前回に続いて大学の体質強化の話である。大学教授は待遇面でも一般企業とかなり異なっている。大学教授は社会的なステータスは高いが給料はそれほど高くない。私立大学は別かもしれないが、国立大学は有名教授だからと言って特別に給料が高くなるわけではない。今、苦境に立っている東芝でも、東大教授以上の年収の人が東大教授全体よりもかなり多くの人数が居るだろう。役員になれば東大教授の数倍貰っていると思う。大学教授は給料はそれほど高くはないが、降格されることは無い。よほどの不祥事でも起こさない限り定年まで職を追われることはないだろう。これは日本だけではなくアメリカでもテニュア制度と言って大学教授は定年まで勤められる代わりに給料はそれほど高くない仕組みになっている。
競争が激しい現代にあって、このテニュア制度を廃止するべきだろうか? 学問という性格上、個々の教授は社長だとみなして介入しないという原則と合わせて考えると、このテニュア制度も維持したほうがよさそうに見える。そうすると各教授がすべて研究室内で准教授を跡継ぎとして立てれば、新陳代謝は起こらず、研究室の数は増えるだけということになるだろう。戦後、教育システムが崩壊したところから再立ち上げして、経済発展してきた時期は、教授数が増える一方でよかったが、経済が飽和し、人口が減少を始めて現代ではこのやり方は維持できないことは明らかである。そうすると、准教授の教授昇格審査を厳しくして、教授に昇格できない研究室を作るか、教授のパフォーマンスが悪いところは准教授を持てないようにする方法などが国としては不可欠だろう。2割くらいは跡継ぎの教授が居ない研究室ができる一方で、15%くらいは新しく就任する教授ができる、というような形にしていけば、新陳代謝が起こりつつ、人口減少に合わせて教授数も減っていく、という調整ができそうである。
大学教授の評価をすることは極めて難しいし、教授同士で評価をしたがらないという傾向もある。しかし、総数の枠を抑えて減らさないといけないというようにしていけば、どうやれば納得性の高い評価ができるかは大学が工夫するのではないだろうか? 今の政府の取り組みがどういう方向に向かっているのかを私は知らないで書いているのだが、新陳代謝が必要、枠は増やせない、テニュア制度は維持するという条件を付けるとこんな方法しかないのではないかと思える。
・国際性(留学生1人の受入につき20点)、
・外部資金受入(1500万円につき150点)、
・SCI論文数(SCI登録の論文1本につき300点)、
・博士人材育成(修士課程受入5点/人、博士課程120点/人)、
・授業担当(単位数x人数や入試担当で加点)の5項目です。
項目の妥当性や配点など論議はあると思いますが、まず構成員に開示して透明性を高めながら、相互に切磋琢磨する事を目指すのは、大いに賛成です。
大学の評価では、色々な機関が採点基準を明示しながらランキングの形で公表しているのと同じように、教授個人や学科単位でもこんな評価方法が広がっていくと、淘汰が進むのではないかと思います。
ウィトラ様のおっしゃる通り大学教授の評価は極めて難しいため、SCI論文数、博士人材育成、授業担当は大目に見るとしても、留学生数、外部資金受け入は全く理解できません(評価基準にするような内容ではない)。
誰が決めたとも分からない設計主義的な評価基準(=今の流行)ではなく、過去の事例に則った評価基準の方がまだマシのように思います(例えば、ノーベル賞受賞者の師事した教授のやり方を学ぶなど…)。
大学教授のみならず、小中高の先生方についても環境がだんだん厳しくなってきていると思います。結果として次世代を育てることより、個人の日々の生活にウェイトが掛かり過ぎているのではないでしょうか。大雑把に言うと、教育者は商売人であってはならないと言うことです。世代を超えて考えた場合、功利主義にすらならないように思います。
広島大学の方式、評価項目が一番いいというわけではなく、少なくとも不明瞭な教員、学科の評価方式が前に進むことは間違いないと思います。不具合は一つ一つ、議論しながら、改善すればいいことだと思います。
次世代を育てるという観点であれば、どの様に評価尺度をSMART化して、現場の人が納得しながら進めるというプロセスが大切だと思います。
教育者は商売人であってはならないかもしれませんが、一定期間の行為、行動に対して何らかの形で、評価され、独りよがりにならないような仕組みは必要と思います。