伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

伊勢参り

2016年05月28日 | エッセー

 いつから伊勢神宮は日本のファサードになったのだろう。今月26日の産経は次のように報じた。
<「二拝二拍手一拝」は求めず、自由に拝礼…参加国首脳らが伊勢神宮を訪問
 首脳は安倍晋三首相の案内のもとに内宮の「御正殿」で御垣内参拝。「二拝二拍手一拝」の作法は求めず、あくまで自由に拝礼してもらう形を採った。
 安倍首相は一足先に伊勢神宮に到着し、内宮の入り口にかかる宇治橋でオバマ米大統領ら首脳を一人一人出迎えた。首脳らは記念植樹も行った。>(抜粋)
 なぜ伊勢神宮か。24日付の産経から。
<G7首脳、伝統体現する「御垣内参拝」で伊勢神宮訪問 「正式参拝」精神性触れる場に
 訪問を単なる文化財の視察とせず、日本の精神性や伝統などを肌で感じてもらう機会とすることを重視した。G7首脳の伊勢神宮参拝をめぐっては、政府内で政教分離の原則の観点を懸念する声もあったが、伊勢神宮に代表される日本の精神文化や心をより深く理解してもらう目的であることから、原則には抵触しないと判断した。政府筋は「互いに国の文化を理解し合うことは外交にとってもプラスになる」と指摘。政府は外国人観光客の獲得にも力を入れており、G7首脳の訪問で伊勢神宮の知名度が上がる効果も期待している。>(抜粋)
 海外はどう見ているのか。米大手総合情報サービス会社ブルームバーグは「首相は個人として神道を信仰しているのみならず、政治家・総理大臣としての公的活動でも、神道をベースとし、神道を奨励しようとしている」と報じ、英国大手新聞ガーディアンは「神宮訪問には宗教的かつ政治的な意図がある。安倍首相の求めているのは戦後の否定、戦争以前の価値観の復権にある」と述べている。
 「神道をベースとし、神道を奨励」とは的を射ているというべきか、「神道政治連盟国会議員懇談会」の会長は誰あろう、安倍首相である。この懇談会は「神社本庁」の関連団体である「神道政治連盟(神政連)」の理念に賛同する国会議員の連盟である。その神政連は綱領の筆頭に「神道の精神を以て、日本国国政の基礎を確立せんことを期す」と掲げる団体である。「戦後の否定、戦争以前の価値観の復権」と併せ、2紙の指摘は実に鋭い。
 さらに神社本庁とは伊勢神宮を本宗とし、全国8万に近い神社を包括する宗教法人である。神祇院の後継を臭わせたのか“庁”とは紛らわしいが、紛れもない一宗教法人である。つまり皇室の宗廟といえども、伊勢神宮は今や一宗教団体である。ならば、伊勢神宮訪問はおかしくはないか(政府は「参拝」という言葉を避けているが)。言わずもがなではあるが、憲法20条を徴したい。

1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 「伊勢神宮の知名度が上がる効果も期待」は大いに満たされたであろうが、果たして1項「国から特権を受け」に照らして疑義はないのか。宣伝効果は便宜供与には当たらないのか。記念植樹はどうなのか。「あくまで自由に拝礼してもらう形を採った」とはいえ、それがニュースパブリシティとなることで3項「いかなる宗教的活動もしてはならない」に抵触はしないのだろうか。いうまでもないがこの訪問はすべて国が取り仕切り、国のカネを使って、国が主体となって執り行われた。伊勢志摩に文句はないが、神宮には問題大ありだ。
 如上のオブジェクションには「伊勢神宮に代表される日本の精神文化や心をより深く理解してもらう目的」や、「互いに国の文化を理解し合うことは外交にとってもプラスになる」が返ってくるだろう。ところがしかし、これこそが捨て置けない面倒なのだ。
 戦前、国家神道は大日本帝国の国教とされた。だが一方、大日本帝国憲法第28条には「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」とあり、条件付きとはいえ信教の自由が謳われていた。どう整合するのか。そこで出てきたのが「国家神道は宗教にあらず」との非宗教説であった。敬神は臣民の義務であり慣習である。義務は道徳の範疇にあり、慣習ならば受け入れざるをえない。なお神道に教義はないゆえ宗教とはいえない。このソフィズムが信教の自由を奪い、国家神道が強制された。
 「精神文化や心」の強弁と「道徳、慣習」との間(アワイ)は咫尺を弁ぜずではないか。またもや同じロジックを振り回しかねない。だから、捨て置けない面倒なのだ。大仰に聞こえる向きもあるかもしれぬが、センシティブなマターにはどれほどセンシティブになっても損はない。気がついた時には遅かったことが何度あったか。
 江戸時代の奇習に「お陰参り」があった。全国各地から民草が突如家事も仕事もうっちゃり群れをなして伊勢参りに出かける。飯も参詣の白衣も街道の住人が恵んだ。信心ゆえに店(タナ)の主も止められない。まことに奇態というほかないが、移動が厳しく制限される中伊勢参りだけは許された風潮が背景となったらしい。まさか遠い昔の2匹目の泥鰌ではあるまい。メルケルおばさんも、オランドおじさんも泥鰌にされては堪るまい。桑原、桑原。 □