夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

過ぎ去りし、定年後の私の11月28日の思いは・・♪  【下】

2009-11-28 16:56:49 | 定年後の思い
2006年11月28日の朝の8時過ぎ、
【 さだまなぬ天気・・♪ 】
と題して、短めに投稿していた。

【・・
東京の郊外は深夜から雨が降りだして、先程から霧雨となっている。

昨夜の天気予報に於いて、午前中は晴れ間となるが午後は曇り、と報じていたが、
今朝の予測は雨時々曇りと変った。

気流の流れにも天気は左右されるのば頭でわかっていても、
気持ちが付いてゆけなくて、少し戸惑っている。

うつろな気流、果たして日中は・・と空を見つめている。
・・】


この後、午前中のひととき、
【 私がサイモン&ガーファンクルを聴いた頃・・♪ 】
と題し、三回に分けて投稿していたが、集約して掲載する。

【・・
昭和43年、私は大学を中退して3年が過ぎようとした頃であった。
映画青年、文学青年のまねごとをし、先行きの見えない日々を過ごしていた。

学生時代の友人達は社会の一線で出て、社会に対しまぶしくもあったが、
根拠のない自信ばかり強くて、屈折した日々を送っていた。

大学を中退した後、シナリオ・ライターの養成所に入り、
養成所、講師からアルバイトを紹介してもらった。
アメリカのテレビドラマの下請けで、出演者として脇役で数本出たりした。

或いは、ある月刊誌の記事の与えられた課題を取材し、下書きまでして、
講師が筆を入れて、講師の名で発表されたが、
ある程度の収入となった。

このようなことを何時まで行っても文章修行の時間がなくなり、
警備員などのアルバイトをしながら自由な時間を確保したりした。

あるお彼岸の時、親戚の叔父さんから、
『若い時・・なんとでも成るが・・30からどうするの・・』
と怒られたりした。

学生時代の友人達は、社会に出て、逢う機会も次第になくなり、
何かしら取り残されたようになってきた。

やはり定職に就いて、いずれは・・と思い、
新聞広告で就職募集の中途採用欄を見て、ある大手の家電会社の営業職を受験した。

この試験の帰りに映画館で『卒業』を観た・・。
この頃、ラジオから『サウンド・オブ・サイレンス』がよく流れていた。
映画はこの曲を中心に流れ、私は魅了させられ、
初めてサイモン&ガーファンクルの歌声、メロディーに酔いしれた。


家電の営業職の中途採用は、その後は面接を二回ばかりして、幸いに採用通知を頂いた。

このような時、近所の家電販売店の店主が実家にたびたび来宅していた。
『あんたなぁ・・家電の営業・・といってもなぁ・・余程の覚悟でならないと・・使い捨て・・消耗品なるよ・・
同じやるなら・・手に職を持った・・・技術だょ・・』
と私は忠告された。

私は社会に対し、中途半端な身であったので、技術職といっても皆目検討が付かなかった・・。
このような時に、本屋の店頭でダイヤモンド社のビジネス雑誌で、
『三週間でわかるコンピューター』の付録があった。

購入して読んだが、理工関係に弱い私は理解出来ない方が多かった。
ただ漠然として、これからの企業ではコンピューターが伸張する、
と理解していた程度であった。

私はコンピューターのソフトコースの専門学校に1年間学んだ上、
ある程度の企業に中途入社しょうと思った。
同期の生徒は、高校を卒業したばかり理工方面に強い若い男女が多く、
私は遅れた青年のひとりとして、学んだ。

私は積分、微分には苦慮したが、授業を受けていく中、
コンピューターを操作していても処理時間に相当掛かるので、
空き時間があり、企業に入ったら、この時間を創作時間に当てようと思ったりした。

この後、ある企業に入社したが、企業は甘くなく徹底的に管理部門のひとりとして鍛えられた。


昭和45年4月、私はある大手の音響・映像の会社に中途入社が出来た。

この頃は、サイモン&ガーファンクルの『ミセス・ロビンソン』、『スカボロー・フェア』、
『サウンド・オブ・サイレンス』等が収録されたLP『サイモンとガーファンクルのグレーテイス・ヒット』をよく聴いていた・・。

