夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

年金生活、丸5年の日々が過ぎれば・・。 【下】

2009-11-13 23:05:19 | 定年後の思い
前回は、昨年の11月の13日の本日に投稿した分を掲載したが、
それ以前の日々を掲載する。

一昨年の2007年の11月13日に於いて、
【 私の苦手なキムチ・・♪ 】
と題して、朝の8時半に投稿していた。

【・・
私は塩漬けした白菜は、唐辛子を少し掛けて、醤油を足して頂くのは、
晩秋から早春までの好きな食べ物であるが、なぜかキムチ系の食べ物は苦手である。

家内はキムチを食べながら、
『どうして・・こんなに美味しいのに・・』
とからかわれたりしている。

私は残念ながら幼年期では巡り逢ったことのないキムチであったことが、
主因と思ったりしている。

味、味覚は幼少時期でその方の一生は決定される、と料理の著名の方が何かの時に発言されて、
私なりに納得しているひとりである。

これと同様なのか、タラコは好きであるが、明太子は苦手である。

私はニンニクに関しては、好きな調味のひとつであり、
例えば鶏(ニワトリの肉を焼いたり、煮たりした時、
ニンニクを淹れたりすると、寒さを感じる季節には好感して、食べ過ぎてしまうのである。

人それぞれ食べ物の趣向はあるのは承知しているが、
家内に云わせると、貴方も偏食が多すぎるわ、と新婚時代に云われたりした。

一番困るのは、九州の博多に近い周辺を観光周遊ツアーを利用した時、
明太子の名店に寄り、販売員の方から見本品の賞味を進められ、
私は避け、横にいる家内が私の分まで頂いたりする。

私はそんなに美味しいの、と数多くの方たちが賞味しているのを、
唖然としながら微苦笑している。
・・】


この後、この日の昼下がりの2時半過ぎに、
【 東京の郊外では、小公園の樹木も色づきはじめて・・♪ 】
と題して、投稿していた。

【・・
私の住む東京の郊外の調布市は、街路樹、公園、住宅地は、
落葉樹が朱色、黄色と色づきはじめている・・。

昨夜に報じた天気予報に寄れば、
晩秋らしい快晴の陽気であるが、ところによると木枯らしが吹くと、気象庁は伝えていた。

幸いときおり微風が吹く程度で、おだやかな晩秋の陽射しとなっている。

先程、買物に行った帰り、私の住む近くにある団地の小公園に寄ったが、
風にないのに陽射しを受けた中、はらはらと小さな葉が空を舞いながら、地上に落下している・・。
私は足を止めて、煙草を喫いながら、呆然と見つめていた。

5本程植えられている槐樹(エンジュ)の樹であるが、
わずかに黄色味に染められた葉で、このような色づきで落葉してしまうのか、
と驚きながら見つめていたのである。

春の裸樹から瞬く間に芽吹き、小さな黄味緑色をたわわに付けて、
5月の頃には若緑色の葉は周辺を日陰となし、この後は淡い黄白色の花色を見せて、
やがて今日のような情景をもたらすのである。

この樹木は、縁起の樹木として、
中国では各戸に必ず一本は植えられていることで有名であるが、
私の住む街では公園、遊歩道で見かける程度である。

こんな思いで、陽射しの中、はらはらと音もたてず、空を舞いながら、落ちていく・・。

私が立ちすくんでいたので、ご年配の80歳前後の女性が足を止めて、
落葉している葉を見つめた。

『このように早目に散るとは・・私は知りませんでした・・』
と私は80歳前後の女性に声を掛けた。

『そうですわね・・でも、陽射しの中・・散り急ぐのも・・素敵ですわね・・』
と私に答えた。

このような形で会話がはじまり、
周辺の欅(けやき)、ドウタン・ツツジ、公孫樹(イチョウ)などの落葉樹の色づくの時節を、
互いに言葉を交わした。

『奥さま・・毎年・・11月の末頃・・街路樹の公孫樹は黄色に染められた後・・
昼下りの陽射しの中で散るのは・・私は毎年見惚(みと)れています・・』
などと私は云ったりしていた。

