今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

不動明王に祈る

2021年02月20日 | パワー・スピリチュアル

どうやら自分は不動明王とご縁があるらしい。
自分の身体条件で行ける山が高尾山と丹沢の大山に絞られているのだが、両山とも不動様の霊山だし、そもそもわが東京宅は、向ヶ丘の目赤不動(江戸五不動の1つ)と谷田川の不動に挟まれた(不)動坂にある。

そして自室にAmazonで購入した不動三尊像(不動明王・コンガラ童子・セイタカ童子の三尊。作家作品)を置き※、毎日手を合わせている。
仏像(フィギュア)コレクターでもある私は、不動三尊の真後ろに大日如来、左右の斜め後ろに降三世明王と軍荼利明王を配置している。

せっかくなら、きちんと念誦しようと思い立ち、数珠を購入した。
数珠は108個の珠から成っていて、念誦の回数を数えるのに使う。

本来の念誦は、不動明王の真言(ノウマク サンマンダ バザラダン センダ マカロシャダ ソハタヤ ウンタラタ カンマン)を千遍唱えるのだが、まずは練習として百遍すなわち数珠一周分(正確には108遍)やってみた。
問題ない。

翌日の今日、五百遍に挑戦してみた。
数珠五周分。
上の真言を間断なく数百回もくりかえし唱えていると、その行動がシステム1の自動運動に移行し、暇になったシステム2が別のことを考え出してしまう。
よくいえばルーチンワーク化して苦もない”作業”となるのだが、これでは祈り行為でなくなる。

そうなってしまう理由の1つが、自分にとって無意味な音にすぎない真言のせいだ。
真言の単語ごとの意味を理解せずに、丸暗記してしまった。
だから自分でも訳の分からない呪文を唱えているのに等しい。
いやむしろ、滑舌の練習にすぎなくなっている。

密教の行は”三密”で、身・口・意が融合していなくてはならない。
身は本来は手による印だが、今は数珠を繰る動作。
口は真言を唱える。
だが意(システム2)が真言と離れてしまう。

これではいけないと思い、五百遍に達したところで、一旦終了し、真言の逐語訳を参照した。
手元にある『真言宗在家勤行講義』(坂田光全著 東方出版)によると
ノウマク(帰命する) サンマンダ(あまねく) バザラダン(諸々の金剛) センダ(暴悪者よ) マカロシャダ(大忿怒者よ) ソハタヤ(摧破せよ) ウンタラタ(忿怒の聖語) カンマン(不動尊の種子)となる。
そしてテキストの意訳をさらに簡略にすると「すべての金剛に帰命したてまつる。暴悪・大忿怒の相を示す明王よ、煩悩諸魔等を摧破せよ」という文になる。
なので、「ノウマク、サンマンダバザラダン。センダ・マカロシャダソハタヤ、ウンタラタカンマン」と区切って(忿怒部分に力点)、その”意”を心に浮かべながらあと五百遍唱えることにした。
ということで、後半の五百遍は念誦できたといえる。

念誦の間、Amazonで買った不動三尊を見つめながら唱えるのだが、その像はお寺で”開眼”をしていない良く言っても”美術品”。
私は仏教は偶像崇拝教ではないと思っている。
目の前にある仏像は、単なる造形であるが、それは仏をイメージ化した模像(イコン※)である。
※イコン(icon):原義はキリストの聖画像

仏像(icon)は仏そのものではない。
仏の在り方を可視化したものであり、それを見つめることで(目を閉じずに)仏を観想できるのだ。
物としての仏像は火事に遇えば焼け焦げるし、それでなくてもいつかは朽ちる。
だがそこに仏のなんたるかが視覚的に表現されている(文字表現の教典に対応)。
仏の本体は物質的な存在者ではなく、法(ダルマ)であるため、本来不可視なのだ(存在者を可能にする”存在”が不可視なように)。
人間は視覚情報が重要だから、可視化された仏像を通して、仏を観じ、そして仏に対して拝礼をする。
不動明王などの諸仏(明王や菩薩も含める)は、法の部分集合(一定のまとまり)といえ、忿怒の表情は大慈悲の部分集合である。



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