そして究極のアルバム『明日に架ける橋』が発売され、
レコードが擦り切れるくらい好く聴いた・・。

♪Sail on silvergirl、
 Sail on by
 Your time has comev to shine

【『明日に架ける橋』 song by Poul Simon】

私はガーファンクルの声でこの部分に触れると胸が熱くなり、思わず涙ぐむ・・。

私の彷徨した時代に終わり、遅ればせながら社会人としてスタートを切り、
そして海の彼方のアメリカの混迷した社会も思いながら、
この曲を聴いたりしていた。

私の勤める会社は、レコード専門会社として独立し、
私は企業の一年生として業務にのめり込んだ。

この年の夏、他社であるが『コンドルは飛んで行く』が流行し、
そして晩秋には三島由紀夫が自裁され、
私の青年期は確実に終わりを告げた。
・・】


この日の午後に、
【 私の魂(たましい)まで響いたテレビ番組・・♪ 】
と題して、2回に及び投稿していたが、集約して掲載する。

【・・
私は昨夜、NHKで10時より【プレミア10】の定期番組に於いて、
《世紀を刻んだ歌》と題した『明日に架ける橋・賛美歌になった愛の歌』を観た・・。

私の若い頃、サイモン&ガーファンクルに魅せられた一時期があり、
特に『明日に架ける橋』が心の歌のひとつして残って折、
懐かしげに観た次第であった。

私の知らない若い女優・緒川たまきが取材をしながら、カメラで撮るという進行で、
『明日に架ける橋』を丹念に思索する番組であった。

アメリカ9.11の同時多発テロ後、
この歌を含めて6曲前後、放送が自粛され、
こうした中でもポール・サイモン自身が犠牲者追悼の為に唄っている情景が映し出された・・。

その後、『明日に架ける橋』でピアノ伴奏をしたラリー・ネクテルとのインタビューの折り、
『・・偶然に意図したものより、良くなる事がある・・
イントロを考えたのは自分で・・
思わずそのまま存在しなかった3番まで弾(ひ)いてしまった』
と発言していた。

そのそばで聴いていたガーファンクルはハミングをして、
サイモンは帰宅後、3番目の歌詞の・・銀の少女・・を書き上げた、
と証言されていた。

サイモン自身、古きゴスペルのひとつを聴き、『明日に架ける橋』のアイディアが沸き、創作できたらしい。

その後、番組では南アフリカで1970年代の半ばに、アパルトヘイトの問題が世界を騒がせた折、
アレサ・フランクリンの唄う『明日に架ける橋』が南アフリカの多くのお宅の家で流れた・・。


ポール・サイモン自身、南アフリカのアパルトヘイトの喧騒の時代、
南アフリカの入国は認められず、この隣国で多くのアーティスト達とコンサートを6万人前後の中で開いたりした・・。

そして肝心の南アフリカに於いては、
アレサ・フランクリンのゴスペル風のバージョンの唄が愛され、
悲惨で希望のない住民に賛美歌として唄い継がれていく・・。

そして、現代の若い中学生の合唱で、
ゴスペラとしての『明日に架ける橋』が唄われている。

取材者の緒川たまきが番組の終わりとして、
『明日に架ける橋』は、もはやサイモンとガーファンクルの歌にとどまらず、
ひとつの賛美歌として多くの人々に愛される歌になっている、
とこのような意味の言葉を残して、番組は終わっている。

番組終了後、私は少し涙ぐんだ・・。

たった一つの歌は、民族、国家を乗り越えて、
人々に勇気と希望をもたらす力を秘めている・・。
そして歌が生まれ40年前後たった今でも、
世界に数々の動乱ある時代を中、歌は人々の中で伝承されている。


テレビ番組のドキュメンタリーのひとつであるが、
ときとして私の魂(たましい)まで響く番組がある。

私は今日の午前中、
この随筆欄て『私がサイモン&ガーファンクルを聴いた頃・・♪』を三回にわたり綴ったが、
この番組を観て、誘発され、そして余情して綴ったりしていた・・。
・・】


定年退職後の一年を過ぎた2005年11月28日の朝の8時過ぎ、
【 我が家も冬の陣・・♪ 】
と題して、短めに投稿していた。

【・・
東京の郊外も晩秋も深まっているが、ここ数日に家内は室内を冬に備えている・・。

冬用の毛布、布団、炬燵を準備している。

そして私の冬用のセーター、スポーツ・シャツ、ズボン、肌着、綿入りの半纏を、
スリー・シーズンから入れ替えていた。

主婦の方は、何かしら忙しい時期となっている。

私の方も朝六時の定刻に起床し、
まだ薄暗い朝の中で煎茶を淹れて、
家内の枕元に牛乳とコーヒーのそれぞれのマグ・カップを置いたりしている。

その後、新聞を読みながら、NHKのニュースを観たりしている・・。

七時になると家内は起きて来て、洗濯機をセットし、
私は戸を開け始める・・。

こうして我が家の冬の季節は、昨年と同様に始まっている・・。

朝の陽射しを受け、ぼんやりとパソコンに向かい、
何時ものように『地元の天気予報』、『NIKKEI NET』等を検索している。
・・】


この日の午後3時半過ぎには、
【 住みかの理想を求めて・・♪ 】
と題して、投稿していた。

【・・
私は東京の郊外で、調布市に住んでいる。

世田谷区と狛江市に隣接した場所である。
従って、電話地区は都内となっていて、不動産の売却依頼のチラシが、
毎日、数社から郵便ポストに入ってくる。

近くに流れる野川沿いに、住宅地に整備されたのは、バブル時期であった。
50坪程度に区画された土地が一億円以上で、売地と表示されていたので、
家内と驚いたりしていた。