私は見知らぬ女性であったが、こうした季節感のある会話は好きで、
ときおり遊歩道を散策したりしている時などは、言葉をかけたりしている。

そして、今年も秋の季節のうつろいを確かに受け止めはじめている。
・・】


2006年のこの日は、朝7時前に、
【 朝夕は寒さが増して・・♪ 】
と題して投稿していた。

【・・
東京の郊外は、おだやかな秋日和の朝を迎えているが、
6時に戸を開け放つと、6度前後の寒さとなってきた。

私はこうした時は、北国の寒さを思うと、まだ贅沢と思ったりしている。

晩秋の夕暮れも早く、つるべ落とし、と古人達から伝えられているように、
急速に陽が沈み、暗くなり、少し侘しさが伴なってくる。

日中は晴れ間の一日となり、18度前後となる。
温暖な地域だから、とも思ったりしている。

主庭をも見つめて綴っているが、
小鳥達は先程から飛来して、黒土の上を小躍りしている。
朝の陽射しが差し込んできて折、新たな週のはじめである。
・・】


この後、午前10時過ぎに、
【 私の住んでいる街では・・♪ 】
と題して、投稿している。

【・・
私は東京の郊外に、農家の子として、敗戦の1年前の昭和19年に生を受けて、
結婚前後の5年を除き、調布市に住んでいるが、実質57年間の歳月を共に過ごしている。

世田谷区と三鷹市、そして狛江市に囲まれた小さな市である。

私は故郷でもあるこの街は、複雑な思いを持っている。

愛着心もさることながら、余りの変貌に驚いたり、ため息をついたり、
或いはこれ以上の物質的な利便性は止めて欲しい、とも思っているのである。


過日、読売新聞の武蔵野版で、我が町の小さな歴史が掲載されていた。

題して【京王線が変えた調布】として、
『森の中の小さな街』から『遊園地のある行楽地』、
そして『ベットタウン』の変貌記事であった。

大正初期に開通した京王線が、調布の街をどのように変えたかを紹介する写真展『京王線が通った!』が
開催されることに伴なって、新聞記事で紹介されている。

無断であるが引用させて頂きます。

《・・
調布~笹塚・駅間(12.2キロ)が開通したのは、1913年(大正2年)。
2年後の1915年には、新宿まで延長され、
新宿まで1時間34分で行き来出来るようになった。

京王電気軌道(現・京王電鉄)は、線路の施設と同時に沿線に電力の供給も開始。
『それまでランプや囲炉裏の火しかなかった住民の生活は大きく変わった』

街の雰囲気も変わり始めた。
電車に乗って、都心部の住民が調布周辺に行楽に訪れるようになると、
多摩川沿いにはアユを出す料亭や屋形船が並び始め、
今はない遊園地『多摩川原遊園』も整備が進んでいった。

現在は競輪場としてのみ名前が残る『京王閣』は、
開通の14年後に建てられた遊技場で、
大浴場やカフェ、ビリヤード場、食堂などをそろえた人気施設だった。

昭和初期には、実業家や高級官僚などの別荘も立ち並ぶように。
『別荘と言えば今では軽井沢だが、
当時はちょとした《武蔵野ブーム》に。
郊外の住宅地としての原点は、このころ築かれたようだ』
・・》
以上、読売新聞の記事を引用させて頂きました。


最近で我が街は、京王線の地下化工事が始まって折、更に大きく変貌をしょうとしている。

私の実家は徳川時代以前から、この地に住み始めたと伝えられているが、
私は敗戦後からの状況しか知らないので、
私の心身が健全まで果たしてどのような変わりをするのか、
楽しみでもあるが、憂いていることも本心である。
・・】


そしてこの後、午前10時半過ぎに、
【 最後は、黒と白となり・・♪ 】
と題して、投稿 していた。

【・・
私は『goo簡単ホームページ』のサイトは、
旅行に行ったり、或いはパソコンの故障がしない限り毎日綴って、
まもなく丸2年を迎えようとしている。

画面の『背景の画像』、『背景色』、『文字』等を先程改定したが、
黒の背景色と白い文字にした。

私はWebの技量もなく、文章を綴ることが好きであるので、
数多くのお方に出来る限り読んで頂きたく、
読み易(やす)さと美的感覚を配慮した結果、このような簡素な表示となった。

多くのお方は、それぞれデジカメの写真、飾り絵などのセンスの良さ、
Webの優(すぐ)れた技量に羨ましく思っているが、
時代遅れの私は活字文化の有効性を信じて綴るほかしかない。

