哲学書で30万部とは驚異的だ。
これからの「正義」の話をしよう
Justice <今を生き延びるための哲学>
マイケル・サンデル著 早川書房 本年5月発刊。
難解な哲学があらんかぎり平易に綴られている。「白熱教室」に劣らずエキサイティングだ。「教室」でもそうだが、繰り出される「質問」の数々は枝葉を切り落として問題の哲学的核心をあらわにし、思考をぐいぐい牽引する。
本ブログ「あー、そこの君はどう考える?」の伝で、「あー、教授自身はどう考える?」の回答が慎ましくではあるが明かされている。「教室」では明言されなかったところだ。
「正義」の話は大枠三つにわたって語られる。自己流にまとめれば、
1 効率 <最大幸福原理(功利主義)> ベンサム、ミル
2 自由 <リバタリアニズム(自由至上主義)> カント、ロールズ
3 美徳 <目的論的思考> アリストテレス、マッキンタイア
となろうか。
「知の興奮」は本書に当たっていただくほかはないが、痴人説夢を承知のうえで、わたしなりの「知の興奮」を記したい。
論考は1、2、3と進み、3に対して次のようなアンチテーゼが持ち出される。
〓〓カントとロールズにとって、正しさは善に優先する。人間の義務と権利を定義する正義の原理は、善良な生活をめぐって対立する構想のすべてに中立でなければいけない。道徳法則に到達するためには、偶発的な利害や目的を捨象しなければならないと、カントは主張する。
ロールズの持論では、正義について考えるためには、特定の目的、愛着、善の構想を脇においておかねばならない。それが、無知のベールに包まれて正義を考える際の重要な点だ。
正義に対するこのような考え方は、アリストテレスの考え方とは相容れない。彼は、正義の原理は善良な生活に関して中立でありうるとも、あるべきだとも考えていない。逆に、正しい国制の目的の一つは、善い国民を育成し、善い人格を培うことにあると主張する。善の意味について熟考せずして、正義について熟考することはできないと彼は考える。その善とは、社会が割り当てる地位、名誉、権利、機会のことだ。
アリストテレスの正義についての考え方をカントとロールズが拒む理由の一つは、自由の入る余地がないと考えるからだ。〓〓
四捨五入すると(九捨一入に近いが)、「美徳」を掲げれば「自由」が引っ込むということだ。押し付けられてはかなわないというのだ。 ―― ついでながら、語られる「正義」とは正しい判断の謂と了見しておけばいいのではないか。だから文中「正しさは善に優先」とある「正しさ」とは、カント流の正しさ、「偶発的な利害や目的を捨象」し「特定の目的、愛着、善の構想を脇に」おいた、つまりは完全な素の状態での「自由」である。 ――
「自由」と「美徳」のアンビヴァレンツ、このアポリアをどう乗り越えるか。そこに登場するのがマッキンタイア(29年生まれ、徳倫理学を主導するアメリカの哲学者)である。
〓〓どうすればコミュニティの道徳的な重みを認めつつ、人間の自由をも実現できるだろうか。人間に関する主意主義者的な見方があまりに貧弱だとすれば ―― 人間のあらゆる責務が本人の意志の産物ではないとすれば ―― 、位置を持ちつつも自由な自己として自分を見るにはどうすればいいのだろうか。
アラスデア・マッキンタイアはこの問いに力強い答えを提示する。彼は、人間が道徳的行為者として目的と最終目標に至る方法を説明している。主意主義者的な見方に代わる考え方として、マッキンタイアは物語的な考え方を提唱する。人間は物語る存在だ。われわれは物語の探求としての人生を生きる。「『私はどうすればよいか?』という問いに答えられるのは、それに先立つ『私はどの物語のなかに自分の役を見つけられるか?』という問いに答えられる場合だけだ」
これまでに生きられたあらゆる物語はある種の目的論的特性を帯びていると、マッキンタイアは述べる。物語には外的な権威に押しつけられた確固たる目的や目標があるという意味ではない。目的論と予測不能性が共存しているのだ。〓〓
「人間は物語る存在だ。われわれは物語の探求としての人生を生きる。」これには正直、ぶっ飛んだ。マッキントッシュは齧ったこともあるが(冗談、失礼)、マッキンタイアは知らなかった。暫し、身動きできないほどに唸った。実存主義に近いものを感じるし、東洋の香りさえする。因果律、因果論。いうならば自律的因果。それもうんと前向きな、もっといえば未来に跳び上がる因果とでもいうような、きわめてポジティブなものを。
ともあれ、これならアポリアを一跨ぎにできる。常人には限りなく敷居の高い「主意主義者的な見方に」見事に取って「代わる考え方」であり、少なくとも「自由の入る余地」が生まれ、「カントとロールズが拒む理由の一つ」は消える。
さらに、2の考え方では膠着してしまう問題群が提示される。
◆家族の責務 ―― 「たとえ悪い親でも、面倒を見る義務が子供にはあるというならば、道徳的要求はリベラル派の互恵主義と合意の倫理を超えることになる。」つまり育ててもらってもいないし、親を選んだ訳でもない。では、道徳的要求の根拠は?
◆フランスのレジスタンス ―― ナチス占領下にある故郷の村を空爆することに躊躇するパイロット。大義であっても同胞を殺さなのは臆病や弱さとして非難されるより、「爆撃の実行は、特別な道徳的過ちになる」と考える彼の人格は敬服されるべきではないか? 「合意の倫理では把握できない」(後出)事例だ。
◆エチオピアのユダヤ人救出 ―― イスラエルはユダヤ人を優先して空輸した。カント流でいけば全難民のくじ引きしかないが、イスラエルは不平等な差別的行為だと非難はされなかった。他国から「同胞」意識が受け入れられたのではないだろうか? 「同胞に感じる誇りと恥、連帯の要求は、われわれの道徳的・政治的体験によく見られる特色」(後出)の一例である。
…… などだ。「忠誠のジレンマ」である。
〓〓公的な謝罪と補償、歴史的不正に対する共同責任、家族や同胞がたがいに負う特別な責任、仲間との連帯、村やコミュニティや国への忠誠、愛国心、自国や同胞に感じる誇りと恥、兄弟や子としての忠誠、そうした事例に見られる連帯の要求は、われわれの道徳的・政治的体験によく見られる特色だ。そうした要求なしには、生きることも、人生の意味を理解することも難しいだろう。
だが、道徳的個人主義の論法でそれらの要求を説明するのも、同じくらい難しい。合意の倫理では把握できないからだ。そうした要求はわれわれの責務のうえに成り立っている。物語る存在、位置ある自己としてのわれわれの本性を反映しているのだ。
そうしたことのすべてが正義とどのようにかかわるのか、疑問に思えるかもしれない。その疑問に答えるために、そもそもこの方向にわれわれを導いた問いを思い出してみよう。われわれはこれまで、人間の義務と責務はすべて意志や選択に帰することができるか、解明しようとしてきた。私は、できないと主張してきた。われわれは、選択とは無関係な理由で連帯や成員の責務を負うことがある。その理由は、物語と結びついており、その物語を通じてわれわれは、自分の人生と自分が暮らすコミュニティについて解釈するのである。〓〓
「その物語を通じてわれわれは、自分の人生と自分が暮らすコミュニティについて解釈する」。またも脱帽だ。余計な講釈は不要で無用だ。
哲学は彼岸の学問ではない。だからまぎれもない此岸で、サンデル教授は語る。「知の興奮」は生の興奮に直結するからだ。
さて、教授に成り代わって僭越ながら、「あー、そこの君はどう読む?」 □