私はこの近くで一戸建ての程々の広さの庭で生活して、
多額な住宅ローンを返済していた。

定年前にやっと返済が終ったので、
定年後の今は、土地と家屋に伴う固定資産税と都市計画税を支払っている。

家を建てる時、気負って茶室まで造ったので、
造園にかける資金がなくなり、雑木を植え込んで対処した。

植え込んだ雑木は、か細い頼りない樹木であったが、3年、7年と過ぎれば、
それなりの樹形になってきた。

こんなふうに28年を過ぎれば、
淘汰した雑木もあり、新たに植え込んだ樹木もある。

こうして季節に応じて、雑木はそれなりの色合いを楽しませてくれる。

数年前、新聞の広告で高層マンションの案内が載っていたのがあった。

『こういうマンション、庭の手入れも必要なく、
住み易(やす)そうね・・都内の展望も観えるし・・
港の情景も観えるわ・・都内のホテルも近いし・・』
と家内は言った。

『だけど、季節感がないよ・・』
と私は言った。

『そうかしら・・』
と家内は言った。

『そうした情景は飽きるよ・・
そうした情景に近いホテルに3泊4日で泊まったら、
解ると思うよ・・』
と私は言った。

私の定年後の理想は、
旅行先で観かける里山を切り拓いたホテルの付近の分譲住宅であった。
里山の樹木に囲まれた一軒屋に住み、
ときたまホテルのレストランで食事をする。

こうした事を10数年前に家内に話した所、
『利便性がないわ・・買い物も大変よ・・お友達も遠くなるし・・
風邪を退いても、ケガをしても、その上よ、身体を壊しても近くに病院がないわ・・』
と言われ、反対された。

我が家の結論として、このまま今の家に住み、
片方が身体が弱った時、看護用の老人マンションに移る、
と話し合ったしたのである。

それまで我が家の周辺と違った国内旅行先でその地なりの情景を受容し、
思い出を創っていく、こととなった。

それぞれの理想の家は、まぼろしとなった次第となったりした。
・・】


私の定年退職日の少し前に、家内の父が病死し、葬儀が終えた後、
私自身の定年退職に伴う書類などを提出したり、慌ただしい日々が続いた。
そして、まもなくブログの世界を知り、二つばかりのサイトに加入したりし、
この中の一部に、【 上総亀山滞在記 【2004.11.29. ~ 12.1.】 】
と題して投稿文が残っていたので掲載する。

【・・
家内の父の四十九日だった。
家内の母が、千葉県木更津のはずれに墓地を求めていたので、納骨に訪れた。

死去後、何かと慌ただしい日々が過ぎていた。

JRの支線で久留里線の終点に亀山温泉があったので、この地でゆっくりと休養を取る事とした。
亀山は房総半島のほぼ中心部に位置し、人造湖があり、
湖畔の周囲に宿泊場所が点在し、晩秋が終わりかけている所と想像していた。

ホテルに夕暮れまじかに着いた。
部屋のベランダ沿いに小さな石庭があり、すぐ目の前の湖畔の周囲は桜の樹が群生し、
朱色した葉があたりを染めていた。
この桜の樹に寄り添うようにイチョウの大きな三本の樹木が
黄色した葉がふんだんに彩っていた・・。

夕食後、ホテルのパンフレットを見ていたら、
日本で一番遅いと言われる紅葉・・と書かれていた。
この周囲が紅葉の真っ盛りが、理解できた。


早朝の湖面は、朝霧につつまれてあたり一面、乳白色だった。

家内と家内の母と三人で、湖岸に沿った遊歩道を歩く。
湖岸には公園が多く、ベンチが湖面に向かい、
芝生を張りつめた上に桜、ミズナラの朱色の葉が、湖上からの微風で揺らいでいた・・。

切り通しの小道を歩いていたら、路上の落ち葉は朝霧で濡れて、
陽射しを受けていた・・。
あまり手を加えていない雑木の中で、大きな紫式部の群生が、たわわに実を付けていた。
うっかりすると、見過ごしてしまいそうだった。
今年も確かに、秋が受容できた・・。

紅葉クルーズと称した、湖上の遊覧船に乗る。
この湖は幾つかの蛇行した川の集まりだったので、
渓谷がそれぞれに変化し、渓谷の樹木も移ろった景観を見せている。

錦繍の名所の光景は、全国に数多くあるが、余りにも形作られた面が多く、一面不満が残る。
この湖、湖畔、渓谷沿いの樹木は、どこか懐かしい風景だった。
日本のふるさとの原点である風景に思え、胸に沁みた・・。

ホテルに戻る途中に、手打ち蕎麦の看板が見えたので、蕎麦屋に入る。
手打ち蕎麦、看板に書かれている場合にしろ、
或いはお品書きに書かれていても、大方満足することは少ない。

