伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

新しい幕が開く

2010年10月19日 | エッセー

 先週の日曜日、スーパーへ買い物に行った。駐車場に車を置いて、入り口へ向かう。

(ん、んー。サ、財布を忘れた!)

 しばし、立ちすくむ。
(マズい。どうにも、これはマズい! さて、どうしたことだろう?)
 立ったまま、黙考に及ぶ。
(まぁ、自分を置き忘れて来たわけではないからよしとするか。)
 これは、なおマズい。言い繕うにもほどがある。言い訳にも節度があろう。かねてから、ちがった意味で自分を忘れることはよくあるにしてもだ。
 単なる物忘れか? 実は、これで3度目だ。前2回も店はちがうが、入り口直前で気が付いた。もう「単なる」とは言い難かろう。
 と脳裏に、ある忌まわしい言葉が浮かぶ。
(いや、いけない。それは考え過ぎというものだ。)
 しかし最近、会話にやたら代名詞が増えたような気がする。「あれの、それはどうなった?」などと。それは件の忌まわしい言葉の兆候だという。だが反面、『?人力』がついてきた証だと、かつて赤瀬川原平氏は言ったが、はてさて。
 長考、何分に及んだであろうか。泣く泣く、わが家へ取って返した。

 もしこれが何を買いに来たかを失念した場合と比べれば、どうであろうか。
 アリストテレス流にいえば目的こそ肝心 ―― 人間の営為には目的があり、目的の最上位には「最高善」がある ―― であるから、なんら心配すべき現象ではない。人間の営為を逸脱してはいないのだ。はなはだ卑小きわまりない目的とはいえ …… 。
 しかし、2度の往復ははなはだしい非効率を生む。功利主義には悖る。だが、自らが未到の領域に歩み込みつつあると自覚し得たのは、大いなる収穫ではないか。あながち不利益とばかりは言い切れぬ。

 …… お判りであろうが、さきほどからサンデル教授の顔がちらついている。

 カントならどうだろう。定言命法でいけば、貨幣経済のもとでは財布(カードであろうとも)を持ち歩くことは立派な道徳律になる。財布を以て物を得ようとしない泥棒さんは、明らかに仮言命法に当たり不道徳の極みだ。筆者の場合、我を忘れて窃盗行為に走ったわけではないので、道徳的ではないまでも非道徳ではない。かつ、財布を忘れたのは完全なる自由意志である。だれの強制も受けていない。自由に忘れたのだ。この際だ、意志に問題ありなどと野暮なことはいうまい。ともあれ、カントもパスだ。

 となると、三方丸く収まるではないか。なーんだ、なにも心配は要らない。しかしこの牽強付会、やはり無理がありそうだ。相当、無理だ。土俵の上でフィギュアースケートをしようってとこか。やはり、「これはマズい!」か? 
 ここまできて、あの曲が耳朶によみがえる。

 「僕の人生の今は何章目ぐらいだろう」
  〽よかれ悪かれ言いたいことを全部言う
   気持ちいい風を魂に吹かす
   今はどの辺りだろう
   どの辺まで来ただろう
   僕の人生の今は何章目ぐらいだろう
      ・・・・・・・・・・
   朝が、昼が、夜が、毎日が、
   それぞれに いとおしい
   ・・・・・・・・・・
   いつまでも 図々しく
   どこまでも 明日はつづく〽
   (作詞・作曲 トータス松本/歌 吉田拓郎)

 もう一人、忘じ難き哲人がいた。アラスデア・マッキンタイア教授である。教授ならどうだろう。碩学は語る。「われわれは物語の探求としての人生を生きる」と。
(んー、これならいい。これはいける!)
 とすれば筆者畢生の『物語』の、その何幕目かが開(ア)きはじめたことは確かだ。
 さて、どんな役を見つけるか。客の入りは少ないが、見得のひとつも切ってみせるか。
(本稿は新しい幕が開く記念として綴った) □