夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

戦争を知らない私でも、国民のひとりとして哀悼の意を表し、黙祷を重ねて50数年が過ぎて・・。

2020-08-15 12:34:25 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む75歳の年金生活の身であるが、
朝の7時過ぎ洗面した後、庭のテラスに下り立ち、襟を正して、

都心の皇居に向かって黙祷した・・。

私は1944年〈昭和19年)9月下旬、今住んでいる近くで農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945年〈昭和20年)8月15日に日本は連合国に降伏し、敗戦となった時、
一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代のひとりとなっている。

後年になると敗戦する数年前の状況に関して、祖父、父、母、叔母の同居する人たちから、
或いは親戚の叔父、叔母からも、この当時のことを教えて貰ったりしてきた・・。

         

この当時、住んでいた北の方面には軍事戦闘機を製造する中島飛行機の工場があり、
西の方面には軍事物資を生産する軍需工場とされた東京重機が数キロ先にあった為、
ときおり近くに爆弾が落ち、空襲警報のたびに、
宅地から少し離れた生家の崖の雑木林にある防空壕に避難した、と話しを聞いたりした。

祖父と父か中心となって、程ほどの広さの田畑を耕し、
人手の足らない時は小作人の人々の手も借りたりしていた時代でもあった。

そして空襲警報が発令されると、何をおいてもとりあえず防空壕に避難したので、
慌しい恐怖の時代でもあった。

少しばかり遠方にあった軍事物資を製造する場所、軍用機を生産している場所を目標に、
米軍の爆撃機が幾たびか飛来し、爆弾を大量に落としたのであるが、
ときには付近の田畑、雑木林に落下した、 と後年に親戚の叔父さんに私は教えて貰ったりした。

そして250キロの爆弾と言われても私は定かでないので、
更に教えを乞うと、今で言うと大きなプロパンガスぐらいょ、と叔父さんは私に教えてくけたりした。

やがて私は大きなプロパンガスのような爆弾が、空から大量に降ってくる状況を想像すると、
身も心も身震いをしたのは、高校生の頃であった。

そして後年に、1944年(昭和19年)11月24日、アメリカ軍は、
大型長距離爆撃機の『B29』がマリアナ諸島を飛びだった111機が東京に初空襲し、
目標は中島飛行機の工場だった、と学んだりした。

        

その後、幾たびか東京の都心にも空襲し遭い、決定的な東京の大惨事は、
1945年(昭和20年)3月10日、『B29』が320機以上が、
1600~2200メートルの超低高度で、夜間に焼夷弾攻撃という新戦術が、
本格的に導入された初めての空襲であった。

その目的は、市民の生活の場である木造家屋が多数密集する下町の市街地を、
そこに散在する町工場もろとも焼き払うことにあった。

結果として、大きくの街は焼かれ、焼け焦げた遺体の山となり、死者・行方不明者は10万人だった、
と記載されたいた。


私の生家は、戦時中の頃は、玄関の中は広い土間となり、
その一角の壁面に、各自の綿入れの布地の防空頭巾をつるしていた。

そして空襲警報が発令されると、祖父、父、母、叔母の人々に導かれて、
私が生まれてまもない頃の時は、長兄は5歳、次兄は2歳であったので、
防空頭巾をかぶしてもらい、手をひかれながら、防空壕に避難された・・。

私は乳児であり、おしめの取れない時期であったので、
母たちは何かと大変だっただろう、と思い返したりしている。

後年になると、叔母たちが話されたので聞いたりすると、
この当時は、防空壕の内部の土の上に藁(わら)を敷いた上に、莚(むしろ)か茣蓙(ござ)に座り、
家族全員で互いの安否を確認した上で過ごした、と教えられたりした。

        

私が小学3年生の頃になると、図画の授業で先生に我ら学童は引率されて、
学校の近辺の丘陵の雑木林に行った時、
コンクリートできた高射砲の台の跡が数多く見受けられた。

もとより戦時中、アメリカ軍の飛行機の来襲に備えて、高射砲で向かい撃つ態勢で、
造られた形跡であった。
そして上空から見えにくいようにコールタールの黒色に塗られていた。

この頃までは、小学校の帰路に寄り道をすると、数多くの防空壕が見受けられたり、
生家の防空壕も小学の後年の頃までは遊んだりした。

生家の雑木林の崖の一角に、縦横1.8メートルぐらいの入り口に木戸があり、
少し入ってまもなくすると、横に掘られ横幅が広くなり、奥は8メートルぐらいと感じたりした。
わずかに湿度を感じたりしたが、広間のようにゆったりとしていた。