『手打ちそば 上総屋京兵衛』は、蕎麦はやや硬めで、
手打ち特有の口の中で不均一の程度が良く、そばつゆは濃くて、深い。
葱(ネギ)にしろ山葵(ワサビ)にしても完成をしている。

『今日みたいな日は出来すぎだ・・』
と私は家内に言ったら、笑っていた。

旅先でこうしためぐり合わせが、生きているうち、あと何回巡ってくるか、
と考えながらホテルに戻った。


家内と家内の母が、釣りをすると、昨夜に約束していたので、
私は付近を散策することとした。

昨日、遊覧船で廻った反対の方面を歩き出した。
この湖は幾つかの川が集約して出来ていたので、数多くの橋が架かっている。
昨日とは別の遊覧船で、湖畔コースめぐりをするため、
目的とした遊覧船に行ったが、
休日のため、別の遊覧船乗り場を探した。

あちらこちらと探した結果、
『F.コテージつばきも』と、と書かれた看板があったので、
湖畔に向かって坂道を下った。
大きなケヤキの枝から、数多くの葉が空中に漂い、パラパラと頭上に舞い降りてきた・・。

湖畔沿いにペンション風のコテージが見えてきた。

コテージの庭は広く、枯れた芝生の上に、
10数本の桜、ミズナラが朱色したふんだんの葉、そしてイチョウ手の黄葉した葉が陽射しを受けていた。
湖畔の遠くの対岸の渓谷は深緑の常緑樹の中に、
黄色と朱色の落葉樹が複雑なパッチワークのように彩っていた・・。

テラスでビールを呑みながら、この庭園と湖上を見ていたら、

  このテラスにいると
     すべての人が
        詩人になる

と思えた。

ホテルの帰路、昨日の蕎麦屋に入り、遅い昼食とした。
そばつゆは昨日より幾分甘くは感じられたが、都会の蕎麦屋より遥かに高密度が保たれていた。

ホテルの大浴場の窓越しに、
部屋から見えた桜の樹は、葉は全て散り落とし、ここ数日の時が過ぎたことを教えてくれた。

明日は帰宅するが、三泊四日であったのか、
親子三人がのんびりと過ごせた、と心身とも感じた・・。
・・】



このように定年退職後の本日の11月28日を基軸とした投稿文を読み返したのであるが、
その年のこの頃の思いが発露されている。
過ぎ去った日々は少しはかなくも感じるが、
やはり私の心には微苦笑を重ねながらも、愛惜があるのは本音である。




a href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

過ぎ去りし、定年後の私の11月28日の思いは・・♪  【上】

2009-11-28 13:48:15 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の65歳の身であるが、
ここ数日は晩秋の陽射しが暖かく、昼下がりは18度前後となり11月の上旬の頃かしら、と思ったりした。

私は昼前後に付近の遊歩道、小公園の散策し、
紅色、朱紅色、淡い黄色、黄色に彩られた数多くの落葉樹の錦繍(きんしゅう)の華やかな情景に見惚(みと)れたり、
早くも落葉し、路脇に吹き寄せのように幾重にも重ねはじめた彩りを観たりし、
この後、帰宅後に買物に行くのであるが、
少し遠回りして、あすこの丘の落葉樹も色合いも深く染められている、
と心を躍らせて眺めたりしている。

このようなことに心を充たされた後は、読書の秋と称して本を読むことが多い。


先程、午前中のひととき、家内は年末までの予定を考え、いろいろと私に話しかけてきたので、
ゆっくとと話し合ったりした。

この後、私は主庭のテラスに下り立ち、
定年後の今頃はどのように過ごしていたのかしら、と煙草を喫ったり、
朱紅色に染められたモミジを眺めたりして振り返ったりした・・。


昨年の本日の朝の9時半過ぎには、
【 東京都・三鷹市の『家庭ごみ有料化』に反対する人々・・!!】
と題して、このサイトに投稿していた。

【・・
(略)
今朝もいつものように読売新聞の朝刊の中で、
『武蔵野版』を読んでいたのであるが、この中の記事のひとつに驚き、
そしてため息をしたのである・・。

読売新聞社に寄る【YOMIURI ONLINE】にも同一の記事が掲載されているので、
無断であるが転載させて頂く。


     【 三鷹市、家庭ごみ有料化
          来年10月 「負担増」に反発の声も 】

【・・
三鷹市の清原慶子市長は27日の定例記者会見で、来年10月から家庭ごみを有料化すると発表した。
12月2日開会の市議会に関連条例案を提出する予定。
同市は武蔵野地区の6市で唯一、ごみの有料化を見送っていたため、
一部の市議からは「導入の理由が不明確。景気が悪化する中、市民の負担になる」
と反発の声が上がっている。

有料化は、市指定のごみ袋を購入する方式で実施する。
袋は4種類で、Lサイズ(40リットル)が75円、Mサイズ(20リットル)が37円を予定。
高齢者や身体障害者の世帯には、袋の引換券を配る減免措置も設ける。

