伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

畑の昆布

2011年07月10日 | エッセー

 各地、異例の速さで梅雨が明けていく。いつもなら陰湿な時季から開放されて昂揚感が沸くところだが、ことしに限っては心中いっかな晴れ渡らない。むしろ、ことさら身構えて季節を跨ぐ。
 電力不足が焦眉の急だ。氷も夏の風物とはいかず、節電と炎暑との攻防戦で踏まねばならぬ薄氷となってしまった。早くも政府は重篤な熱中症に罹ったかのように、エネルギー政策でもふらふらと蹌踉(ヨロボ)いはじめた。
 国会で「恥知らずな史上最低の首相」と断じられたご当人は、「他人に失政を押しつけて責任を免れようとするのは、恥の文化に反する」と射返した。しかし悲しいかな、その矢は的を大きく逸(ソ)れた。
 恥を知るとは、少なくとも言い訳をしないことではないか。彼らが掲げた「政権交代」とは、前政権の「失政」をリカバリーすることではなかったか。つまりは、成り代わって「責任」を取ることではないのか。その覚悟が本物なら、いまさら言い訳も愚癡も無縁なはずだ。「政権交代」の金看板が泣こうというものだ。
 この人物、言い訳、言い逃れだけは一流だ。「責任を免れよう」とは、よく言った。免れまいとするからこそ、一刻も早くその座を明け渡せと旧政権は迫っているのではないか。
 江戸末期の滑稽本に、「尻から剥げる嘘つき」という落とし噺がある。──松前(北海道)の土産に鰊と棒鱈と昆布を船便に託したと、ある男が旦那筋に嘘をつく。荷が届かないと責められ、窮した男は今年は日照りが続いて蝦夷地の畑で鰊や昆布が育たなかったと嘘を重ねる。ついに見透かされて、「背中や尻が剥げてきて、もうここに座っていられんようになった」と這々の体で逃げ帰った。──
 鰊は陸(オカ)で泳いではいない。昆布は畑には生えない。いかに遙かな蝦夷地とはいえ、知れきった嘘だ。早晩、背中も尻も剥げる。だが失せるだけ、この男の方がましともいえる。当今の皆の衆(シ)は『畑の昆布』でまんまと言いくるめられ、挙句、嘘つきには尻が剥げても居座られたままだ。
 容赦ない日差しが続く。棒鱈を作る分にはよかろうが、どっこいとんだ木偶坊では洒落にもならぬ。□