原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

変わりたくない、変わらない

2009年11月07日 | 自己実現
 昼間在宅している時に、私はNHKの「朝の連続テレビ小説」(と言うのか?? 正式名称は不明だが、若手新人女優にとっての登竜門とも言われている、もう何十年来続いているNHKの例の15分ドラマのことであるが) の昼の再放送を見る習慣がある。
 決して私があの“マンネリドラマ”を好んで見る程、日々暇を持て余す“プー太郎主婦”ではない (ほんとか?)ことを、最初に断っておく。

 いつも若い女性が主人公であるため、テーマがどうしてもその年代の女性の生き様に限定されざるを得ないようだ。 またドラマ放映時間帯の視聴者がおそらく主婦層が大多数であると思われるため、これまたどのシリーズも「家族物語」のドタバタ劇とお決まりのパターンでもある。

 このドラマの主人公女性は、シリーズが幾度変わろうがいつもその人物像が限定されている。 とにかく元気だけが取り柄で素直で明るく、ちょっと抜けているところが周囲に愛されるという設定なのだ。
 言っちゃ悪いが、今時こんな“単純バカ”的天然質の若い女性が現実社会に存在し得るのか? 存在するとしてもこんな単純キャラが決して流行(はや)らない時代であるし、この手の“お気軽”女が周囲から無条件に愛されるという設定にも現実味が無く“いじわるばあさん”の目線からは受け入れ難いんだけどね~。
 そして、その主人公が失敗を重ねつつ成長する姿を半年に渡って描いているのも“お決まり”である。 世の中、そんなに甘くはないよな~。

 などと批判精神旺盛な割には、この10月から始まった新シリーズを結構気合を入れて見ている私である。 それには特別な理由があるのだが、その理由とは我が故郷が今回のシリーズの舞台となっていることである。 なんせ、あの独特の方言こそが“我が遠く過ぎ去りし過去のノスタルジー”なのだ。 俳優の皆さんが発する方言が正確とは言えないまでも、要所要所の特徴は捉えられていて懐かしい事この上ない。 10月以降、あのドラマのせい(お陰)で話し言葉にお国方言が混じってしまっている“バイリンガル”の私である。


 前置きが長くなってしまったが、今回の当ブログの記事は「NHK連続テレビ小説」について論じようとする訳ではない。 このドラマの中で発せられたある文言が印象的であるため、その文言について考察しようというものである。

 上記ドラマの中に、亀園さんという海がめセンターの女性学芸員が登場する。この亀園さんのドラマ上での人物像の設定は、海がめ専門の学芸員であり、海がめ一筋に生き「海がめになりたい」と心より願う程に海がめを愛する女性である。
 この亀園さんがドラマに登場当初より幾つかの名言を発している。亀園さんの発する名言が、まだ未熟であるが故に亀園さんの生き様を理解できない主人公の単純さと交錯しつつ、物語が展開している最中である。

 亀園さんが登場した当初より何気なく発するその名言に、共感する私である。
 例えば主人公女性が亀園さんに対して「なぜその道に進んだのか?今後海がめ専門家として何を目指すのか?」と詰め寄った時、亀園さんは「人生に道などない。私は海がめになりたい」と独り言のようにつぶやく。
 あるいは、“世界を舞台に活躍する編集者になりたい”との至って単純な夢を描いている割には大した努力も深い思慮もなく、元気だけを活力に独りよがりに活気付いている若気の至りの主人公に対し、亀園さんは「自分自身のコンパスを持ち、何億年も変わらずに世界の海の中で生き抜いている海がめのように、私も変わらずにありたい」と相変わらずである。 (ドラマの台詞の記憶のみを頼りに綴っていますため、正確さに欠ける点をお詫び致します。)


 さて、最後に私論を述べよう。

 そうだなあ。 このドラマの主人公は大学卒業後間もない20歳代前半位の年齢設定であるため、まだまだ単純でお気軽に生きていて当たり前の年頃であろう。
 この主人公のごとく、小学生の頃から自分なりの夢を描けていてその夢に向かって猛進している割には、何らの能力も備わっていないのに就職にありつける状況は奇跡的に恵まれているとしか言えない。 現実世界においては、大した能力もない若造がこんなに順調に事が運ぶすべもないのは、やはりドラマだから故の単なるフィクションの世界の話であろう。

 そんな中、亀園さんの発する言葉には現実性があり重みがある。
 自分の好きな事、それの発展型である自分の「専門」を極める行為とは、本来のその目的は決して“世界を目指す”ことでも“何らかの実績を残して有名になる”ことでもないはずである。 そう言った付随的な事柄とは、当初より目標として掲げるものではなく、結果として後からついてくる場合もあるという程度のものであろう。
 “海がめになりたく”て海がめを研究し、その海がめのために道など無い人生の変わりのない日々を地味に歩み続ける亀園さんの姿にこそ、実りが訪れることもあろうと私も共感するのだ。


 こんな私の拙いブログでも、知人より「出版」のアドバイスをいただけることがある。 このような自分勝手なオピニオンエッセイが元より売れるはずもないと冷静に判断するが故に、損失を計上してまで出版に踏み込む気もさらさらない“計算高い”私である。
 それ以前の自分自身の哲学として、亀園さんのごとく「変わりたくない、変わらない」「海がめのごとく自分なりのコンパスを見失わず」、いつまでも大海を遊泳し続けるような人生の楽しみもあろうかと考察する原左都子でもある。  
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