私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
夕方のひととき、
読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】でニュースを見ていた時、
この中で【新おとな総研】と称されたコーナーがあり、
そして、ひとつとして『あの日あの時』と題された定例記事がある。
この日を基軸に過去の出来事を回想する内容であり、
本日のこの日の11月26日に於いては、
《 11月26日 スト権ストで国鉄が8日間全面ストップした。
1975年(昭和50年)》
と題された記事であった。
私はこの記事を読みながら、あの当時の私を思いだされた。
無断であるが転載させて頂く。
《
34年前のこの日早朝、首都圏のターミナル駅、バス乗り場や、私鉄、地下鉄の改札・ホームは人の波であふれていた。
新宿駅の小田急線、京王線から約3分おきに吐き出された通勤客は、
一直線に地下鉄の丸ノ内線へ吸い込まれ、電車に乗り込むまでに30分待ちの状態。
横浜駅では電車にたどり着くまで1時間も待たされたあげく、
都心に向かう京浜急行の乗車率は250%にも達した。
幹線道路もマイカー通勤の車で大渋滞となった。
旧総評系の「公共企業体等労働組合協議会(公労協)」に加盟していた国鉄(現在のJR)、
郵便、電電公社(同NTT)などの労働組合が、
公務員に認められていないストライキ権付与を要求して突入した「スト権スト」初日の様子である。
スト突入後、三木内閣はスト権を認めないと表明、12月3日に中止の指令が出された。
国鉄は8日間にわたりほぼ全線が運休、利用客延べ1億5090万人に影響した。
郵便物の遅配は1億7000万通に達した。
労働者の正当な権利を求めた実力行使は、
サラリーマンら同じ労働者に苦しみを強いる結果となった。
違法ストの代償は軽くはなかった。
振り上げた拳は己の身へ向かってきた。
国鉄は運休で約202億5000万円の損害を被ったとして、
国鉄職員の労働組合、国労と動労に損害賠償の訴えを起こしたのだ。
この訴訟は、1987年の国鉄の分割・民営化後まで長引く。
94年12月に旧国鉄側が訴えを取り下げるのと引き換えに、
東京駅八重洲口にある国労会館の敷地を明け渡すことでようやく決着した。
(治)
》
注)この記事の原文にあえて改行を多くした。
http://otona.yomiuri.co.jp/history/091126.htm?from=yoltop
この当時、1975(昭和50)年の時は、母が小田急線と国鉄の南武線の交差する『登戸駅』の近くで、
アパート経営をして住んでいて、私は数年前に同居の身となった。
私はあるレコード会社に勤め、この当時は六本木・本社が勤務先であり、
自宅からは小田急線の『登戸駅』から『下北沢駅』で乗り換えて、
京王の井の頭腺の『下北沢駅』から『渋谷駅』に乗り、
国鉄の山手線の『渋谷駅』から『恵比寿駅』まで乗車し、
そして地下鉄の日比谷腺の『恵比寿駅』から『六本木駅』まで通勤していた。
母の処で同居した所から、おそよ会社まで一時間ほどであった。
こうした時、国鉄がストを実施する、と伝えら前日の頃から、ほぼ一週間、
ストが解消されるまで、
NHKテレビの朝七時過ぎのニュースで、
三木総理の官房長官・海部俊樹、国鉄代表の国労書記長・富塚三夫の両氏が対談し、
公労協統一ストをめぐり討議していた。
私はこのニュースを見終わった7時半過ぎに、会社の始業9時半を気にしながら通勤に向ったのである。
国鉄がスト決行と知り、小田急線の『登戸駅』から『代々木八幡駅』で下車し、
この当時は地下鉄の千代田線が小田急線の『代々木上原駅』まで未通であったので、
ひとつ手前の千代田線の『代々木公園前』まで徒歩5分ぐらいを歩いたのである。
そして千代田線の『代々木公園前』で乗車し、『乃木坂駅』で下車して、