私は読んで頂く上、同じようなジャンルを綴りすぎると飽きられたりするので、
あえて色々なジャンルを意識して綴っている。

このように綴っているが、ときおり文章が紡(つむ)ぎだせなくなり、苦心惨憺することもある。

そしてブログ上は、小説、論文と違い、この画面でお読み頂く為、
あえて改行を多くしている。
・・】


そして、この日の昼下がりの2時過ぎには、
【 東京の郊外も錦繍がはじまり・・♪ 】
と題して、投稿していた。

【・・
先程、買い物に出かけてきたが、秋日和の中、行く時に少し遠回りをした。

東京の郊外は、『文化の日』の3日頃から樹木、草花の葉が色付きはじめ、
『勤労感謝の日』の23日頃まで錦繍につつまれる。

中にはハナミズキの朱色、イチジク、紫木蓮などは黄色に染まり、
早くも落ち葉となったりしている。

欅(ケヤキ)の大木は、少し黄色に染められ、
公園の雑木林の樹木が陽射しの中で黄色に色合いとなってきた。

もうしばらくすると、銀杏(イチョウ)は黄色となり、モミジは朱色の艶(あで)やかな色合いとなる。

秋日和の静寂の中で、このような贅沢なひとときを過ごせ、
私は晩秋の陽だまりの中、甘受している・・。
・・】


定年退職後の一年を過ぎた2005年のこの日の朝の8時過ぎに、
【 心の貧しい人・・♪ 】
と題して、投稿していた。

【・・
昨日、私のあるブログの『掲示板』に書き込みをして頂いた方があった。

  タイトルは、《あいうえお》
  内容は、ゲボリッチ
      ゲボリッチャン
  発信人は、f4rr
  発信時間は、20.39
と綴られて、ご丁寧に8回連続されていた。

私はこれには、困ったなぁ、と感じた。

私は書き込みをされた方が、たとえ大学、大学院などを卒業されても、心の貧しい人と思っている。

私の住む所に、ときたま缶コーヒーの空き缶、ひどい時はゴミを投げ込んでいる時もある。

こうした時、私は家内に、
『世の中、程度の低い人もいるんだなぁ・・』
と云ったりしている。

私は後始末をしながら、
こうした方は先々、これからの人生に、きっと良いことない、と信じている。

私のこのブログの内容に不快に思われた方、
以前私は『煙草はひとつの文化である』と綴った折、
男性の方から冷静にご自分の信条を述べられ、反論された方がいた。

こうした方法は、正鵠である。

私は61年間人生を過ごしてきたが、自分の敵は自分である、
と思い生活を送っているひとりである。
・・】


この日の一時半すぎに、
【 私の『大人のおもちゃ』・・♪  】
と題して、投稿している。

【・・
昨年の秋の定年退職に向けて、何かしら記念になる品を私は昨年の春先から考えていた。

家内は、
『貴方は、デジタル・カメラが欲しがっていたのだから・・』
と言った。

その後、会社の帰宅の途中のパソコン販売店、日曜日に家電の量販店を観たりした。

確かにデジタルの一眼レフは良いが、交換レンズのことを考えると、
私の一時的な凝り性から言って、予算を超えてしまう恐れがあった。

かと言って、定番のコンパクト・カメラ本体を目から離し、液晶体の画面を頼りに撮るカメラは、
抵抗感があった。

私は高校時代は写真部に所属し、一眼レフを愛用し、風景写真を撮ったりしていた。

新婚の頃は、手軽なバカチョン・カメラ、その後はズーム付のカメラであった。

こうした体験から、色々と迷った。

そして方向としてデジタル・カメラは、800画素程度で
ズームが35mm換算で35~200mm程度のレンズ一体型を選択した。

そしてこの範囲の中、ニコン、キヤノン、ソニー、コニカミノルタの中から、選定した。

結果として選んだのは、手ぶれ装置のあるコニカミノルタの『ディマーシュA2』であった。
そしてコンバクト・フラッシュ512MB、予備としてリチウムイオン電池を購入した。

