伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

もう一つのフクシマ

2016年05月13日 | エッセー

 あまり知られていないことだが、3.11の原発事故は福島第1原発(1F)だけではなく、そこからわずか12キロしか離れていない福島第2原発(2F)でも起こっていた。
 経緯は以下の通り。
──2011年
3/11 15:23 津波襲来
           放射性廃棄物処理建屋につながる外部電力と
           3号機の非常用ディーゼル発電機の二つを除いて全電源喪失
     18:33 原子炉4基の内、3基(1、2、4号機)が冷却機能喪失
     22:00 作業員現場に向かい損傷確認
3/12 早朝    2号機が最も危険な状態となり2号機最優先を決定
         日中    処理建屋から人海戦術で2号機へ電源ケーブル敷設開始
3/13 早朝       3号機の非常用発電機からも他3基へケーブル敷設開始
          日中    1号機が2号機より危険に、ケーブル敷設を1号機優先に変更
3/14 0:00    ケーブル敷設作業終了
        1:24  1号機の冷却機能復旧
          7:13   2号機の冷却機能復旧
3/15 7:15  全4機すべての冷温停止に成功──
 1Fを襲った津波が13m、2Fは9m。2F3号機の冷却装置が活きていたという好条件はあったものの、2Fも1Fに劣らぬ危機に陥っていた。限界ギリギリ、わずか2時間前にメルトダウンは回避され水素爆発も免れた。1Fの4基合計出力は280万KW、2Fのそれは440万KW、1.5倍の出力がある。罷り間違えば、2つの原発事故が同時に発生し終末的クライシスを迎えていたかもしれない。泣血の断末魔を躱し得たのは奇蹟ともいえる。そのミラクルを生んだのはリーダーシップと人海戦術だった。
 増田尚宏所長は徹して作業員との情報の共有に努めた。判っていることと判らないことを、数字やグラフを駆使してホワイトボードに書き続けていった。朝夕すべての作業員が集合してのミーティングを軸に、置かれた状況をすべて開示した。情報の共有は連帯感を生み、アクティブな対応を引き出す。まさかの危急存亡の秋(トキ)、これはなかなかできることではない。軍隊でいえば、1個中隊で戦闘中に中隊長と前線隊員が戦況を同時に同量掴んでいる。それは想像しがたいありようだ。
 さらに、「津波襲来」と「作業員現場に向かい損傷確認」とが約6時間空いている。増田所長は後、「すぐには『現場へ行け』とはいえなかったのです。現場に行ってもらうには、危険が減ってきている状況を皆に納得してもらう必要がありました」と語っている。指示、命令と納得、説得。所長の人品と相俟って、この辺りに人心収攬のリーダーシップが窺える。『チーム増田』の秘密だ。
 「ケーブル敷設を1号機優先に変更」も注目すべき点だ。「『ごめん、間違った』『さっきの訂正』と何度言ったかわかりません」と所長は述懐する。作業員からの質問には即答し、迷わず動けるように具体的に指示したと言う。直感も交えての対応である。「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ」だ。未知の状況変化に即応する柔軟性もリーダーの枢要な資質ではないか。反面、彼は危機を超えるまで自席から絶対に動かなかったそうだ。砲弾の嵐の中、旗艦三笠の艦橋を一歩も離れず足形がくっきりと残されたという東郷平八郎を彷彿させる。指揮官の所在を明確に示すことはリーダーシップのいろはのいの字だ。3.11で1Fにふらふら飛んで行ったカンカラカン総理ってのがいたが、まあなんともお寒い限りだ。
 次に「処理建屋から人海戦術で2号機へ電源ケーブル敷設」だ。危機管理マニュアルになかったこの対処は増田所長の決断による。距離800m、ケーブルは1本200m重さ1トン。リフトもクレーンも、重機はない。人力で運ぶしかない。200人の作業員が等間隔で把持し運んでは繋いだ。1本の敷設で済むはずはない。運搬距離は合計9キロにも及んだ。12日から13日深夜まで、機械を使っても普通ひと月は掛かる作業を人力のみで2日間でやり切った。家族や自家を失ったメンバーもいた。不安や悲哀を振り切り、暗闇も掻き分けて命がけのミッションを成し遂げた『チーム増田』の面々こそ英雄と呼ぶに相応しい。労に報いる顕彰を国は考えるべきだ。いや、駄洒落ではないが、2F『もう一つのフクシマ』については国を挙げての“検証”こそ必要ではないか。内田 樹氏は以下のように述べる。
◇「起こるはずだったのに、起こらなかったこと」について事後的に考察するということを歴史家はあまり(というか全然)しませんが、歴史の文脈のどこに重大な「段差」や「転轍点」があったのかを知るためには、「起きたこと」を因果関係の糸で結んでみせるよりも、むしろ「起きてもよかったのに起きなかったこと」を個別に精査してみる方が有用です。これは僕の経験的確信の一つです。◇ (「昭和のエートス」から)
 歴史的事故も同等ではないか。思想家の炯眼に学ばねばならない。
 加うるに、「リスク管理」と「危機管理」の違い。事故の前と後の対処である。先ずは危機管理だ。これも内田氏の言を引く。
◇「平時的思考」をする人は、「どうしていいかわかるときには、正解を選ぶ。どうしていいか正解がわからないときには、何もしない」という原則に従います。とりわけ受験秀才たちは誤答を病的に恐れるので、「どうしていいか、わからないときには何もしない」というルールが身体深く内面化している。けれども、戦場というのは平時のルールが適用できない場所です。「どうしていいかわからないこと」ばかりが連続的に起こる。だから、「どうしていいかわからないときにはフリーズする」タイプの人間はすぐに死んでしまう。「どうしていいかわかる」人だけが生き延びる。◇(「街場の戦争論」から)
 幸いにも、2Fは「『平時的思考』をする人」がトップではなかった。かといって、1Fがそうだったといっているのではない。1Fとは決定的にダメージが違う。態様が異なる。吉田所長も立派な指揮を執ったことは疑いようはない。誤解なきように。
 厳密にいえば、2Fはすんでのところで『もう一つのフクシマ』にはならなかった。だが、決して笊耳にしてはおけない。 □