これにより、市では2007年度のごみ収集量(2万8722トン)から9・9%の削減を見込んでいる。
袋の販売収入の約2億円は、13年度の稼働を目指す新ごみ処理施設の整備費などに活用する。

清原市長は「これまでもごみの削減は一定の成果が出ており、市民に感謝している」としたうえで、
「有料化を機に、さらに意識を持って生活スタイルを変えてもらいたい。
今以上にごみは減らせるはず」と強調した。

一方、有料化に反対する市議会会派「共産党」と「にじ色のつばさ」の市議7人は
同日、記者会見を開き、岩田康男市議は
「お金でごみ減量を意識させるやり方はどうかと思う」と批判した。
29日にJR三鷹駅前で反対の街頭活動を行うという。

(2008年11月28日 読売新聞)
・・】
注)記事の原文より、あえて改行を多くした。


記事の中で、武蔵野地区の6市と明示されたのは、
東京23区に隣接した武蔵野市、三鷹市、調布市等を指定するのであるが、
調布市に住む私は、まだ三鷹市は家庭ごみの有料制度が実施されていなかったことに驚いたのである。

私の住む調布市は、確か2004年4月から実施し、
実施前の半年ぐらいは市民に徹底して、実施の目的、内容を具体的に解かりやすく伝えられたのである。

目的、内容(ごみ区分、収集日、料金)等は上記の三鷹市の案とほぼ同様である。


http://www.city.chofu.tokyo.jp/www/contents/1176118895530/files/16310507022.pdf

http://www.city.chofu.tokyo.jp/www/genre/0000000000000/1000000010108/index.html

この後は私の住む調布市は、ごみの減量化、リサイクルに寄る再活用で
成果を得ていると『市報』など私は読んだりし、
私は市民のひとりとして、負担も少なく、多大な成果を喜びながら、
この時代に適切な施策だったと感じたのである。

かっては市の財政の伸長した時は、
何かと市民は市の行政に頼る甘えられた時代であったが、
昨今の環境問題もさることながら、
市民のささやかに出来ることは市民で賄(まかな)いことも、
今日の市民としての責務と思ったりしているのである。

このように確信している私は、隣接した三鷹市の市民に失礼と思いながらも、
『家庭ごみ有料化』に反対する人々の心情が理解できないのである。

そして、私は無力な年金生活のひとりであるが、
たとえ市民であっても、権利ばかり主張し、責務を忘れる人は、
この世で一番、心が貧しい卑(いや)しい人と思っている。
・・】


そして、この日の午後5時半過ぎには、
【 年金小父さん、『オトナの常識 ~和語編~』に挑戦・・♪ 】
と題して、このサイトに投稿していた。

【・・
(略)
昨日、三井住友グループのSMBCコンサルティングに寄る毎年恒例の、
『2008年 ヒット商品』番付表』
見たりしたが、恥ずかしながら9割方解からないのである。

http://www.smbc-consulting.co.jp/company/mcs/BizWatch/Hit/

そして、大いに落胆し、悔(くやし)し紛(まぎ)れに、
この後、『過去のヒット商品 番付』の項目に於いて、私の定年退職前の年代であったならば殆ど知って折、
少し安堵しながら微苦笑したのである。


先ほど、少しボケた年金小父さんの私は、敗者復活戦として、
読売新聞社に寄る【YOMIURI ONLINE】の中の『新・大人たち』のサイトに於いて、
『オトナの常識 ~和語編~』と題されたコーナーを見つけたのである。

解説として、今週は「オトナの常識~和語編~」です。
和語とは、日本固有の言葉のことなんですよ、と優しく明示されていたのである。

私はゆっくりと、これは確かこうだったよねぇ、
と独り言を云いながら、久々のテストをしたのである。

結果として、9割は正解となったので、
昨日の『2008年 ヒット商品』番付表』の9割は解からなく、
世間から遠のいたと、大いに恥じたのであるが、少しは名誉挽回かしら、微笑んだのである。

そして、私は小・中学生の頃は劣等生であり、
齢を重ね64年の拙(つたな)い身をさらしてきたが、やはり生きてきた体験は無駄ではない、
と少しボケた私は、笑っているのである。
・・】


そして一昨年の2007年11月28日は、宮島・萩・津和野の旅行中であり、
私は帰宅後、
【宮島・萩・津和野紀行《上》【2007.11.26. ~ 11.28.】
と題して、投稿していた。

【・・
   第一章  広島・・歴史の事実の前には・・。

『安芸の宮島、萩、津和野』の団体観光ツアーに旅立ったのは、26日の月曜日であった。

東京駅に9時50分に集合であったので、私達夫婦としては国内旅行で遅い時間であり、楽な方である・・。

東京駅の駅弁も魅力を感じないので、おむすび三つ、新潟の地酒のワンカップを購入した。
これが私の新幹線内での昼食であったが、
私はワンカップ一本で押えて、この後はビール一本とした。

