財務省の森友学園関連の文書改竄が明らかになるとともに、防衛省の日報隠し、厚労省の働き方改革関連のいい加減なデータ製作、文科省の前川喜平氏の名古屋の講演に対する不自然な問い合わせなど、多くの省庁で次々と官僚の不祥事が明らかになっている。これらはいずれも政治家からの圧力に屈した官僚が不適切な行動に出たもので、政治家や官僚自身がいくら圧力を否定しても信じる人は極めて少ないだろう。圧力もないのにこれらの行動に出るというのはいかにも不自然だからである。私はこの現象は安倍政権の圧力に対して官僚側が反撃に出たもので安倍政権の末期症状だと感じている。自民党内にもそんな雰囲気が出てきた。
おそらくどこの国でもそうだろうが、政治には官僚と政治家の権力の綱引きが常にあり、ここ数年は政治家側にバランスが偏っていたのだと思っている。今回はこの権力のバランスがどうあるのが望ましいかを考えてみたい。
官僚は同じ省内で長年仕事をする特定分野のプロ集団である。これに対して政治家は全体を俯瞰して官僚を動かす役割を持っている。しかし、日本で政治家がどれだけ全体を俯瞰して動いているかは大いに疑問である。私は官僚には何人か知人がいてその仕事ぶりも知っている。しかし、政治家の知人はおらず、サラリーマンのころは政治家の言動はテレビや新聞で知るばかりだったので、「政治家は選挙に当選するために人脈作りにあくせくしているばかりでろくな見識を持っていない」、と私は感じていた。ウィトラを始めて国会中継をテレビで見るようになって、「結構勉強している政治家もいる」と見直す気持ちにはなっているが、やはり官僚に比べると層が薄く、日本を動かすことは無理だろうと思っている。
会社に例えると官僚は従業員で政治家は取締役である。政治家の取締役はほぼ全員が社外取締役に相当するだろう。ただ、企業の社外取締役は他に本業を持つ非常勤が多いのに対して政治家は常勤に近く、コミットメントは深く、その分権限も大きい。先日紹介した「日本、呪縛の構図」では、著者は権力は政治家側にあるのが良い、という立場だった。実際のところ我が国でも官僚は政治家に「お仕えする」という言い方をしており、制度上は政治家有利になっている。
官僚といえどもサラリーマンなので人事権を握られている相手には弱い。しかし、日本の政治は不安定で長期政権が続くことは少ない。仮に政治家から「これをやれ」と命じられても、「この政権は1年持たない」と思えばやらずにおいて自分が重要だと思うことに注力して、次の大臣が来た時には「これが重要です」とレクチャする。こんな構図で実態としては日本では官僚の影響力が政治家を上回っているのだろうと思っている。長期政権だと命令通りにしていないことがばれてしまうのでやらざるを得ない。大臣側も自分にとって使いやすい人物が明らかになるので、相対的に政治家の力が強くなる。これが現在の安倍政権の実態だろう。
官僚の問題点は自分の組織を第1に考える「ムラ意識」が強い点である。日本人は全体としてこの傾向が強いのだが、官庁は特に「ムラ意識」が強いと思っている。これは若手の官僚が仕事に見合った待遇を受けておらず、高齢になった時の生活を保障するということで補償を受けているからだと思っている。「全体最適のためには自分の居る組織は縮小しても構わない」というような考えの人は組織から浮いてしまい外される、というのが実態だと思われる。これを補正するのが政治家の役割なのだが、政治家のレベルが低いと、自分の都合に合わせるように圧力をかけるような人がどうしても出てくる。
この状況を改善するのに政治家のレベルを上げるような仕組みを考えるか、官僚が全体最適を考えられるようにするか、どちらが良いかが問題だが、私には政治家のレベルを上げる方法は思いつかず、官僚のレベルを上げる方策を考えるほうが良いのではないかと思っている。日本では人事は密室で決められることが多いが、政治家の官僚人事に対する介入に対しては説明責任を求めるというようなアイデアはどうだろうか?
