水本爽涼 歳時記

日本の四季を織り交ぜて描くエッセイ、詩、作詞、創作台本、シナリオ、小説などの小部屋です。

困ったユーモア短編集-61- 恐れ入りました

2017年06月10日 00時00分00秒 | #小説

 古谷(ふるたに)は困ったことに、いつも相手に対して感心ばかりさせられるダメ男だった。早い話、相手の方がいつも自分の行動より上手(うわて)だった・・ということだ。そんな人生は面白おかしくもなんともないだろう…と思われがちだが、古谷の場合はそうではなく、いつも相手に感心するだけだった。というのも、古谷は自分がそれほど出来がいい男だと自身で思っていなかったからだ。要するに古谷はプライドというものを、まったく持たない男だった訳である。
 村役場での仕事が終わり、古谷は閉庁のチャイムとともに、大きな欠伸(あくび)を一つするとデスクを立った。さてこれからどうする…と古谷が思ったとき、すでに仕事を終えていた町田が声をかけた。
「古谷さん!」
 古谷は今日は俺が一番だろうと…勇んでいたから、庁舎の出口で町田に声をかけられ、先を越されたんだ…と思った。
「恐れ入りました」
 古谷の口から思わず、いつもの謝(あやま)り言葉が口から飛び出していた。
「えっ? 何がです?」
 町田には何か謝られることをされたのか見当がつかなかった。
「いやなに…お早いですね?」
「はあ? あっ! 私ですか? 私、今日は年次休暇をもらったんですよ、少し疲れていたものでリフレッシュしようと思いましてね」
「なぜ、ここに?」
 休みなら、町田が庁舎にいることは怪(おか)しい…と瞬間、古谷には思えた。
「ああ、忘れものがありましたから、ついでに取りに寄ったまでです。今、温泉の帰りなんですよ」
 村には自然に湧(わ)き出した温泉があり、村人(むらびと)は誰もが無料で湯治(とうじ)することができた。町田はそこの帰りだと言ったのだ。
「ああ、そうでしたたか…。恐れ入りました」
 古谷はまた、いつもの謝り言葉を口にしていた。というのも、古谷もかなり疲れが溜(た)まっていて、年次休暇で休むか と考えていた矢先だったからである。この発想でも先を越された訳で、恐れ入りました…となった訳だ。
「またまた! 何が?」
 町田にはそんな古谷の心境は分からないから当然、また訊(たず)ねた。
「いや、もういいじゃないですかっ!」
 これじゃ切りがない…と、古谷は思わずそう返した。二人はその後、鮨(すし)屋でビールを飲みながら美味(うま)い鮨を摘(つま)まんだ。古谷には入ったことがない初めての鮨屋だった。店を出ようとしたとき、町田が恰好よく言った。
「あっ! いいです。もう払いは済ませてますから…」
 聞くところによると、町田は毎月、先払いである程度の額を店へ前金で入れておくのだという。なんと鯔背(いなせ)な…と、古谷には町田の行(おこな)いが小粋(こいき)に映(うつ)った。
「恐れ入りました」
「なにがです?」
 町田だけではなく、店の店員も意味が分からず、訝(いぶか)しげに古谷を見た。
「いや、まあ…」
 古谷は説明するのも憚(はばか)られ、小声で暈(ぼか)した。そんな古谷だが、相変わらず今日も、「恐れ入りました」と、すべてに恐れ入っている。

                            完


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