伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

かちあげ 禁止に!

2016年05月19日 | エッセー

 からあげ、ではない。かちあげ、である。唐揚げなぞ禁止にしようものなら世に暴動が起こる。相撲の搗ち上げ、である。張り手、変化、だめ押しなどと並んで最近加わった白鵬の“得意技”がこのかち上げだ。
 かち上げとは胸に構えた前腕を相手の胸めがけて激しくぶつける技だ。相手の体(タイ)に刹那のインパクトを与え、差し手を取る隙を作るのが目的だ。プロレスのエルボー・バットのように頭部に直接的なダメージを与えるものではない。だからもし相手が一撃で倒れたとしたら、本来のかち上げではないと断じ得る。際立つのが昨年秋場所での<白鵬×妙義龍>戦、今場所9日目の<白鵬×勢>戦だ。ともに張り手との合わせ技で妙義龍、勢ともに「一撃で倒れた」。エルボーでさえ肘の先端部分は反則とされるほど危険な技だ。エルボーとは言わぬまでも、エルボー紛いであることに疑いようはない。ましてや鍛え上げられた幕内力士が一瞬にして土俵に沈むなどとはもはや相撲ではあるまい。少なくとも相撲技ではない。プロレスも真っ青、リングが土俵に変わったようなものだ。
 反則負けになる禁じ手は規則で定められている。──握り拳で殴る。髷を掴む。前たてみつを掴んだり横から指を入れて引く。胸、腹を蹴る。など──である。3番目は膝を叩いて得心がいく。フィジカルな問題というより、礼節を重んじるゆえであろう。なにせ裸体に近い彼らにとっては最後の砦だ。それで話はかち上げだが、初めの「握り拳で殴る」と如何ほどの違いがあるのだろうか。先述のごとく、使いようによって肘は「握り拳」と同等の破壊力を持つ。いな、それ以上かもしれない。限りなく禁じ手に近い。いっそこの際、「本来のかち上げではないと断じ得る」エルボー紛いのかち上げは禁じ手にすべきではないか。いやむしろ当今の大型化した関取の体格変化に鑑み、かち上げすべてを禁じ手にしてはどうか。頸から上だけは鍛えようがないからだ。このままかち上げが野放しになるなら、大相撲本来の偉丈夫が激突するど迫力や小よく大を制する技の妙味が後退し、急所狙いの安っぽい格闘技に成り下がってしまう。
 勢戦について、解説の北の富士は「横綱は貫禄相撲を取らなきゃ……。自分で考えたのか知らんが、えらいことを覚えてくれたね。でも反則じゃないからね。でも、横綱らしくないと言われるのは確か」と語った。片や、八角理事長は「俺はかち上げは好きだった。相手の胸に穴を空けてやるくらいのつもりで当たっていった。来るなら来いと。かましたことがない人が、かち上げを食らったらこうなる」と、まことに呑気だ。してみると理事長の言う「土俵の充実」とは星取りの盛り上がりであって、取り口の筋目、折り目は考慮にないらしい。しかし、批判は殊の外多い。主なものを列挙すると──暴力相撲であり、相撲を単なる格闘技に貶めるものだ/意図的に顎や喉を狙う「殺人技」/横綱の品位を落とし権威を汚している/最上位の横綱が下位に使うのはパワハラだ──などである。
 加えて、今まで何度も指摘した「過剰適応」による「勝利至上主義」を挙げねばなるまい。約めていえば、新撰組の論理。武士にあらざる者が過剰に武士たろうとして法外な殺戮を繰り返した。などといえば、堅白異同が過ぎようか。さらに明文規定がなければ「でも反則じゃないからね」(北の富士)となるなら、「理に勝って非に落ちる」にならないか。反って相撲界の不利益を招く結果にならないか。どこかの知事のように、法的に言い訳が立つからといってもそれで信頼が増すわけではない。事実は、その逆だ。かち上げも同様、存外の非難は復活した大相撲人気に決して追い風にはならない。だから、禁じ手に明文を改めよというのだ。
 司馬遼太郎が「四股」について言及している一文がある。
◇醜(シコ)は、古語である。にくにくしいまでに強いこと、あるいはそういう人をさす。関西では、私などの子供のころまで、醜を動詞にして醜るということばがあった。こどもがむやみにさわぐさまをいう。大相撲は、神事の要素が濃い。立ち合う前に、四股を踏む。四股はあて字で、本来、神をよろこばせるべく、醜をふるまうというところからきたものに相違ない。◇(「街道をゆく」41から)
 「にくにくしいまでに」とは滋味のある筆遣いだ。憎いのではない。認めたくはないが、脱帽する強さ。肯んずるほかはない。敬愛が交じる羨望とでもいおうか。客席に「神」が居ますとすれば、「神をよろこばせるべく」が肝心であろう。割り切れない違和感や後を引く不快感が残ってはよろこぶわけにはいかない。どれだけの記録を残しても、『ブラック白鵬』では洒落にもならない。 □