森友文書改竄を例にとると、佐川前理財局長が”証人喚問”の席で「政治家からの関与はない」と証言している通り、忖度(圧力)があったとすれば前回”政府参考人”として召喚された佐川氏に対してであり、または氏自身が指示を出した可能性が残るのみです。また、文書のバージョン管理ソフトが一般的になってから結構な年月が経った印象ですが、文書改竄が罷り通らないことはレベルの問題ではなく”一般常識”問題だと思います。この問題に限っては、いわゆる政治家の「圧力」とか政治家への「忖度」とかいったものはマスコミと野党の創り出す空気以外の何物でもありません(マスコミの書いた脚本通りと言うわけです…)。
前川氏の講演に対する問い合わせについては、何が不自然なのか全くわかりません。反安倍の英雄として祭り上げた前川氏にイチャモンをつけた側を悪者扱いするという、これこそマスコミの脚本(脚本にしては荒過ぎますが…)です。これは忖度(圧力)ではなく地元政治家の問い合わせが発端ですが、問い合わせることに不自然さは感じません。
ウィトラ様は「安倍政権の末期症状」と言われていますが、これは安倍総理が既得権に手を突っ込んでいることにあると思っています。代表的なものでは「憲法改正」と「緊縮財政脱却」がありますが、反対勢力としてはマスコミ(護憲派政党含む)と財務省であり、生半可な勢力ではないことが伺えます。そして与党内で不満を漏らしている政治家は親中派であり、先日2人の幹事長が連れ立って訪中しています。もちろんチャイナは憲法改正も緊縮財政脱却も歓迎しないでしょう。
官僚が省益優先(ムラ意識)であることはその通りだと思いますが、「お仕えする」に関しては「面従腹背」をモットーとする事務次官が存在していたことからも分かる通り、もちろん”建前”だと思います。ある政治家は、官僚が何にでも「お」を付けることを皮肉っておられました。もともと”忖度”は良い意味であり、”面従腹背”は悪い意味だったと思いますが…。
政治家の場合ははっきりしています。選挙民が投票で示した結果が全てです。どんないい政策を提案して実行、実績を挙げても(議員としても、行政の長としても)選挙で落ちれば、それは「顧客、市場=選挙民に評価されなかった」事になります。
官僚の場合は、これがはっきりしていません。トップ人事だけは選挙で選出された首長、大臣が或る程度の影響力を行使することができます。米国の様に気にられなかった行政府の幹部がその組織を離れ(退職し)、他から引っ張ってくるということが定例化していれば、それなりの刷新も可能です。
日本の場合は、大臣に気に入られなかったら退職ではなく組織内で閑職で待機し、次に備えるか外郭団体での役職に就くという形があります。つまり殆どの官僚は組織から離れるよりも、潜んで生き続ける事になります。
それでは、中間の組織や人間の役割・行動を官僚組織ではどのような基準に基づき、どの様に見直して、「改善」を図っているのでしょうか? 採用の際はランクに応じて公務員採用試験があります。その成績と出身校の「ランク」で或る程度のランクが決まります。民間の組織であれば、そんな入口の成績は、最初の2~3年間の評価には役立ちますが、その後の評価は実績です。人事の評価制度は、企業運営の要です。それでも多くは年功序列で、入口の条件が何十年も適用されるわけです。
もちろん官僚組織でも民間と同じように、半期毎、年度毎の目標を定義して、そのリビューをする、これは橋下氏が府知事時代に導入していました。又、一部ですが若手の首長が、自分達の掲げた公約の達成度合いを任期や年度毎に数値で表すケースも増えてきています。
従って、その気になれば、目標管理として、そしてそれに基づく人事、勤務評価にも十分生かせる方法だと思います。さらに踏み込めば、集合体としての組織全体の統計を外部に開示して、選挙民に理解してもらう事まで踏み込めると思います。
官僚組織の場合はどうでしょう? 更に一旦できた組織でも時流によっては、改廃統合が必要になります。収入(売上、税収)に応じて、臨機応変に見直す必要があります。企業のスタッフ職も同じような境遇にあります。その「外部、数字」による評価が及びにくい組織や人事をどう運営するかです。
組織の在り方に関しては、それを改善する一助として、民社党時代に一次導入された予算・決算の説明、事業仕訳がもっと導入されたらと思います。民社党の時代には、スタンドプレー的なショーになってしまいましたが、運営の工夫をすれば、きちんと効果が見えてくると思います。
海外の官僚組織の運営は不勉強ですが、国内でいえば、官僚組織と人事管理は、民間にその手法があって一定レベルで確立されていますので、それを導入するかどうかだけだと思います。
一連の安倍内閣倒閣キャンペーンに乗っている人々は、まさに前回のブログでウィトラ様の指摘されている「人は見たいものしか見ようとしない」に相当するのではないかと思いました(ぬるま湯が心地よいことに安住しているという意味において…)。
政治家と官僚は役割分担ですので、お互いに分をわきまえることが肝要だと思います。ウィトラ様はバランスを失って来ていると書かれていますが、私はバランスを取り戻しつつあると見ています(今までは官僚の影響力が強過ぎたという意味です)。前にもコメントしましたが、「文書改竄」は色々通り越して組織を解体しても良いレベルです。
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【経済討論】財務省主導の経済でいいのか?日本[桜H30/4/14]
https://www.youtube.com/watch?v=s8y0fk90-OQ
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