伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

錦旗も印籠も要らない!

2010年10月28日 | エッセー

 人民裁判とは、社会主義国で行われた反革命、反動分子に対する裁判をいう。人民集会が開かれ、人民の名のもとに法に拠らず刑罰が決められた。革命裁判ともいうが、つまりはリンチである。剥き出しのルサンチマンと敵意、それに少なからぬ嫉妬が綯い交ぜになって集団心理が暴走した。魔女狩りにも似た集団ヒステリーの露骨な狂騒であった。心理学に属す事柄ではあるが、太古からの忌むべき人間心理と行動であろう。

 弁護士で元参議院法制局第3部長であった播磨益夫氏が、朝日新聞に「強制起訴制度 三権分立外れ、違憲では」と題して提言を寄せていた。(10月26日「オピニオン ―― 私の視点」)要旨は以下の通りである。
①国家権力の行使に当たる強制起訴制度そのものに違憲の疑いがある。
②基本的人権の保障を踏まえてもなお百%有罪であると確信するから起訴する。
③起訴は国家権力である行政権の行使であり、検察による起訴権限の乱用は最終的には内閣の責任である。
④同じ行政委員会である人事院は内閣の所轄下にあるなど、行政権行使について最終的責任は内閣が負う。
⑤検察審査会は内閣から完全に独立した行政委員会となっているので、起訴権限を乱用しても、内閣が責任をとり得ない無責任な制度である。
⑥今回の小沢氏に対する強制起訴議決は、疑いのある人は百%有罪の確信がなくても裁かれるべきだとする論理である。
⑦審査会の議決を勧告的性格にとどめ、法的拘束力のなかった改正前の規定に復元すべきだ。
 まったく異論はない。我が意を得たりである。
 行政委員会とは国及び地方公共団体の行政部門に属しながらも、独立性を保ちつつ特定の行政権を行使する行政組織である。人事院、公正取引委員会、国家公安委員会、公害等調整委員会、公安審査委員会、中央労働委員会、運輸安全委員会などである。中には、立法機能や司法機能に準ずる役割をもつものもある。検察審査会もその一つである。社会の複雑化にともない行政需要が増える。しかし時の行政府から距離を置くべき分野もあり、各種の行政委員会が生まれた。
 ① に関しては、まず一般に行政委員会の合憲性が問われる。なぜなら、一見行政府から離れているとみなされる組織が行政権を行使するからだ。ひとつは、内閣が行政委員会の委員任命権や予算権を握っていること。そして憲法65条は「行政権は、内閣に属する。」と述べ、「すべての行政権は」とはいっていない。つまり内閣がすべての行政権を持つよう求めてはいない。行政権の帰属を限定していないことが挙げられる。ほかに行政権を持つ存在を認めていると捉えられる。
 その上でなお播磨氏は、人権に直接関わる起訴権限をも行政府の外に委ねることに憲法上の疑義を呈する。実はここが最大のボトルネックである。三権分立のチェック・アンド・バランスが十全に働くかどうか。③ ④ ⑤ と関わってくる。別けても、問題は ⑤ である。「内閣から完全に独立した行政委員会となっている」の部分だ。
 検察審査会法第3条には「検察審査会は、独立してその職権を行う。」とあるのみで、「独立」とは何からの独立であるのか記されていない。指揮権の規定もなく、所轄官庁も一向に要領を得ない。まさに「内閣が責任をとり得ない無責任な制度」である。これでは、三権以外に別途の行政権(起訴権限)が存在することになる。したがって、「三権分立外れ、違憲では」との疑念が生ずるのだ。

 そして、② と ⑥ である。② は最も重要な原則だ。単に精神的な意味合いではなく、厳重に検証された証拠の上に「確信する」ゆえ起訴に及ぶ。リヴァイアサンたる国家権力の行使には慎重のうえにも慎重を期さねばならない。当然の原理原則だ。ところが、⑥ 「確信がなくても」という驚天動地の倒錯が起こっている。鞣(ナメ)していうと、『確信がもてないから、裁判で黒白つけよう』ということだ。これは、「出るとこへ出よう」とはまったく違う。『出る』に値するかどうかの判断の問題である。『出して』しまったら、つまり公訴の提起によって刑事被告人となる。推定無罪とはいえ、非常に大きな法的トポスの変更を強いられる。基本的人権に軛を嵌める結果となる。
 政治家の場合、結審まで被選挙権はそのままとはいえ、政治的ダメージは尋常ではない。レーム・ダックとなるかもしれぬ。となれば、選出した有権者の意志はどうなるのか。無罪で結審したら、誰が責任を取るのか。籖で選ばれた名も知れぬ審査会委員か。所轄していない法務大臣か。当然、検察庁は責めを負わない。
 なによりこの制度は、千人の真犯人を逃すとも一人の冤罪者を生まないとの鉄則に悖る。『法外の法』とでもいえようか。
 09年、検察審査会法は大幅に改定され、独自の強制起訴が可能となった。同年、「裁判員制度」もスタートした。いずれも司法の市民化が錦の御旗とされた。
 括っていえば、検察審査会は「違憲の疑い」があることをもって「法に拠らず刑罰が決められた」人民裁判に限りなく近いといえまいか。また、市民参加を錦の御旗にすることをもって「人民の名のもとに」「剥き出しのルサンチマンと敵意、それに少なからぬ嫉妬が綯い交ぜになって集団心理が暴走した」人民裁判に準(ナゾラ)えられないだろうか。錦の御旗はお為めごかしであるやもしれず、ために思考停止となりかけがえのない原則、鉄則が失われないとも限らない。だから、⑦ に諸手を挙げて賛同したい。