六本木の4丁目付近にある会社まで10分ばかり歩いたのである。
私が通いなれた通勤コースと違い、少し戸惑いながら10分ぐらい加味すれば到着した。
しかし、私達の社員の中に於いては、国鉄の中央線、山手線、横須賀線などを利用している方たちは、
会社の近くの安価なビジネス・ホテルに宿泊する方、或いは自動車で途中で同僚、後輩を乗せて出勤したり、
開通しいる私鉄の駅まで歩かれる方、バスを乗り継いで出勤するなどで、
9時半の始業時に間に合ったのは七割方であった。
このような出勤体制が3日続くと、お互いに疲れの表情となったが、
国鉄のスト継続にあきらめ顔となった。
私は同じ小田急線を利用して通勤する方たちと共に、
6時の終業時になり、1時間ばかり残務整理した後、
帰路、千代田線の『代々木公園前』で下車し、小田急線の『代々木八幡駅』までの5分ばかりの道のりの途中で、
この後は小田急線に乗れば帰宅コースと安堵しながら、
居酒屋、屋台などに寄り、ビールなどを呑みながら、
いつまで国鉄の組合の連中はストを続けるば気が済むの、とぼやいたりしたのであった。
周囲も私達と同じような数多くのサラリーマンも疲れた表情となっていた。
私は出勤前、NHKテレビの朝七時過ぎのニュースで、
官房長官・海部俊樹、国鉄代表の国労書記長・富塚三夫の両氏の対決を相変わらず視聴していたが、
早稲田の雄弁会時代に総長まで記憶とどめた海部俊樹氏の論理の前では、
巧者の富塚三夫氏を追い詰める話術に感心しながら、視聴したりしていた。
その上、何より私たちのようなサラリーマンの苦痛を味わせながら、
公労協スト権を勝ち取ることは、おこがましいと思ったりしたのである。
多くの国民の気持ちを理解していない公労の諸兄姉は、
結果として国民から遊離して、さすがの国鉄の国労といえども、
この後は国鉄7日ストなどはなくなったのである。
このようなことを少しボケた私は、思い返したりしていたのである。
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夕方のひととき、
読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】でニュースを見ていた時、
この中で【新おとな総研】と称されたコーナーがあり、
そして、ひとつとして『あの日あの時』と題された定例記事がある。
この日を基軸に過去の出来事を回想する内容であり、
本日のこの日の11月26日に於いては、
《 11月26日 スト権ストで国鉄が8日間全面ストップした。
1975年(昭和50年)》
と題された記事であった。
私はこの記事を読みながら、あの当時の私を思いだされた。
無断であるが転載させて頂く。
《
34年前のこの日早朝、首都圏のターミナル駅、バス乗り場や、私鉄、地下鉄の改札・ホームは人の波であふれていた。
新宿駅の小田急線、京王線から約3分おきに吐き出された通勤客は、
一直線に地下鉄の丸ノ内線へ吸い込まれ、電車に乗り込むまでに30分待ちの状態。
横浜駅では電車にたどり着くまで1時間も待たされたあげく、
都心に向かう京浜急行の乗車率は250%にも達した。
幹線道路もマイカー通勤の車で大渋滞となった。
旧総評系の「公共企業体等労働組合協議会(公労協)」に加盟していた国鉄(現在のJR)、
郵便、電電公社(同NTT)などの労働組合が、
公務員に認められていないストライキ権付与を要求して突入した「スト権スト」初日の様子である。
スト突入後、三木内閣はスト権を認めないと表明、12月3日に中止の指令が出された。
国鉄は8日間にわたりほぼ全線が運休、利用客延べ1億5090万人に影響した。
郵便物の遅配は1億7000万通に達した。
労働者の正当な権利を求めた実力行使は、
サラリーマンら同じ労働者に苦しみを強いる結果となった。
違法ストの代償は軽くはなかった。
振り上げた拳は己の身へ向かってきた。
国鉄は運休で約202億5000万円の損害を被ったとして、
