先週の週末に古い写真を整理した。古い写真で探し物があったので昔のアルバムを眺めていたら、未整理の写真が何百枚も出てきた。今更アルバムに張る気も起きないので、良さそうなものをスキャナーでパソコンに取り込んだ。昔の写真を見ていると懐かしい思いがこみ上げて来てしばしば手が止まる。特に子供の小さい頃の写真は、子供の体の柔らかさ、温かさが思い出されてホンワカした気分になる。この作業に丸1日かかった。
1月19日に写真印刷で世界トップ、アメリカで独占的シェアを持っていたイーストマン・コダックが連邦破産法11条の適用を申請した。私の例のようにもはや特殊な場合を除いて写真を印刷する人はおらずパソコンのような電子機器で閲覧するのが普通である。コダックの基本事業は無くなってしまったわけだが、コダックは化学関連で、多くの技術を持っており、技術的にもしっかりした会社だと思われていた。「あのコダックが」と思った人も少なくないだろう。コダックの場合には車のGMのように再生復活するのは難しいほど会社は縮小しており最盛期には14.5万人いた社員も2万人程度になっているというから、資産売却して解散ということになりそうである。
雑誌The Economistにコダックは倒産しそうだが(1月14日号なのでまだ倒産は発表されていない)、富士フィルムはうまく事業転換したと両社の比較を書いている。コダックはアメリカで、富士フィルムは日本で圧倒的な写真印刷のシェアを握っていた。両社とも、カメラがデジタル化されて現在のビジネスモデルは危ないと気がついていた。デジタル化された後の写真印刷はビジネス的にうまみがないことにも気がついていた。しかし、コダックは業績悪化の一途をたどり、富士フィルムはうまく業態を変えて健全経営になっている。この差はどこから来るか、という話である。
様々な要因を分析しているが、結局は社長の力量、ということになる、というのがThe Economistの結論である。コダックの改革は遅々として進まなかったのに対して、富士フィルムは着実に化学メーカ、部品メーカとして転身している。まるでコダックが日本の会社で、富士フィルムがアメリカの会社のようだ、とThe Economistは結んでいる。
日頃、私は「日本の企業はトップが弱い」と書いている。しかし、富士フィルムの古森社長は見事に会社を転身させた。こういうことのできる人も居るのである。全体的に日本の企業のトップが弱いのは人材選抜の仕組みにあるのではないかと改めて思った。
これに尽きますが、その力量を誰が「評価する?」の点です。組織のトップとしては、どうしても自己満足になりがちなので、株式の公開会社であれば、株価が一つの目安です。資本利益率などの指標も一つの手段です。短期的な変動はともかく、株式市場は利益を改善し続ける会社をちゃんと評価してきています。
総じて、日本の経営者は、市場全体が拡大している状況であれば目立たないのですが、市場が変動している環境では、特に下降気味の時には、②の分野が弱いのでしょう。
昨日、NECが業績の下方修正と、対策を発表しましたが、発表内容を見る限り、いかにも後手に回ったという印象です。これで苦況を乗り切れそうだとの安心感を持った人は殆ど居ないでしょう。つまり、「まだ苦況は続きそうだ」との印象が大半だと思います。
こんな状況に陥っているNECの場合、今のリーダがどうしようとしているのか、はたまた、誰が次のリーダを選ぶのか? 株式会社であれば、株主が決めること(=責任を取る)になります。
NECの場合、抜きん出た大株主が存在せず、現在の経営陣も大きく変ろうとしないのであれば、この流れ(後手に回った縮小のスパイラス)はしばらく続くのでしょう。NECでなくても対応できる事業領域は、他社が代行してくれるでしょうし。
ウィトラさんは、「経営陣選抜の仕組み」を見直せとの意見ですが、絞込みのプロセスも大切ですが、育成(試練を含めた)のプロセスも大切と思います。これは米国方式がいいとか、日本方式がいいとかの論議ではなく、その会社が株式市場で、どの様に評価されるかなので、外からとやかく言うことではなく、中で改革、改善を図ることが出来る経営課題です。沢山の人が候補に上っても、最終的にはほんの一握りです。これは民主主義ではないです。よく言われるように衆議独裁です。それを評価するのは株主、株式市場です。
リーダを選ぶプロセスで行くと、中国共産党は、この20年ほどの間の結果は、非常に優れていたのではないかと思います。
文章自体には私は賛成で、このブログにも何度か書いています。私は純粋に、中国のリーダ選抜がうまくいっているから中国はうまく行っていると思っていますが、世田谷の一隅さんは「あの問題の多い中国のほうが日本より上になってしまう」というニュアンスが含まれているように受け取れます。
中国共産党には株主のような客観評価する人はおらず、自己評価です。それでうまく行っているのは仕組みの作り方だと思います。
私は、国の運営としてはこの20年日本よりも中国のほうがはるかにうまく行っていると思っており、その大きな要因が中国共産党のリーダ選抜の仕組みにあると思っています。
ある意味で、歴史的な時間(10年、20年経過して)を置いて、評価が固まるのではないでしょうか?
高度経済成長が続いた1960~1970年代の日本のリーダをどのようにして選んだのか? についてはあまり論議されていません。 日本の場合は、少なくとも、憲法が変わっていないので、せいぜい小選挙区制が導入され、政党助成金が投入されたことくらいです。前回の総選挙での政権交代も、リーダ選別のプロセスが大きく変わったわけではなく、すべて、国民の意思です。
中国では有権者という位置づけが無く、一定年齢に達した国民による意思決定というプロセスを持っていません。だからトップになる人は、国民の人気を直接気にする必要性は、民主主義制の先進各国と比べると低いわけです。
それでもまったくの個人による独裁国家ではないので、国民の人気を「或る程度」考える必要はあるのでしょう。
このリーダの選出と、リーダの施策に対する評価で大きな役割を持っているのは、マスコミです。日本では、どうも小さなことの揚げ足を捕らえて、針小棒大に報道し、権力を批判するのがマスコミの役割だと思い込んでいるようです。
然しながら、単に批判するだけではなく、いいと思った施策は、ちゃんと評価し支援する態度も大切だと思うのですが、そんなそぶりは見えません。
首相が1年単位で交替しているのは、リーダの選び方にも問題があるかもしれないが、それ以上にマスコミの報道姿勢、それを評価する仕組みに問題があるように思います。マスコミに対する批判となると、マスコミは一斉に嫌悪感を示して、反発しますが、どうも日本のTVや新聞の報道はyellow journalismに成り下がっている印象を持っています。
中国が共産党独裁で、これ党是として、この領域に触れる問題、マスコミの動きを潰しているのをみると、報道の自由と自制の大切さをつくづく感じていることろです。