後年の成人になった私は、
防空壕は入り口からまもなく角度が横になったのは、万一の爆風を避けることであろう、
そして幾分広めの内部は、平素の農作物の保存場所に併用していた、
とおぼろげに思ったりした。

この私の生家の防空壕は、私が中学に入学してまもない時、
都道が新設されることとなり、跡形もなく付近の田畑、雑木林も含め、

住宅街に大きく変貌したのであった。

このように戦争を知らない私は、防空頭巾、防空壕、高射砲台の跡、
後年の後づけとして知ったりした程度である。

       

このようなことを思い馳せたりしていたが、
もとより防空頭巾は、アメリカ軍の爆撃機が飛来して空から爆弾を落としたり、焼夷弾で焼き尽くしたり、
軍事生産地、住宅街などに大打撃を与え、住民も殺傷する目的を防ぐ目的であるので、
地上にいる人たちは余りにも残酷で、戦争は悲惨である。

敗戦となった日本は、数多くの方は家族を亡くされ、住まいも焼かれ、財産も失くしたが、
国からの賠償もなく、国民ひとり独りが立ち上がり、敗戦後の日々を歩みだしたことに、
私はただ項垂(うなだ)れるばかりで、当時の人々に思いを馳せると、胸が熱くなる。

私は小学校の高学年の時、一葉の写真を見た時は、
その夜は子供ながら、浅い眠りとなった。

この写真は、天皇陛下の横で悠然とたたずむマッカーサー元帥の姿であった。
そして私の生を受けた日の一年後であったので、なおさら後年に印象深く、私の心に残った。

1945年(昭和20年)9月27日、
昭和天皇が東京・赤坂の米国大使館に、マッカーサー元帥を訪問した写真が、
2日後に新聞各紙に掲載された写真であった。

モーニング姿で直立する陛下の隣で、開襟シャツの元帥が腰に両の手を当てて悠然とたたずむ、
まさに勝者と敗者の違いを伝えている一葉であった。

             
☆たまたま2015年の5月に、福永文夫・著作の『日本占領史 1945-1952 東京・ワシントン・沖縄』(中公新書)を購読したが、
この本の帯に、昭和天皇が東京・赤坂の米国大使館にマッカーサー元帥を訪問した情景の写真があり、今回あえて掲載した☆
 
私は都心にある高校に入学した1960年(昭和35年の)春、特に日本史、世界史が好きとなり、
こうした中で、まもなく週刊誌『朝日ジャーナル』、そして近代史の書物も乱読してきた。

やがて22歳の頃から、沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、そして9日の『長崎被爆』、
まもなく15日の『終戦記念日』と称せられる『敗戦記念日』は、黙祷をして50数年は過ぎている・・。

こうした根底には、かの大戦で、余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
こうした日は、人々に哀悼の意を表して、黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。 

こうした中、若き10、20代の御方には、
少なくとも日本の過去には、こうした現実があった、と認識して欲しい、固く願っているひとりである。


          


私はここ15年ばかり、この15日に於いては、
都心の千代田区の千鳥ケ淵戦没者墓苑の碑に刻まれた両陛下の詠まれた歌に、
思いを重ねたりしている。

   国のため いのちささげし
      人々の ことを思えば 胸せまりくる         
                       昭和天皇

   戦なき 世を歩みきて
      思ひ出づ かの難き日を 生きし人々
                       平成天皇

私はこの歌を深く拝読するたびに、思わず胸が熱くし、
その時代を少し学んできた歳月に思いを馳せ、まぎれない鎮魂曲のように感じている。

          

この昭和天皇の歌の思いは、
靖国神社から程近い所にある千鳥ケ淵戦没者墓苑は、
訪れる人も少なく、この季節は蝉時雨が響き渡る情景の中、 詠まれた伝えられている。

平成天皇の歌は、戦後60年の年の歌会始の儀で詠まれた、と報じられていた。

そして昭和天皇の御製の碑と向き合う形で、
2005年(平成17年)9月に平成天皇の御製の碑が完成した、
と確か読売新聞で読んだりし、私はつたない身ながら学び、思いを深めている・・。
          
コメント (2)
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