今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

私がまわる会津若松

2007年08月30日 | 小笠原氏史跡の旅

雨の裏磐梯の宿を午前10時にチェックアウトして、その足で帰ると帰宅が早すぎる。
なので会津若松に出ることにした。
会津若松と言えば、一般的には”戊辰戦争の白虎隊”の地だろうが、私にとって小笠原家ゆかりの地のひとつ。
なぜなら、そこは小笠原流礼法の大成者である小笠原長時(室町末期の信濃守護)終焉の地であり、研究半分で「小笠原氏史跡の旅」をしている私としては、ぜひその墓参をしたい。

若松駅で旅荷をロッカーに預け、レンタサイクルを借りようとしたら、降水確率で雨になりそうだからと言って貸し渋られる(予報士の判断としては、この空模様では本格的な雨にはならないのだが)。
なので駅前から出ている市内周遊バスに乗った。
ところが、この周遊バス、他地域のコミュニティバスと同じで、停留所がやたら多く、ものすごく時間がかかる。
しかも降りたいバス停でいうと反対廻りの便なのでなおさら。
後悔先に立たずだが、「慶山入口」で降りて、バス停数個分を歩く。
慶山のバス停をすぎて大龍寺に到着(白虎隊の墓と武家屋敷の間にあるのだが観光客はいない)。
境内に入ると、左手に「小笠原長時と室・息女の墓」と立札がある。
その真後ろ、意外に古びていない立派な2つの墓がそれ。
線香の跡と枯れた花があった。私はまたしても(毎度のこと)花を持参せず。
せめても線香代にとコインを両墓に置いてきた。

つぎは南の天寧寺。
ここには近藤勇の墓がある。
こっちは完全な個人的興味で、土方歳三を皮切りに新選組など佐幕派の跡も追っている。
ポケットパソコンMioのGPSナビによると、バス道を通らなくても、山側の細い道伝いに行った方が近い。
Mioのナビを頼りに、愛宕神社の参道を横切り、細い道を進むと舗装でなくなってくる。
墓地に出くわした所で、道は完全な土の山道(レンタサイクルでは無理だった)。
登る方の道は廃道みたいなので、下る方の道をとると正伝寺という手前の寺に出てしまった(つまり墓地は正伝寺の)。
登り直して、「近藤勇の墓」という道標をたよりに、山道を登ると、墓の案内板があり、近藤辞世の漢詩の碑があり、その奥に立派な墓が建っている。
その脇には、近年、地元のライオンズクラブの人たちが建てた土方歳三(会津藩のためにこの地で戦った)の供養塔が並んでいる。
近藤の墓は、三鷹の竜源寺(胴体が埋葬)と板橋にあるが、ここは頭部が埋っているという(異説あり)。
少なくとも建立時期は一番早く、生前に土方が墓参した唯一の墓。
「貫天院殿純忠誠義大居士」という近藤の生きざまそのものの戒名によって斬首された勇の霊も少しは浮かばれよう。
長時の墓と異なり、こちらは献花も真新しく、新選組ゆかりの地には必ずある墓参者が書き記すノートも数冊分たまっている。
私が去る時にも、父娘連れがやってきた。
新選組は会津の人たちには人気ないと思ってたが、今では他の地と同様な人気らしい(新選組ファンが全国からやってくるともいえる)。
今では、4月25日の命日には供養祭も行われるという。

墓を後にして、天寧寺の本堂に近づいた時、「豊津南高梅」なる札があり、脇に「福岡県立 豊津高等学校」と書いてある。
福岡の豊津といえば、われらが”小笠原藩”ではないか。
「なぜここ会津に豊津高校が…」と解せないまま、更に下り、境内の案内として「萱野権兵衛父子の墓」の説明板があった。
それを見ると、会津藩敗戦の責をとり自害した萱野権兵衛の次男、郡(こおり)長正は明治3年に会津から豊津小笠原藩の藩校育徳館に留学した(なぜそんな遠くへ?)。
郷愁を母に訴えた手紙の母からの返事を同輩たち見られ、面前でののしられた。
長正はそれを苦に切腹したという。
ある意味立派に士道を貫いたが、夫と息子を亡くした母の心境はいかばかりか。
この話、そういえば昨年出張で行った福岡県豊津町の図書館で、地元の人が書いた本に載っていた。
豊津には小笠原流礼法の資料を探しに行ったので、このエピソードはその場で読んだだけだったが。

今会津若松に来てみると、長時とは別の会津と小笠原の縁として意味をもっていることが分かった。
その藩校の後裔である豊津高校から記念樹ということなのか。
それならば長正の墓に手を合わせないわけには行かない。
墓地への坂を登り直して、汗だくになりながら、きれいに管理されてはいるが参拝者の形跡は乏しい郡長正の墓前に達した(写真)。
献花も線香もないまま、彼の無念(母の無念も)を少しでも慰めたく、ただ手を合わせた。

実は会津と小笠原との関係はこれだけではない。
長時がこの地でどれほど礼法を広めたかは、まったく不明だが、江戸時代にはいって藩校などで小笠原流礼法が教えられ、また奥の只見地方でも小笠原流礼法の巻物が残っている。
葦名氏と同時期の小笠原長時の足跡はほとんど忘れられているが、武士道を重んじる風土ゆえか、ここ会津には確かに小笠原流礼法が残っている。
県立博物館には、その巻物の展示はなかった(鶴ヶ城には昔行ったのでオミット)。
隣の図書館にいって「只見町史」を探したら、資料編に小笠原流礼法の書が少しだけ翻刻されていた。
それをコピーできたのは「小笠原氏史跡の旅」として成果。
結局、雨らしい雨は降らないまま、タクシーを拾って駅に戻った。