11月29日(土曜日)
宇治田原町の湯屋谷は日本緑茶発祥の地です。ここで緑茶製法を開発した永谷宗円が生まれました。1680年と言えば時は徳川八代将軍吉宗の時代です。祖先永谷家は山城の国侍で、 文禄元年(1592)湯屋谷に居を構えたと伝え られています。宗円はこの地で15年間、思考錯誤を続け製茶法を編み出しました。ここに「永谷宗円生家」が有りますが、外から見ただけで中には入ったことは有りません。土日の午前9時から午後3時ごろまで無料見学出来ると知り、孫の晴太を連れて三人で見学に行きました。
湯屋谷の生家は、国道307号線から右にそれて1、5キロほど山奥に入った所に有ります。途中の道は狭く、軽自動車で行くのが楽です。
杉木立に囲まれた生家は、かやぶきで一見古い家に見えますが、地元有志が54年前に建てたものです。
見学は裏にお住まいの方が管理されているので、チャイムを押して見学したい旨言いました。「今天婦羅を揚げているので、お自由にお入り下さい」の返事が返って来ました。
中に入ると真っ先に目に入るのは、製茶に使用していた焙炉(ほいろ)です。
土を固めた1畳ほどの”ほいろ”で火をおこし、その上で茶葉をあたためながら手もみをします。
ほいろ二つは、当時の物と伝わっています。
宇治田原のお茶作りに多大な貢献を果たした宗円は、村人たちからも慕われ死後、生家の近くには茶宗明神社が建てられ、神様として祭られています。
もう1週間早く見学に行ったならば美しい紅葉が見れたはず。残念です。
あのお茶漬け海苔の永谷園は、寄付1000万円していましたよ!
駐車料金:無料。見学料:無料。今日もタダで楽しむことが出来ました。
【永谷宗円】
宗円は元文3年(1738)、露天栽培のやわらかい新芽だけを用い、 蒸してから焙炉上に設けた助炭の上で始終手で揉みな がら乾燥させるという 新しい煎茶を編み出した。これを編み出すまで15年の歳月を要した。それまでのお茶といえば、文字通り茶色だったが、このお茶は今までの常識を打ち破った茶で、鮮やかな緑色で味も香りも大変素晴らしい緑茶だったのです。しかし、この製法は伝統的な製法にこだわる宇治では理解されなかったので、 宗円は江戸の茶商山本屋:(現在の山本山、皆さんご存知の上から読んでも山本山。下から読んでも山本山)と提携しました。
彼の生み出した緑茶は、「天下一」の号で売り出されました。この結果、このお茶は江戸から、日本中へと人気を博し、また宗円は同時にこの製造法:宇治製法を自分一人のものとせず、周囲の人々に快く伝授したので日本全国に宇治製法が広まり、この製法でお茶を生産するようになりました。現在宇治茶として全国に広まった煎茶は、このとき宗円が開発した 製法を機械化したもので、宇治田原は、まさに日本 緑茶発祥の地。一方、宗円は茶の製法を村人に伝えた後、98歳の天寿を全うしました。
【参 考】
1.日本で最初に茶をもたらしたのは鎌倉時代、臨済宗を伝えた栄西禅師です。 栄西禅師から種を分けてもらった明恵上人が茶が栂尾で栽培を始め、宇治に伝えました。下の石碑と茶畑の画像は、栂尾にある高山寺に行ったとき見学したものです。
当初は薬として飲まれていたそうです。そのころのお茶は、 覆い下でやわらかく育った新芽だけを摘んで蒸し、 焙炉の上で乾燥させてつくった碾(てん) 茶を臼で挽いた抹茶でした。鎌倉時代の終わりには、次第に嗜好品として飲まれるようになり、 銘柄を飲み当てる「討茶」 が行われるようになりました。贅沢品としての茶を「茶道」という文化に高めたのは、 戦国時代の千利休であり、利休や古田織部織部によって武将の間に広まりました。
2.宇治田原とお茶のかかわりは古く、鎌倉時代にまでさかのぼるともいわれています。この場所がお茶の栽培にすぐれているらしく、皇室や将軍家にも献上されたといいます。
3.緑茶と煎茶の違い
お茶の製造方法によって名称が違います。
まず発酵の具合で緑茶(不発酵)、烏龍茶(半発酵)そして紅茶(全発酵)と分けられます。さらに緑茶の中でも茶葉を蒸してから揉みながら乾燥したものを煎茶といいます。
茶葉の採取時期や採取方法、蒸し方、もみ方の違いで煎茶や番茶、てん茶、玉露などに分けられます。
煎茶は緑茶の種類と考えていいでしょう。 当時上流階級の間で飲まれていたのは抹茶でした。
4.お茶漬け海苔で有名な永谷園も宗円が祖先です。
日本の食品産業を代表する永谷円、山本山の二つの大きな企業の源流が宇治田原とは余り知られていませんが、山城地方の皆さんは自慢していいでしょう。