こうしてカタログを観ながら、ブッブッと呟きながら、触れたりした。
『このカメラ、こんなことも出来るんだぁ・・』
と私は家内に言ったりしていた。

私にとって、バソコンと同様に、機能を十二分使い切れない、大人のおもちゃである。

私は旅行とか、付近の公園で撮ったりしているが、未だに初心者である。

私共が旅行に行く際、家内はご自分用として、使い捨てのインスタント・カメラを携えていく。
・・】


そして、この日に午後の6時過ぎに、
【 我が家にない乗用車・・♪ 】
と題して、投稿していた。

【・・
我が家では、乗用車と携帯電話がない。

私が結婚し、実家から遠くに離れた時から車の運転はしていない。
しかし自動車の免許証だけは、更新していた。

新婚の賃貸マンションの時は、駅から歩いて5分程だった。

今住んでいる所は、バス停から数分である。

車を持つ事もちょっと考えたが、
サラリーマンの勤務実態は、激務で合ったので、
ドライブをすることを思っても、二週間に一回程度しか想像が出来なかった。

このことを考えて、住宅ローンが重く圧(の)し掛かっていたので、止める事にした。

新築まもない我が家、
私が会社に行っている時は、セールスマンが来宅した。
『トヨペットですか・・』
とセールスマンが明るく大きな声で玄関に向って云った>

『なにやさんですか・・』
と家内は玄関の横にある小窓から云った。

私が帰宅後、この話を家内から聞いた。
『貴方、可笑しいのよ・・、
そのトヨペットの方、黙ってお辞儀をした後、
帰られたわよ・・』
と家内は云った。

『その人・・トヨタの乗用車のセールスマンだょ・・』
私は家内に言った。

『そのセールスマン、びっくりしていなかった・・』
と家内に訊(き)いた。

『黙って、お辞儀をして帰ったわ・・』
と家内は私に云った。

私の家内は茶事は少し知っているが、
車に関しては無知であることを改めて知ったのである。
・・】


このように私は本日の11月13日時点を基軸に、
昨年の2008年から定年退職後の一年少し前の2005年まで遡(さかのぼ)ったのであるが、
果たして進化してきたか、或いは退廃してきたか、解からないのである。

ただ、買物をする時、野菜や果物の値段に応じた新鮮な品の見極め方、
洗剤の種類などが少しばかり解かるようになった年金生活の6年生である、
と恥ずかしながら苦笑している。



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年金生活、丸5年の日々が過ぎれば・・。 【上】

2009-11-13 18:59:11 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨日、家内は12月下旬に60歳となるので、
家内の年金振込先の手続きで、銀行に出向いたのである。

私の住む地域の担当者の女性の方が休暇されて、
代わりに女性が出てきて、行内のゆったりとしたカンウター席に通された。

私は要件を伝えると、
『ご主人さま・・以前、担当させて頂きましたXXです。
あの時、ご主人さまの年金関係を説明させて頂き、
今回の奥様の・・』
と女性の方が私に云った。

私は5年少し前に初めての年金関係の手続きで、このお方にお世話になったことを思い出したのである。

『あの時は・・大変にお世話になりました』
と私はこの女性に云った。

『早いものですね・・5年も過ぎましたが、お元気そうで』
とこの女性は微笑みながら私に云った。

この後、私の年季生活の実態を5分ばかり笑いをまじえて、談笑したのである。


私は2006(平成14)年の秋に民間会社を定年退職し、予定通り直ちに年金生活に入った。

私は日常の買物を担当し、ときおり小庭の手入れをしているが、
家内は料理、洗濯、掃除などがもとよりあるので、少しばかり引け目を感じて家内の茶坊主に専念したりした。

家内が目覚めると、コーヒーと牛乳をそれぞれの指定されたマグカップを布団の枕元に置いたり、
日中のひととき、コーヒーを5回ぐらい淹れたりしている。

私の日常の多くは、買物、散策して季節のうつろいを見たりし、
小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などの読むことが圧倒的に多い。
ときたま本棚の外れにある映画棚のビデオ、DVDを取り出して、居間で観賞したり、
音楽棚からカセット、CD、DVDを取り出して聴くことがある。
テレビに関して、ニュース、天気情報、ときおりドキュメンタリーの番組を視聴する程度であり、
テレビドラマは殆ど見ないのである。

そして、家内との共通趣味の国内旅行は、ときおり出かけたりしている。

こうした年金生活を過ごしながら、
定年退職後の年金生活の身過ぎ世過ぎの日々を過ごしてまもない時、
ブログの世界を知り、日々に感じたこと、思考したことを心の発露とし、殆ど毎日投稿してきた・・。

投稿出来ない時、国内旅行に出かけた時かパソコンの買い替え、故障などであり、
少なくとも毎日綴れば、日々の確かな心のうつろう思いが残り、
過ぎ去った後、何かの機会に読み返せば確かに蘇(よみがえ)るので、私は投稿してきた。


