夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

日本は多死社会となる中で、QODも肝要と学び、71歳の私は戸惑いながら、やがて微苦笑して・・。

2016-04-03 11:51:45 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の71歳の身であるが、
今朝、起床すると小雨が降り、働いて下さる諸兄諸姉の数多く人は、休日を迎えていると思われるが、
日本各地で、ご家族で安楽に桜花を鑑賞できれば・・と念願したりした。

やがて配達された読売新聞を読んだりしている中、14ページの【安心の設計】を読んだりしていた。
こうした中で、【 日本「多死社会」へ 】と見出しされて記事を読んだりした。

本田麻由美・記者が綴られた記事であり、無断ながら転記させて頂く。

《・・今後、日本は多死社会となる。
年間死者数は2015年に130万人を超え、39年に167万人でピークに。

これは、現在の福岡市や神戸市の人口(ともに約154万人)に匹敵する規模だ。
医療の進歩などで平均寿命が延び、20年後には人口の5人に1人が75歳以上になる中、
高齢の死者数が急増するのは必然だ。
            

「そうした時代に重要なのが、より良い逝き方を考えるQODという視点だ」と、
袖井孝子・お茶の水女子大名誉教授は言う。

1980年代から欧米で使われ始め、21世紀に入り研究が盛んに。
望んだ「死に場所」や治療法が得られ、苦痛が少なく、人生のふり返りや遺言・墓などの準備をし、
家族との時間があることが、QODを高めると指摘される。

医療チームとのコミュニケーションが十分あることが、家族の満足度にもつながるという。

だが、内閣府が12年に55歳以上に行った調査では、
「自宅で最期を迎えたい」と回答した人が54・6%だったのに対し、実際は8割近くが医療機関で死亡している。

国は今後、急増する死者数を病院で受け入れきれないこともあり、
在宅看取りを進めるが、高齢期の住まいや在宅医療、介護などの体制整備は手探りだ。

多死時代に向け、社会全体でQODを高める対応が求められる。・・》
            

この後、私は『QOD』の解説を読んだりした。

《・・QOD= Quality of Deathの略で、直訳は「死の質」。
生活や人生の質(QOL)を高めようと最期まで、より良く生きることを支えることが、死の質も高めるとの考え方。
欧米では、一時点の死(Death)ではなく、死にゆく過程や死後の遺族ケアも含む「Dying」を使うことも多い・・》

私は何かと横文字が苦手であったが、クオリティー・オブ・デスの時代の到来か・・と心の中で呟(つぶや)いたりした。
            

私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中、私たち夫婦は幸運にも大病に遭遇せず、今日に至っている。
しかしながら命ながらえば、やがていつの日にか、介護を受ける身となる。
          
私たち夫婦は子供に恵まれずたった2人だけの家庭であり、
もとより子供に介護などは頼ることは出来ないので、いつの日にか介護を要する身となった時は、
介護施設に入居するか、或いは自宅でするか、漠然としながらも思案する時もある。
          
ここ数年、私が何よりも恐れていることは、痴呆症となり、自身が正常に自覚をできないことである。
私は親戚の方、知人の方とか、本などで痴呆症の悲惨さを少しばかり学んだりし、
たとえば私が痴呆症となり、介護をしてくれる家内の身を案じるとたまらないのである。

或いは逆に家内は痴呆症となり、私が看病する場合も同様である。

痴呆症の本人は介護して下さる方も解らず、
何よりも介護する方は、看病する張り合いがないと思われるからである。
                         

このような私の思いから、痴呆症になる前に、ポックリとこの世と別れを告げたい、と思ったりしている。

過ぎし6年の晩秋ある日、私の自宅の近くの川沿いの遊歩道を歩いていた時、
この遊歩道は片側が帯状に小公園となり700メートル前後あり、
樹木、草花が四季それぞれに彩(いろ)っている場所で、私の散策の好きなひとつのコースでもある。
      
そして、いつものように木のベンチに私は座り、煙草を喫いながら、少し休息をした・・。

この時に、どうした思いか解らないが、いつの日にか命が果てる時は、
晩秋の午前のやわらかな陽射しの中、ポックリと死を迎えられたら本望である、と脳裏をかすめたりした。

この遊歩道で、独りで歩き、桜(サクラ)、モミジ、ドウタン躑躅(ツツジ)等の朱色を誉(ほ)めたり、
白梅、公孫樹(イチョウ)、コナラ等の黄葉の彩(いろど)る錦繍の中、
木漏れ陽を受け、ときおり舞い散る葉を眺め、
好きな本を抱(かか)えて、突然に命が果てる、といった状況を願ったりしたのである。
                                 

或いはいつの年か身体の変調を感じて、自宅で寝ていて数日し、悪化を増す中、
布団の中でオシッコを一度だけ漏らしたりして、死去後のことなどを家内に伝言する。
やがて救急車で病院に運ばれて、入院して数日後に死去する。

そしてこの間に家内からは
『あなたとの生活・・楽しかったわ・・』
と心の中で感じてくれれば充分である。

やがて私の葬儀の中、家内が私の兄妹、知人に、
『一週間前の頃は・・いつものように買い物に行ったり、散歩もしていたの・・』
と家内が言ったりしてくれれば、私はあの世で満足していると思われる。
            
          
こうした心情を重ねてきた私は、数年前に「ピンピンコロリ」は難しい、とネットの記事で学んだりした・・。

がん医療の権威で終末期医療に詳しい大野竜三医師(愛知県がんセンター名誉総長)は、
『・・ピン・ピン・コロリ。それは中高年なら、誰もが願う生き方でしょう。
でもそう簡単なことではありません。

現実的に60歳以上の日本人がコロリと逝くとしたら、心筋梗塞か、脳出血か、脳血栓かと思いますが、
救急搬送されれば、救命措置が施されるでしょう・・』
と私は学び、やがて微苦笑したりした。
            

このように70代か80代のいつの日にか末期となると思われるが、
こうした「ピンピンコロリ」と突然にこの世とお別れになるか、
或いは入院もわずかで死去したい、と念願しているが、どのようになるか、今の所は漠然としている。 

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コメント (2)
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