伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

羹に懲りて膾を吹く

2011年07月20日 | エッセー

 最近、やたらと耳にする言葉に「再生可能エネルギー」がある。ついこないだまでは「自然エネルギー」が盛んに使われていたのに、にわかな宗旨替えであろうか。
 さまざまな仕訳があるが、エネルギーは「枯渇性エネルギー」と「非枯渇性エネルギー」に大別される。
 「枯渇性エネルギー」は、化石エネルギーと原子力エネルギーに2分される。どちらもやがては枯れる。ただその期間ははなはだ異なる。
 これに対し、「非枯渇性エネルギー」は「再生可能エネルギー」とも呼ばれ、自然界の現象をエネルギーに変える。使用後も枯れることはなく、自然界で再生される。枯渇性燃料を代替し、温暖化対策にも資するとされる。「自然エネルギー」「バイオマス エネルギー」「廃棄物エネルギー」に分かたれる。
 自然エネルギーは、太陽光(熱)、風力、水力、潮汐、海流、波力、地熱など。
 バイオマス エネルギーは、なたね油、砂糖きびアルコール、わらアルコール、藻オイルなど。
 廃棄物エネルギーは、ごみ焼却熱、下水汚泥発酵メタンガス、し尿発酵メタンガスなど(政府は現在、これを再生可能エネルギーとはしていない)。
 このうち、自然エネルギーが再生可能エネルギーと同義に使われてきた。後者が一般化したとして、政府はこれを用語とする方針だ。だが研究者の中に、真に再生可能であるのはバイオマスだけだとする異論もある。太陽光、風力の「自然」は使い切りで元には戻らない。電気に転換後は光も風も失せてしまう。無尽蔵ではあるが、再生できるわけではない。循環と再生の理に適うのはバイオマスのみだという。もっともである。
 「エネルギー保存の法則」に照らせば、風力発電とは自然から風を奪うことであり、太陽光発電は地球にまんべんなく降り注ぐ太陽光を奪い太陽エネルギーの循環を寸断することになる。メガ・ソーラーなぞは紛れもない自然破壊だ、との見解もある。さらに、すべての化石燃料を太陽光で代替するには国土面積の1割を占有する必要があるとの試算もある。狭い国土で、はたして可能か。
 時系列は定かでないが、3.11以降頓(トミ)に「再生可能」が声高になってはいないか? 問題を逆に立てると、なぜ「自然」を避けるのか、どうして次数を上げるのか(「再生可能」が「自然」より高次にある)、である。
 以下、邪推をしてみる。
 地球温暖化論議とともに「自然」は金科玉条となった。錦の御旗である。だから、こちらこそ都合がいいはずだ。しかし原発の推進には同じ枯渇性エネルギーでも格段にスパンの短い化石エネルギーの代替と、CO2削減の切り札としての温暖化対策が喧伝されてきた。原発は双方を満足させ、地球の「自然」を護る寵児として一石二鳥の大役を一身に担った形だ。人工の究極的存在である原子力が、皮肉にも逆位の立ち位置を与えらえれたことになる。
 だから「脱原発」には、原発に刷り込まれた「自然」のイメージが邪魔になるのではないか。「自然」を錦の御旗にした国策が自家撞着を問われかねない。これを惧れたのかもしれない。だとすれば、羹に懲りて膾を吹くではないか。とんだ目眩ましだ。
 ところが、もう一つの「膾」を忘れていた。高速増殖炉だ。フランスなどの核先進国が撤退するなかで、日本はあくまで追い続けてきた。「もんじゅ」で足踏みはしているものの、これはどうするのか。ひょっとしたら「膾」どころか、こちらこそ本当の「羹」かもしれぬ。しかも、この夢の炉こそ文字通りの『再生可能』エネルギーだと呼ばわってきたのではないか。この呼称にこだわる限り、またしても自家撞着を来(キタ)す。

 54年国家予算に、はじめて原子力研究開発費が計上され、破格の2億3500万円(ウラン235に因んだという)が付いた。重い腰を蹴り上げられるようにして、日本が原発のとば口に至ったのだ。立役者は若き中曽根康弘氏であった。以後、日本の原発推進の旗を振りつづける。ところが先月、誰あろうその中曽根氏が自然エネルギー派に豹変した。神奈川県主催の経済会議にビデオ・メッセージを寄せ、「原子力には人類に害を及ぼす一面がある。自然の中のエネルギーをいかに手に入れて文化とするかが大事だ。太陽光をさらに活用し、日本を太陽国家にしていきたい」と語った。これぞ、「にわかな宗旨替え」。まさに老いてなお「風見鶏」ではないか。
 先日国会で、菅首相は中曽根氏を「首相を辞めた後は、日本と政治のことを非常に深く考えられている方だ」と、尋常ならざる尊崇の念を披瀝した。なるほど、定見なき政策の漂流は風見鶏の生き写しなのだ。そんなことだから、上記のごとき邪推もついしてみたくなる。□