このような思いで、先程もこの11月の本日の投稿文を読み返したりした。


昨年の2008年11月13日の朝の9時半過ぎに、
【 東京の郊外は、久々に秋日和に恵まれて・・♪ 】
と題して、投稿していた。

【・・
東京郊外の調布市に住む私は、久々に朝の陽射しを受け、
思わず太陽に向かい、感謝、と心の中で呟(つぶや)いていた。

どんよりとした曇り空や小雨、霧雨の日々が続き、12月の上旬のような寒さの日となり、
落葉樹が黄色、朱色に色合いを深める前なのに、どうしてなの、
と私なりに心身共々戸惑っていたのである。

先ほど、地元の天気情報に寄れば、
朝の6時は11度、昼下りは17度前後となり、6日ぶりの秋晴れとなり、
さわやかな日中となります。
そして、夜の6時過ぎも14度前後となり、月を眺めて誉(ほ)めるに最適な夜のひとときとなります。

私は年金生活の5年生であり、このように聴こえたのである。

この後、素足で下駄を履きながら、庭に下り立ち、
花梨(カリン)、柚子(ユズ)の実は、黄色に色合いを深め、
紫式部(ムラサキシキブ)のたわわな実は紫色に濃く深めていたのである。

そして、ときおり微風が吹くと、樹木の枝葉が微(かす)かに揺れ、
陽射しも揺らいでいる・・。
素足の足元に風が通り過ぎると、足袋を履く頃だなぁ、と感じたりしたのである。

居間に戻ると、今年の春はいつ頃から、足袋から素足になったのかしら、
と思いながら、私のサイトで検索し、先ほどから読んだりした・・。


【 私が下駄を履く時、素足になり・・♪ 】と題して、
このサイトに3月14日に於いて、投稿しているのを、再掲載する。

【・・
私は年金生活の4年生の身であるが、
自宅に居(い)る時は、殆ど下駄(げた)を履(は)いている。

主庭に下り立つ時、玄関庭の軒下、郵便受け入箱、
ときには駅前までの遊歩道を散策する時も履いたりしている。


私が現役時代の30代のなかば頃、
数多くのサラリーマンと同様な多忙な期間が続いた折、
休日の時、気分転換として、下駄を買い求めたのであった。

平素はビジネス・シューズで長い勤務時間を過ごし、
自宅ではサンダルを履いていたが、
何かしら下駄は心身の波長に心地よく、この時以来愛用している。


晩秋の時節から桃の咲く頃までは、黒の足袋(たび)を穿(は)いて、
この季節以外は、素足で下駄を履いているのである。

東京郊外の調布市は、ここ1週間は桜の咲くような陽気に恵まれたので、
黒足袋を脱いで、素足となった。

私は主庭に下り立ち、春のような陽気につつまれた中、
白梅、しだれ紅梅、そして日本水仙を眺めながら、煙草を喫ったりしている。

ときおり、微風が吹いたりすると、
風の匂いは甘く、そして素足を通り過ぎるが、これなりに心地よいのである。

尚、私の履いている下駄は、会津の高級な特選の桐下駄でなく、
程々の価格の下駄であり、三品を適度に履き分けている。
・・】


私は微笑みながら読み、確かな季節のうつろいに心寄せたりし、
遠い昔の日のようにも感じられ、不思議なひとときを過ごしたのである。


秋日和に恵まれた日中、私はいつものように買物、散策をするが、
秋の陽射しにつつまれた中、何よりのプレゼントかしら、
と足元のウォーキング・シューズがスキップし、心の中は小躍りする心情を
想像すると、
独り微苦笑したりしている。

・・】


この日は、午後5時半過ぎに、
【 時代の変貌を正鵠に語る俳優・津川雅彦氏・・♪ 】
と題して、投稿していた。

【・・
私は年金生活の5年生で、64歳の身であり、
先ほど、総合月刊雑誌の『文藝春秋』のひとつの記事を読んで、
ここ50年ばかりの時代を正鵠に語る人もいた、と衝撃を受けながらも深く考えさせられたのである・・。

《 追悼 我が友、緒形 拳 最期のことば 》と題され、
俳優・津川雅彦氏が語った記事である。

亡き親友ガタ(緒形 拳)の心友としての愛惜を語り、自身の役者としての軌跡も真摯に見つた発言であったが、
私は何より驚いたのは、ここ50年ばかりの時代の変貌を真摯に冷静に見つめていた、
ということであった。

