お彼岸の墓参のあと、ショッピングがてら
日本橋辺りを少し散歩しました。
高速道路の下を流れる日本橋川
橋のすぐ傍の老舗デパート
橋の袂に
「日本橋魚市場発祥の地」碑
江戸時代はここ日本橋川沿いに、幕府や江戸市中で消費
される鮮魚や塩干物を荷揚げする魚河岸がありました。
此処で開かれた魚市は、江戸初期に佃島の漁師達が将軍や
諸大名に調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まり、
川沿いを中心に、1日に千両の取引があったともいわれる
ほどの賑わいで江戸で一番活気に溢れた場所の1つでした。
魚河岸は、関東大震災後に現在の築地に移されました。
日本橋交差点から、日本橋川に沿って東の方へ歩いてみましょう。
「江戸橋」にやって来ました。
江戸橋交差点角のビルは「日本橋郵便局」
「郵便発祥の地」
1871(明治4)年 新式郵便制度が発足したとき、郵便役所が置かれました。
日本郵便の父 前島密氏の胸像がありました。
「日本橋」→「江戸橋」の次にあるのが
「鎧(よろい)橋」
言い伝えによると;
嘗てこの付近に大河があって、平安時代 源義家が奥州平定の旅途
此処で暴風・逆波に遭い船が沈みそうになったため、鎧1領を投じて
竜神に祈ったところ無事に渡ることができたので、「鎧が淵」と呼ばれる
ようになったとか。また、平将門が兜鎧を納めた所とも伝わっています。
「鎧の渡し」
1872(明治5)年に橋が架けられるまで、渡し舟が交通手段だったようです。
「縁日に 買うてぞ帰る おもだかも 逆さに映る 鎧の渡し」 和朝寺国盛
平成通りから中央通りに戻る途中、大きな石柱が2基少し離れてあります。
「海運橋親柱」
説明板によると;
この橋は、楓(もみじ)川が日本橋川に合流する入口に架けられて
いました。江戸初期には「高橋」と呼ばれ、橋詰に御船手頭 向井
将監忠勝の屋敷があったので「将監橋」、また御船手衆は幕府の
海軍で海賊衆ともいわれたため「海賊橋」とも呼ばれていました。
明治になり「海運橋」と改称。アーチ型の石橋に架け替えられました。
文明開化の頃 橋周辺は東京の金融の中心として繁栄し、橋詰に
あった洋風建築の第一国立銀行とともに、東京の新名所となりましたが
関東大震災で破損。1927(昭和2)年鉄橋になり親柱が保存されました。
その後 川の埋め立てにより、1962年に鉄橋も撤去されたそうです。
そういえば先程 銀行前を通ったとき、壁面に嵌め込まれていたレリーフ
「銀行発祥の地」
1873(明治6)年 我が国最初の第一国立銀行が創立された場所だそうです。
この辺りは現在も、金融・証券関係のビルがたくさんありますね。
右側は、東京証券取引所のビルのようです。
いろいろな「発祥の地」を廻って、再び日本橋に戻ってきました。
少し歩いただけでも、江戸以来 この辺りが経済社会発展の
原点として重要な場所であったことがよくわかります。
そうそう、「日本橋」も旧東海道の出発点でしたね。
今度は街道筋をもう少し歩いてみましょうか☆
いよいよ秋到来? 旧東海道街道の旅へのファイトも盛り上がっているようですね。
そこから東側には、私も行ったことがありませんでした。
(お金にはご縁がなくて・・・笑)
ちょっと足を伸ばせば・・まだまだ興味は尽きません~♪