件とは、いつ何時も弱音など吐かず、介護される立場にある人物の要求に添えるべく心構えと強靭な精神力を備えているべきと悟る私だ。
実際問題、現在の私は(要介護の身の義母の我がまま対応も含め)心身共に疲れ果てている…