無断であるが、1部を引用させて頂く。

《・・
ガタは決してうまい俳優ではなかった。
出会った頃から、「顔が悪い」「頭が悪い」「それで下手なら取り柄がない」
などとよくからかった。
でもガタは役柄に入り込むために一生懸命に本気で汗を流し、
ただただ一生懸命ひたすら思いきって直球を投げ続けた。

兄の長門裕之や妻の浅丘雪路に比べて明らかに下手な僕は、
器用な役者へのコンプレックスがあり、正に「下手形の上手」を目指そうと思っていた。
そんなところをガタが見抜き、気が合う一因にもなった。


ガタのような役者はもう絶対に出てこない。
残念ながら、時代も変わる。価値観も変わる。
古いタイプの役者は当然のごとく少なくなる。

僕のような映画出身の役者もほとんど残っていない。
ガタのような新国劇出身者も少ない。
同じ舞台出身でも、今やテントや小劇場の出身者が増え、一番多いのはテレビ出身の役者たちだろう。

役者の出生が違ってくれば、客の好みも変わる、
昔の役者は自然と淘汰される。

今、共演者を本気でぶん殴るガタのような新人が出てきたら、誰も使わないだろう。
ガタの価値観や生き方が肯定される時代だったから、
ガタの本気の芸を受け入れた多くの客がいたからこそ、ガタが存在できた。


40年前フランスに行った時、テレビを観ていたら、
「テレビばかり観ていると日本人やアメリカ人みたいに馬鹿になるよ」
と言われた。
正しくいまの日本人は、大宅壮一も「一億総白痴化」と予言した通りの国民となった。

集中力を持ってドラマを鑑賞できるわけがない茶の間が客を育てる時代だ。
更に戦後の個人主義と唯物主義が人品を卑しくした。
客はタレントに下品、下等を求めて自分を慰め癒す。
・・》

以上、無断であるが、長く引用させて頂いた。
注)記事の原文をあえて改行を多くした。


私は最後のたった3行を解かって頂くために、長く引用させて貰ったのである。

私は昭和19年に東京の郊外で生を受け、
小学三年生の頃から、独り映画館に通い、映画を観始めた。
そして大学を中退し、映画・文学青年の真似事をした時期もあった。
25歳になり、ある企業に中途入社できるまで、数多くの映画を観たり、撮影所に出入りしたり、
専門養成所の講師の紹介で一部の新劇の役者と淡い交遊をしたりした。

私は津川雅彦氏とは無知であるが、
少なくとも小学5年生から、ときおり映画で観ていた程度であるので、
俳優・津川雅彦氏を論評する資格はないが、
最初に観た頃は顔立ちも良く、美青年であり、役者の家柄も良く恵まれた人と思っていた程度であった。

その後、30年前頃に偶然に観たテレビドラマで、巧い役者に成長したと実感させられたりしていた。

私はここ20年ばかりは、テレビはニュースとドキメンタリーが殆どである。
娯楽番組は益々低俗化し、ドラマさえ観て良かった感じる作品は余りに少ないのである。
ただ、私は脚本が倉本 聰、向田邦子、山田太一、橋田寿賀子の各4氏であったならば、
学ぶことが多く、視聴している。


このような思いになると、私の住む東京郊外は、
NHK、日本テレビ、TBSテレビ、フジテレビ、テレビ朝日、テレビ東京などが視聴できるが、
電波の無駄づかい、と思ったりすることがある。
特に民間テレビ放送の5社があるが、無料視聴できるのが、
日本人に最大の劣化を招いた要因のひとつと確信しているのである。

そしてテレビ局のひどさはもとより、観る人々が垂れ流しのように安住し、
まさに大宅壮一氏の遺された言葉『一億総白痴化』は至言と思っている。

今回、津川雅彦氏の発言を読んだりしたのであるが、
このように真摯に正鵠に明言される方は、
昨今の新聞、雑誌、論評の大手メデイアに於いて、テレビ業界、広告代理店などに遠慮してか、
私の知る限り見当たらなかったのである。

こうしたことからして、津川雅彦氏は少なくとも俳優であるので、
何らかテレビに役者として出演されるか、ゲストとして出演される機会が多いとも思われる中、
あえて明言された勇気を賞賛したいひとりである。

