伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

先見の明

2016年05月17日 | エッセー

 昨年の4月に発覚し、いまだに尾を引いているのが『東芝』の不正会計・粉飾決算である。隠蔽体質は90年代からのものらしい。粉飾額は2千億円を遙かに超える。「濡れぬ先こそ露をも厭え」の典型か。中でも致命的だったのが、アメリカでの原子力会社の買収が失敗に帰したことだ。これも今年の4月まで直隠しにしてきた。「阿漕が浦に引く網」だが、あちらは病に伏す母親のためだからまだ言い訳も立とうが、“東”京の“芝”浦では阿漕が過ぎて申し開きが立つまい。
 今年の4月に発覚したのが『三菱自動車』の不正データ・偽装検査だ。この自動車屋さん、過去00年にリコール隠しがばれ、ついで04年にもまたリコール隠し事件を起こしている。廃業の危機を救ったのは三菱東京UFJ銀行・三菱商事・三菱重工業の『三菱グループ御三家』であった。しかし、「仏の顔も三度まで」(余計ながら、「三度」とは何度もの謂で三に限るわけではない)。今度ばかりはスリーダイヤもお手上げ。遂には日産の傘下に入ることと相成った。「弱り目に祟り目」、「踏んだり蹴ったり」で、遂には「鬼は弱り目に乗る」か。
 同じ4月、『シャープ』が鴻海の軍門に降った。12年に端を発した経営難が国内銀行チームによる救済ではなく、電子機器受託生産の世界最大手である台湾企業に買収される形で決着した。パナソニックやソニーといい、世界を牽引してきた優良企業は今や斜陽の憂き目を見ている。海外移転・進出が技術をも攫い、気が付いたら「庇を貸して母屋を取られる」凋落に立ち至っていたということか。といっても、「引かれ者の小唄」にしか聞こえぬであろうが。
 ともあれこれら3件はなんとかミクスにとっては足を引っ張られ、面の皮を剥がされる不始末となった。さらにはコマーシャリズムとグローバリズムのなれの果て、「盛者必衰の理をあらはす」とでも括るほかあるまい。だが、碩学はよりドラスティックに掘り下げる。
 経済学者の水野和夫氏は東芝とVWの両事件を取り上げ、「電気機械産業と自動車産業で起きたという点で近代の終わりを象徴するような事件だ」(詩想社新書「資本主義の終焉、その先の世界」から)と、事の本質を剔抉する。「近代」の行動原理とは「より速く、より遠く、より合理的に」であり、それが地球規模で限界に達した今、近代システム自体が機能不全に陥っているという。新しい行動原理とは「よりゆっくり、より近く、より寛容に」であるとし、中世に範を求める。また、「東芝は『日本株式会社』の一つであり、VWは『ドイツ株式会社』ですから、株式会社の存在がいま問われているのです」(前掲書より)とも述べる。株式会社こそ近代システムの中核的存在だからだ。
 おっと、『日本株式会社』の代表を忘れていた。そう、東京電力である。「電気機械産業」どころか電気そのものを作る超優良株式会社が、3.11で奈落の底に一瞬にして叩き落とされてしまった。今や実質国有化されているのだから、まさに『日本株式会社』。これこそなにより「近代の終わりを象徴するような事件」だ。「一事が万事」、「一事を以て万端を知る」ではないか。
 水野氏は一貫して資本主義は崩壊過程に入ったと警鐘を鳴らす。
 後漢書に「彪対(コタ)へて曰く、愧ずるは日磾(ジツテイ)の先見の明無く、猶ほ老牛の舐犢(シトク)の愛を懐(ナツ)くるを、と」とある。
 零落した彪が質問に応える。自分には日磾のように将来への見通しがなく、老牛がわが子を溺愛するような愚を犯したために子を失い恥じ入っている、と。
 「先見の明」の故事である。旧来のシステムにしがみつくことは、「猶ほ老牛の舐犢の愛を懐くる」に変わりあるまい。 □