到着駅の広島で午後2時19分着であるが、
平和記念公園内の『平和記念資料館』を観るためであった。

私は高校時代で広島、長崎、そして沖縄の敗戦前後を学んで以来、
この地には気軽に観光する心情ができず、
50歳の手前で沖縄、今年の春に長崎、そして今回は広島は初めてとなっている。


『平和祈念資料館』で私は恥ずかしながら、
齢ばかり重ねて知らない事が多過ぎることを告白する。
たとえば、
【なぜ広島に投下したか?】のコーナーに於いて、

アメリカは、投下目標を原爆の効果を正確に測定出来るよう、
直径3マイル(約4.8キロ・メートル)以上の市街地を持つ都市の中から、
投下目標を選び、その都市への空襲を禁止した。
その結果、広島、小倉、新潟、長崎のいずれかへ投下命令を下した。

ここまでは私なりのつたない知識で知っていたが、

広島を第一目標としたのは、
目標都市の中で唯一、連合国軍の捕虜収容所がないと思っていた、と明示されていた・・。


この後、資料館を出た後は、記念公園の樹木を眺めていた。
公孫樹(イチョウ)の黄色い葉が、風もないのに空を舞い、ハラハラと地上に落下していた。

私は敗戦前の一年前に東京の郊外で生を受けた身であるが、
歴史の事実の前には、ときおり身震いさせられることがある。

先程、拝見した資料館の展示の前、私なりに心の動揺で、かすかに身震いをしたのであった。



   第二章  夜の灯の厳島神社

私達夫婦は、安芸の宮島にいつの日にかと期待し、今回の団体観光ツアーの旅行に申し込み、
初めて訪れた宮島である。

夕食後、遊覧船に乗り、海上から大鳥居、厳島神社がライトアップさせられたのを観るのも、
参加のひとつの理由でもあった。

風もない穏やかな海上で、遊覧船は大鳥居に近づき、
そして大鳥居の中を遊覧船は通り抜けた・・。
前方に厳島神社が観え、後方には五重塔が聳(そび)えている。

幻のような景観であったが、確かに目の前の光景となっていたのである。

下船後、表参道の商店街のある宿泊先の『ひがしや旅館』まで、
遊覧船から眺めた余情、余韻を秘めながら、夜の薄暗い街中を散策した。



   第三章  『大聖院』摩尼殿は、美の結晶なり

宮島弥山の大本山と称されている大聖院に私達夫婦は、朝の8時過ぎに散策した・・。

仁王門から御成門までの石段の階段の中央には、
大般若の経筒があり、触れながら昇ると、無量の福が得られることで知られている。
家内は触りながら、ゆっくりと昇ったりしてきた。

私は昇りきった御成門から境内にたたずむと、
目前の切り立った丘の中腹に弐層の建物に目を奪われた・・。

松の緑の中、朱色、黄色の彩(いろど)りした落葉樹の錦繍の世界に囲まれ、
忽然と佇んだ摩尼殿に心を寄せられた・・。

こうした光景を目の前に展開されると、まぎれない美の世界が素直に理解でき、
私なりの至福な時を過ごせた・・。

境内に並ぶ地蔵堂、釈迦涅槃堂、奥まった高台に大師堂があったが、
この摩尼殿を眺めていれば、充分である。

団体観光ツアーの制約時間の中、
フリータイムを使って、家内と寄ったが、出来れば1日この大聖院で過ごせれば、
これ以上の望みがない、と断言できるくらい魅了された処である。

この後、紅葉谷公園の遊歩道を散策したが、
数多くのモミジの朱色、黄色に染められたイロハモミジ、ヤマモミジ、オオモミジ等を眺め、
既に落ち葉となった道を踏みしめ、ときおり木漏れ日を受けたりすると、
心まで染まるようである。

こうして旅先から戻り、綴っていると、
萩、津和野も周遊したが、のちの想い、としては、摩尼殿、紅葉谷の遊歩道は生涯の心の友となる、
と確信を深めている。



   第四章  『宮島舞楽』の鑑賞後には

今回の団体観光ツアーの特別企画として、
厳島神社で伝統芸能のひとつである『宮島舞楽』が観られることである。

本社祓殿前にある黒漆塗りの基壇に朱塗りの高欄をめぐらして、
前後に階段を付けた舞台で、
大鳥居を背に、本殿に向かい舞い、平 清盛が大阪・四天王寺から移行したと私なりに調べていた・・。

私はこのような高舞台で演じられるので、
舞楽に無知な私は、品格と風雅がある舞と思っていたが、
残念ながら感じ取る素養がなかったのである・・。


私はやむえず、本殿、平舞台、大鳥居などの神社の景観をデジカメで10数枚撮り、
平 清盛の野心を思ったりしていた。

時の頂点に昇りつめる前、安芸守となった清盛は、
この地域の宮島は弥山を抱き神の宿る島として古来より人々から崇拝されて折、
慎(つつ)ましかった神社を抜本的に増改築し、
権力の象徴として、華麗で威容できるよう広大に造りあげた。