・・】

このように昨年は綴っているが、この後は数年前の思いを掲載する。


                            《つづく》




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五輪真弓さんの『恋人よ』を心の中で唄えば・・。

2009-11-13 10:28:54 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
昨日、昼過ぎに10分ばかり歩いた銀行に行ったのであるが、
ときおり北風の吹く寒い時となった。
帰路、小公園に寄って欅(ケヤキ)、エンジュの大きな樹も
たわわな葉は色合い染めはじめ見惚(みと)れていたのであるが、
ときおり強く北風が吹き、立ち竦んでいても寒さを感じるのである。

周囲のこのような大木に囲まれ、中央には正方形のある大きなテーブルのあり、
その周りに8人ぐらい座れるベンチがあり、
秋日和の陽だまりとなった時などは、若きママと乳児のグループが集(つど)うことが多く、
私は通り過ぎる時、人生の微笑みを頂いたりしている。


どんよりとした曇り空で北風が吹き、早くも落葉がはらはらと舞う中は、人影もなく、
少しばかり寂しい情景となっていた。

私はこうした情景を眺めたりしていると、

♪枯葉散る 夕暮れは
 来る日の寒さを もの語り
 雨に壊れた ベンチには
 愛をささやく 歌もない

【『恋人よ』 作詞、作曲・五輪真弓、編曲・船山基紀、唄・五輪真弓 】

と心の中で唄いだしていた。

そして、この後の私は自宅に向かいながら住宅街を歩いたが、
真弓ちゃんの歌かょ、と微苦笑しがら、私は五輪真弓さんの歌に魅せられた頃が浮かんだのである。


私は大学を中退し、映画・文学青年の真似事を4年ばかり過ごし、
コンピュータの専門学校で一年学んだ後、
遅ればせながら1970(昭和45)年の春に、ある大手民間会社に何とか中途入社ができた。

この民間会社は映像・音響メーカーであり、この中の一部に音楽事業本部があり、
数多くの大手のレーベルを傘下に収め、レコード業界の首位を独走していた。

まもなく、この中の大手レーベルが外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられた。


そして商品の現場を10ヶ月学んだ後、本社のコンピュータ専任者として配属されたが、
音楽に関しては、文学、映画の次の程度に関心がある程度であった。

1972(昭和47)年の初秋、私は日曜日で自宅でラジオを聴きながら、
身のまわりの整理をしていた。


♪あたたかい陽のあたる
 真冬の縁側に
 少女はひとりで
 ぼんやりと座ってた

【 『少女』 作詞・五輪真弓 】


私は思わず手を止めて、ソファに座り、煙草に火を点(つ)けた・・。


♪つもった白い雪が
 だんだん とけてゆくのを
 悲しそうに 見ていたの
 夢が大きな音を
 たてて 崩れてしまったの

【 『少女』 作詞・五輪真弓 】


私は専門外の音楽好きなの身であったが、感性の鋭い人と直感し、
初めて作詞・作曲し唄っている人が、五輪真弓と知ったのである。


翌朝、会社で、たまたま私が朝礼の当番であった。

本社の営業本部、同じフロアーの営業所の数多くいる社員の前で、
私は前に立ちながら、一通り業務関係を云った後、
『・・CBSソニーさんから、凄い感性のある人でデビューします。
10月に発売されますが、五輪真弓という若い女性が・・
「少女」という曲で・・感性と感覚が際立って・・』
と私は他社のアーティトであったが、半分得意げで云ったのである。

たまたま営業の本部長の所に、邦楽の制作本部長が打ち合わせて来ていたのを、
後で知った。

この後、一時間後に、私は制作本部長とエレベータの中で、
偶然ふたりとなった。
『・・お前さんねぇ・・よく云うよねぇ・・』
と微苦笑された。

私はもとよりレコード会社は中小業があるが、中堅のレコード会社で、コンピュータ専任者の身であったが、
世間に対しても怖いもの知らずの27歳の時であった・・。


私は偶然に五輪真弓の『少女』をラジオで聴いた後、
レコードのアルバムの発売日に待ち焦がれ、
『五輪真弓/少女』を買い求めたのは1972(昭和47)年の10月の下旬であった。

この頃の私は、個室にレコード・プレイヤー、プリメイン・アンプ、そしてスピーカと、
この当時の普通の音楽ファンの機器構成で聴いていた。
しかし、この当時のオーディオ機器は、私の基本給の月収より数倍高く、私はローンで返済していた。