国鉄職員の労働組合、国労と動労に損害賠償の訴えを起こしたのだ。
この訴訟は、1987年の国鉄の分割・民営化後まで長引く。
94年12月に旧国鉄側が訴えを取り下げるのと引き換えに、
東京駅八重洲口にある国労会館の敷地を明け渡すことでようやく決着した。
(治)
》
注)この記事の原文にあえて改行を多くした。
http://otona.yomiuri.co.jp/history/091126.htm?from=yoltop
この当時、1975(昭和50)年の時は、母が小田急線と国鉄の南武線の交差する『登戸駅』の近くで、
アパート経営をして住んでいて、私は数年前に同居の身となった。
私はあるレコード会社に勤め、この当時は六本木・本社が勤務先であり、
自宅からは小田急線の『登戸駅』から『下北沢駅』で乗り換えて、
京王の井の頭腺の『下北沢駅』から『渋谷駅』に乗り、
国鉄の山手線の『渋谷駅』から『恵比寿駅』まで乗車し、
そして地下鉄の日比谷腺の『恵比寿駅』から『六本木駅』まで通勤していた。
母の処で同居した所から、おそよ会社まで一時間ほどであった。
こうした時、国鉄がストを実施する、と伝えら前日の頃から、ほぼ一週間、
ストが解消されるまで、
NHKテレビの朝七時過ぎのニュースで、
三木総理の官房長官・海部俊樹、国鉄代表の国労書記長・富塚三夫の両氏が対談し、
公労協統一ストをめぐり討議していた。
私はこのニュースを見終わった7時半過ぎに、会社の始業9時半を気にしながら通勤に向ったのである。
国鉄がスト決行と知り、小田急線の『登戸駅』から『代々木八幡駅』で下車し、
この当時は地下鉄の千代田線が小田急線の『代々木上原駅』まで未通であったので、
ひとつ手前の千代田線の『代々木公園前』まで徒歩5分ぐらいを歩いたのである。
そして千代田線の『代々木公園前』で乗車し、『乃木坂駅』で下車して、
六本木の4丁目付近にある会社まで10分ばかり歩いたのである。
私が通いなれた通勤コースと違い、少し戸惑いながら10分ぐらい加味すれば到着した。
しかし、私達の社員の中に於いては、国鉄の中央線、山手線、横須賀線などを利用している方たちは、
会社の近くの安価なビジネス・ホテルに宿泊する方、或いは自動車で途中で同僚、後輩を乗せて出勤したり、
開通しいる私鉄の駅まで歩かれる方、バスを乗り継いで出勤するなどで、
9時半の始業時に間に合ったのは七割方であった。
このような出勤体制が3日続くと、お互いに疲れの表情となったが、
国鉄のスト継続にあきらめ顔となった。
私は同じ小田急線を利用して通勤する方たちと共に、
6時の終業時になり、1時間ばかり残務整理した後、
帰路、千代田線の『代々木公園前』で下車し、小田急線の『代々木八幡駅』までの5分ばかりの道のりの途中で、
この後は小田急線に乗れば帰宅コースと安堵しながら、
居酒屋、屋台などに寄り、ビールなどを呑みながら、
いつまで国鉄の組合の連中はストを続けるば気が済むの、とぼやいたりしたのであった。
周囲も私達と同じような数多くのサラリーマンも疲れた表情となっていた。
私は出勤前、NHKテレビの朝七時過ぎのニュースで、
官房長官・海部俊樹、国鉄代表の国労書記長・富塚三夫の両氏の対決を相変わらず視聴していたが、
早稲田の雄弁会時代に総長まで記憶とどめた海部俊樹氏の論理の前では、
巧者の富塚三夫氏を追い詰める話術に感心しながら、視聴したりしていた。
その上、何より私たちのようなサラリーマンの苦痛を味わせながら、
公労協スト権を勝ち取ることは、おこがましいと思ったりしたのである。
多くの国民の気持ちを理解していない公労の諸兄姉は、
結果として国民から遊離して、さすがの国鉄の国労といえども、
この後は国鉄7日ストなどはなくなったのである。
このようなことを少しボケた私は、思い返したりしていたのである。
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