中国の王朝との貿易で富を増大させ、都の朝廷まで確固たる権力基盤知らしめた上、
巧みに法華経まで利用し、人心を把握した・・。

私はこのように拙(つたな)いなりに、想像をめぐらしたのである・・。


この後、桟橋の付近で、旅行会社の主催の『牡蠣(カキ)祭り会場』で、
私は焼き牡蠣2つ、そして牡蠣汁を頂いた・・。

正確に表現すれば、私はバックから地酒のワンカップを取り出して、
地酒を呑みながら賞味したのである。

こうした折、ワンカップは便利である。
既に購入済みの四合瓶を取り出し、紙コップで呑むのも悪目立ちであるので、
私の長年の呑兵衛の成功体験が生きているのである。

そして家内から牡蠣をひとつ頂き、地酒を呑めば、
私なりに宮島を離れるのに、心の踏ん切りがついたのである。


第五章  旅先の昼食・・岩国の錦帯橋のときは

私達夫婦は、国内観光ホテルに宿泊することが多いので、
朝食と夕食は宿泊先の観光ホテルを頂く・・。

昼食に関して、団体観光ツアーの場合は、事前に予約を受け付けて、
決められた現地の有名な食べ物を頂く場合が多い。

家内は朝食、夕食の際に食べ物の量が多すぎるので、
昼食時はお腹がすかない、と云い間食ぐらいでよく、私も余り食べない方である。

今回の宮島を後にした後は、岩国の錦帯橋の付近で、
錦帯橋の観光を含めて、12時45分~1時50分の昼食休憩時間となっている。

私達夫婦は事前に自由食と添乗員さんに連絡していたので、
錦帯橋を渡り、川沿いの歩道を歩いたりした。
私達と同様に観光客が多く、やむえず、一軒の食事処に入った。

食事・甘味処『小次郎茶屋』と明示された店であったが、
ビールが呑めることを入店前に確認していた。

家内は甘味の品、私はメニューを見ながら、『がんす』という単品を注文した。

瀬戸内の小魚をすり身にし、フライにした岩国の名物です、
と記載されていた折、
ビールを呑みながら頂いたが、想像以上に美味であった。

私には薩摩揚げ(サツマアゲ)の高級品のようにも感じられ、
この『がんず』の横にレンコンなどの漬物があり、
このさりげない『がんず』と『漬物』が調和されて折、私なりに魅了されたので、追加をした。

結果として、私の昼食は『がんず』2食、ビールの中瓶が2本であり、
家内は甘味を1品となったりした。

尚、旅行会社の選定した昼食は、
岩国寿司とうどん、と明示された折、
私の苦手の押し寿司かしら、と微苦笑したりしていた。

私達夫婦は、旅先の昼食に関しては、
このように食事処で自在に選定したりしている。



   第六章  苦手な秋吉台、秋芳洞

岩国の錦帯橋の後は、秋吉台、そして秋芳洞を観たが、
私は昭和の末期の頃に訪れていた為か、何の魅力も感じることが出来ず、
秋吉台で夏ミカンのソフトクリームを食べたりしていた。

秋芳洞は早めに歩き、洞窟を出たお土産屋さんで、
石のかけらを購入したりした。
たった200円の石のかけらであった、文鎮(ぶんちん)か本立てにしょうか、
と思ったのである。

家内は少し高額な紫水晶の石を購入した後、
私は今宵の友し、地酒の四合瓶を選定した。

退屈なひとときであったが、晩秋の暗くなった中、バスは萩を目指した。



   第七章  されど、『萩』の城下町

私達夫婦は、昭和の末期に初めて萩に訪れたが、
この頃の私は焼き物に魅せられていた時でもあった。

家内が茶事をしていた関係で、ときおり茶室などで萩の茶碗で抹茶を頂き、
日常は、ぐい呑み、茶飲み茶碗を愛用していた。

この当時、焼窯元の薄汚れた奥まった売り場で、
私はひとつのぐい呑みに目が止まった・・。
私は一介の中年のサラリーマンの身で、住宅ローンも重責てあったので、
少し高価であり、心の中はたじろいでいた・・。

このような私の心情を家内は見抜いて、
お買い求めになれば、と云う援言で購入した。
この萩のぐい呑みは、釉薬(うさぐすり)の白さの状況の形が良く、
本体がわずかに傾むいていたので、魅了させられたのである。