そして、私は帰宅後、このアルバムに夢中になり、殆ど毎日聴いていたし、
次兄にも賞賛をしたりしていた。

翌年の7月に『風のない世界』が発売されて、
特にこの中の一曲『煙草のけむり』には、この人の才能が満ち溢れている、
と友人らにも絶賛していた。

確か数年後であったと記憶しているが、
虎ノ門ホールで五輪真弓のコンサートがあり、この頃に交際していた女性と観たのである。

この女性はある音楽大学を卒業したばかりで、先生に師事しながら、
ピアニストを熱望する人であり、
私はピアノを専攻する人に気後れしながらも、
ピアノを弾きながら自身の作詞・作曲され歌を唄う五輪真弓のコンサートに、
誘い出したのである。

この女性とは、コンサートの終了後に食事をしていた時、
虎の門ホールの音響、そして五輪真弓に関して才能のある人ね、と私に語ったので、
私は五輪真弓さんのデビュー以来才能を認めていたので、
この女性に同意されたので、私の心は小躍りのような状態であった。

この人とは、渋谷、新宿で幾たびか待ち合わせ、夕食を共にした後、自宅に送り、
この方の母親に可愛がって頂だき、親愛の情をしぐさを見せてくれたりした。

そして私は、自宅に来て貰ったり、私の実家にも連れて行ったりしていた。

このような時、有数なソプラノ歌手のコンサートが東京文化会館の小ホールで開催され、
伴奏としてのピアノを弾く担当に選ばれ、
私は当然ながら、このコンサートを観たのである。

ただ会場、ロビーなどは演奏者はもとより、招待された方、音楽専門大学の卒業生、生徒たちの雰囲気が、
私の今までの人生で体験したことのない特有な雰囲気につつまれていた。


私は結婚したい、と申し込んだ夜、
『貴方が思っている・・サラリーマンの良い奥さんには・・なれないわ・・』
と云った。

確かに毎日10時間前後はピアノ弾いているので、
サラリーマンの普通の生活ペースは無理であるが、私は承知の上だ、とも言葉を重ねたりした。

数ヵ月後、貴方に負担をかけたくないの、と私は言われ、
私は失恋をしたのである。

私は五輪真弓さんに関しては、スターとなった今、
何となく遠ざかり、シャンソンなどに夢中になり、深めていった・・。


私は数年後、妹の嫁ぎ先の親から、ひとりの女性を紹介され、
この人と結婚した。

私が家を建て始めて、ローンの負担が重苦しく感じ、数年続いた折、
私は懐かしい唄声を聴いたのである。


♪枯葉散る 夕暮れは
 来る日の寒さを もの語り
 雨に壊れた ベンチには
 愛をささやく 歌もない

【『恋人よ』 作詞、作曲・五輪真弓、編曲・船山基紀、唄・五輪真弓 】

私は思わず、真弓ちゃんだ、と心の中で叫んだのである。
そして、相変わらず、才能を発露させ、確固たるスターの五輪真弓さんに、
しばらくぶりだったけれど、凄い詞を書いたよね、と心の中で祝杯したりしていた。


♪恋人よ そばにいて
 こごえる私の そばにいてよ
 そしてひとこと この別れ話が
 冗談だよと 笑ってほしい

【『恋人よ』 作詞、作曲・五輪真弓、編曲・船山基紀、唄・五輪真弓 】

私はピアノニストに熱望した人は、今はどうしているかは知らないが、
私にとっては若き日の貴重な苦い想いのひとつである。


私は今でも五輪真弓さの『恋人よ』を聴いたりすると、
このピアニストの演奏だけで生活できるように熱望した女性が思い浮かび上がり、私の若かった頃が蘇(よみが)るのである。

そして、ときおり思い出したかのように、小さな声で鼻歌を唄うこともある。

♪まるで忘却(ぼうきゃく) 望むよに
 止まる私を 誘ってる
 恋人よ さようなら
 季節はめぐって くるけれど
 あの日の二人 宵の流れ星
 光っては消える 無情の夢よ

【『恋人よ』 作詞、作曲・五輪真弓、編曲・船山基紀、唄・五輪真弓 】



http://www.youtube.com/watch?v=l_Katwyw5pc
☆【『恋人よ』 作詞、作曲・五輪真弓、編曲・船山基紀、唄・五輪真弓 】☆




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