 平成の世になってまでも、錦旗に恐れ入っていては後世に嗤われる。幕末、鳥羽伏見に翻った御旗は倍する幕府軍を萎えさせ、将軍慶喜を敗走させた。大久保利通、品川弥二郎、岩倉具視の共作らしい。時代のうねりともいえるが、その智謀には舌を巻く。今度ばかりは、其の手は桑名の焼き蛤といきたいものだ。

 さてその御旗だ。金科玉条といってもいい。人をして思考停止を強いる御老公様の印籠でもある。どんな悪代官をも一発で屈服させてしまうかの印籠について、内田樹氏がおもしろい分析をしている。
■水戸黄門が自分では「印籠」を出さないのはなぜか、それについて考えたことがありますか。それは徳川光圀自身が印籠を取り出して「控えい」と怒鳴っても、たぶんあまり効果がないからです。これは助さん格さんがやってはじめて有効なのです。この二人は「虎の威を借る狐」ですから、実のところどうして水戸黄門が偉いのか知らない。「でも、みんなが『偉い人だ』と言ってるから……」という同語反復によってしか主君の偉さを(自分にさえ)説明できない。でも、子どもの頃からそう教えられてきたので.服従心が骨肉化している。この彼らの「どうして偉いのか、その根拠を実は知らない人に全面的に服従している」ありように感染力があるのです。印籠そのものには何の政治的効果もありません。でも、「助さん、格さん、その辺にしておきなさい」という命令に忠犬のように服従するそのありさまには感染力がある。「虎だ、虎だ」と言い立てると、「虎」のように見えてしまう。
 「ここにあらせられるは前の副将軍」という一方的な名乗りを裏づける客観的な証拠は、実はどこにもない(葵のご紋の入った「印籠」なんていくらでもフェイクが作れます)。そして、その何の根拠もない名乗りを信じることが自分の不利益であるにもかかわらず、ワルモノたちはたちまちその名乗りを信じてしまう。基礎づけを示さないまま、いきなりひれ伏すことを要求する人間を前にしたときに、どうしていいかわからない。それはまさに彼ら自身がやってきたことだからです。■ (新潮新書「日本辺境論」から)
 「感染力」は「虎の威を借る狐」の「全面的に服従しているありよう」から生まれる。実に鋭い。『オレは虎だ』といえば、『証拠を見せろ!』となる。展開は袋小路に入るやもしれぬ。変装だって、印籠のフェイクだって簡単だ。必要なのは虎であるかどうかではなく、「威を借る狐」の存在だ。
 だから「感染力」を防ぐには、面倒でも「一方的な名乗りを裏づける客観的な証拠」を問わねばならない。件の審査会も同様ではないか。「客観的な証拠」、存在価値そのものを、自らの手で冷徹に探らねばならない。マスコミが「狐」に化けない保証はないからだ。
 「何の根拠もない名乗りを信じることが自分の不利益であるにもかかわらず、ワルモノたちはたちまちその名乗りを信じてしまう」のはなぜか。「それはまさに彼ら自身がやってきたことだから」である。ここも唸る。「名乗り」を翳してしか生きてこなかったワルは、より大きな「名乗り」には途端にひれ伏してしまうのだ。自分の畑で、野壷に嵌まるのである。一種の戯画であり、それが観る者にカタルシスを与えるのかもしれない。だからマンガを脱するには、『名乗りの連鎖』とも呼ぶべき弊習を断ち切らねばならない。難事ではあっても、己の屹立を目指すに如(シ)くはない。
 ともあれ、装いを変えた人民裁判。時代逆行の愚は避けたい。印籠も、錦旗も歴史の遺物のままでいい。
(本稿は小沢氏擁護の意図はまったくない。第一、小沢氏の政治理念、手法、事績には毫も評価すべきところはない。政治マターではなく、制度そのものについて述べた。) □