私は帰宅後、週に一度ぐらい愛用し、月半ばの頃、
雪の朝、と秘かに命名した・・。
この後も、月に数度は晩酌の友し、この20年間愛用し続けている・・。

今回の宿泊先は菊ケ浜に面した『千春楽』であり、
2階の部屋から、樹齢数百年と思われる松が5本越しに、
日本海の波が浜辺に静かに押し寄せていた・・。

陶芸の宿と称している宿であるが、
メイン・ロビーの一角に高価なオーディオがセットされていた。
メイン・アンプ、パワー・アンプ、CDプレイヤー、そしてスピーカ、
どの機器ひとつ取っても数百万の機器と思われ、
この10年間で販売された優れた銘機である。
2階の一角にある壁際には、30数年前の銘機がさりげなく置いて折、
ホテルのオーナーは何歳ぐらいのお方かしら、
と私なりに興味を覚えたりした。

翌朝、焼窯元のお土産屋、蒲鉾(かまぼこ)直売店、城下町の散策、松陰神社などを周遊したが、
蒲鉾に関しては、フグ、イカ等を含め、程々に購入した。
田中かまぼこ製造所、と記憶しているが、良質で美味である。

城下町の屋敷を散策した折、土塀に沿って歩いていたが、
角地から高杉晋作などの幕末の勇姿が見え隠れしても、
おかしくない幻覚を覚えたりした。
土塀越しの夏みかん・・静寂なひととき・・
あたかも時が止まったように思える街である。

このような心のふるさとのような町、されど萩である。

尚、宿泊した観光ホテルのオーディオの持ち主は、
オーナーの二世で40後半の人である。
私は羨望をかすめたが、吾唯足知、と云いきかせて、
萩の町を後にした。



   第八章  ゆきゆきて、つわぶきの里・・津和野

山陰地方の小京都と知られている津和野であるが、
帰宅後の今、津和野に関しては、
正直な所、困惑しているのである・・。


初めて津和野に訪れたのは、萩と同様に昭和末期であったが、
この時も団体観光ツアーで夏季休暇を利用し、
暑さで疲れ気味だった。
自由時間の時は、酒造所の直売店で地酒を買い求めたりした。

その後は敬愛する森 鷗外に関して、
武家屋敷の塀際の小川に鯉が泳いでいたのを見ながら、
この山里の街でどのように幼児体験をし、
都会に出られのか、と思索していたのであった。


今回も団体観光ツアーであり、昼の12時近くに津和野に入り、
昼食兼休憩時間で『津和野寿司弁当』を家内と分け合い、
ビールを呑みながら頂いたが、
正直な所、貧しさを感じ、食べ物としてもつたない味であった。

この後は、小高い山里にある日本五大稲荷神社のひとつと知られている『太鼓谷稲荷神社』を参拝した。
私は稲荷神社には興味がないが、
津和野の街並みが一望できるので、
この地から輩出された人々を思考には、最適な展望かしら、
と微苦笑したりした。

その後、街並みに戻り、散策時間を一時間ばかりした程度である。

私達は殿町に近い静寂な喫茶店でコーヒーを飲んだ後、
役場の前の庭を観て、役場の景観を誉めたりした。

この標題は、役場にあった津和野の観光パンフレットから、
拝借したのである。

このパンフレットの表紙の副題として、

このまちには不思議な時間が、流れているのでした。

と明記されて折、私は適言と思えた。

まとまりのない小時間の滞在であったので、
いつの日にか、『永明寺』を半日ばかり、そして城跡の公園を散策すれば、
何かしら津和野が視(み)えてくる、と思ったりした。

今の私は津和野に関しては、霧の中に佇んでいるようであり、
まぼろしの町である。

尚、森 鷗外に関しては、私は二十歳以来から敬愛し続けているので、
墓石に本名、森 林太郎墓、と明示した当人の遺言の理由は理解しているつもりである。



   最終章  旅の終りは、『おつまみチャーシュ』

『安芸の宮島、萩、津和野』の団体観光ツアー2泊3日の旅の最後は、
新幹線の広島駅で東京駅行きの午後5時40発の『のぞみ74号』を待機していた・・。

45分程の時間があり、駅構内の飲食街でビールを呑める一軒の店に、
私達夫婦は入った。

明るく清潔な居酒屋風の店であり、
メニューを見ていたら、『おつまみチャーシュ』が美味しそうであったので、
中ジョッキーのビールを呑みながら頂いた。

チャーシュの5切れに、焼き鳥の甘いたれに細ネギがかかって簡素な一品であるが、
私は美味と感じたのである。

私は家内に、美味しいよ、と云いながら、ビールと共に追加注文をした。

こうした店であったならば、手軽にビジネスマンの人々も、
出張、打ち合わせ、懇親でも手軽に利用できる店、
と家内の話し合ったりしてした。

私が魅了された一品は500円程であるが、
今回の旅で一番美味しかった部類に入る、と家内に云ったら、
家内は笑い出したりした・・。

この店を出た後、振り返ったら確か『和楽(やわらく)』と読めた。

                              《終り》

・・】

昨年、一昨年の投稿文を読み返した今、このような心情で過ごしていたかと、
私は微苦笑を重ねている。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする