「イギリス人民は、自分たちは自由だと思っているが、それは大間違いである。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれてしまうと、彼らは奴隷となり、何者でもなくなる。自由であるこの短い期間に、彼らが自由をどう用いているかを見れば、自由を失うのも当然と思われる」
『社会契約論』にジャン=ジャック・ルソーはそう認めた。「自由」を奪われていることが「奴隷」の属性だとすれば、対極には恣意な自由さえも手にする「王様」がいる。「自由」を「王様」に置換すれば、巷間の格言「有権者は選挙のときだけ王様で、後は奴隷である」となる。
13、20の両日に行われた桝添知事の会見を巡るマスコミの昂ぶりは“気分は民主主義”を主導しているようでならない。
広辞苑に依れば、「democracy の語源はギリシア語の demokratia で、 demos(人民)と kratia(権力)とを結合したもの。権力は人民に由来し、権力を人民が行使するという考えとその政治形態」とある。件(クダン)の昂ぶりは「権力は人民に由来し、権力を人民が行使する」との原義が立ち上がる昂揚感、ぶっちゃけていえば鬼の首を取った、もしくは取らんとする痛快な感覚ではなかろうか。世論調査によれば、13日の釈明に「納得できない」は9割以上に及ぶ。20日はそれ以上か。
だが、ちょっと俟ってほしい。「彼らが自由をどう用いているか」については誰も触れない、語らない。「用い」方がまずかったとはどこからも聞こえてこない。氏の国会議員時代の去就や言行について、「自由」を「用い」た判断は的確になされたのだろうか。100歩も1000歩も譲って、好い面の皮だとしよう。それにしたって、同じことを2度もだ。前任者もカネ絡みで、1年にして辞職した。今度もカネ。それも「第三者の専門家」を引っ張り出さなきゃ解(ホド)けないほどの絡み具合らしい。「前車の覆るは後車の戒め」どころか、忠実に前車の轍を踏んでいる。鄙(ヒナ)の僻みでいうのではないが、都人は大層な太っ腹と見えるがいかがか。
だから、今般の昂揚には眉に唾を付けざるを得ない。事によれば首を挿げ替えることだってできるという“気分”は確かに民主主義を背負ってはいるが、あくまでも気分にすぎないのではないか。王様といっても、裸の王様。自らを客観視できなければ嘲笑の戯画が俟つばかりだ。事の半分を見落としてはならない。ミスチョイスを重ねる都民の眼に曇りはなかったのか。「自由を失うのも当然」の結果を招来したのは誰なのか。大仰だがつい、「歴史は繰り返される。一度目は偉大な悲劇として、二度目はみじめな笑劇として」とのマルクスの箴言を引きたくもなる。
沖縄でまた事件が起こった。一国の民主主義と熾烈に対峙しているのが沖縄の民主主義だ。先般彼らはトップを替えた。それでも国は動かない。どちらが民主主義なのか。深刻なアポリアと向き合う沖縄の民主主義。命がけだ。とても“気分”などではない。 □