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京都:小笠原氏史跡旅5

2020年03月05日 | 小笠原氏史跡の旅

 京都での小笠原氏

2006年4月

小笠原氏は京の都にも足跡を残している。
初代小笠原の長清(1)は、元服後は京に居て、当時権勢だった平家一門の平知盛に仕えていた。
また後年、清水坂の下に長清寺を建てた(自分の名前の寺を建てるのか?)
嫡子長経(2)は六波羅で生まれ(つまり長清が六波羅に居住)、六波羅探題の評定衆となった。
その子長房は長清の養子となって阿波国守護となり、三好氏の祖となった(つまり小笠原家最初の守護は阿波国)。


小笠原貞宗

しかし京に現存する足跡を残しているのは貞宗(7)である。
伊賀良・開善寺の項で触れたように、小笠原流礼法の創始者といえばこの小笠原貞宗(写真この肖像は唐津の小笠原記念館在)。
貞宗は鎌倉幕府滅亡から室町幕府成立までの戦乱を、同じ清和源氏の足利尊氏とともに行動した。
その結果、貞宗は小笠原家初の“信濃守護”となり、信州府中(深志)の井川を居館としたが(→松本・井川城の項)、 1344(康永3)年に信濃守護などの家督を政長(8)に譲った後は隠居して、京の四条高倉に住んでいた。

1347(貞和3)年、居館において死す。
法名「開善寺入道泰山正宗大居士」という。
伝辞世の歌:「地獄にて大笠懸を射つくして 虚空に馬を乗はなつかな」
後の家譜では「 射・御・礼の三道に達し、殊に弓馬の妙術を得、世を挙げて奇異達人と称す」(笠系)と評価されている。
墓も京都の建仁寺の塔頭・禅居庵にある。


建仁寺

京都五山第三位の建仁寺は、日本に臨済宗を開いた明庵栄西が建立した最初期の禅寺である。
後に曹洞禅を伝えた道元もここで修行した。

この両者によって鎌倉時代に日本に伝えられた禅は、室町時代になって、禅僧が最新の知識人として公家に代わるブレーンとして将軍家をはじめとして武家と深くつながった。

そのことにより、禅は礼法をはじめとする室町武家文化に決定的な影響を与える。
政治的に公家と決別した側の糾法の宗家小笠原貞宗にとっても、禅は新しい時代の新しい発想をもたらしてくれた。
貞宗にとってその禅僧とは清拙正澄(大鑑禅師)である(くわしくは次の「禅と礼法」で)。
そしてその禅師が住持を務めたのがここ建仁寺。


摩利支尊天堂

その建仁寺の塔頭・禅居庵は非公開だが、実際に墓があるのは、禅居庵の中で唯一公開されている摩利支(尊)天堂という、そこだけ入口が別で参詣者が自由に(フリーで)出入りできる所(写真)。
ここ摩利支天堂は、禅の修行場とは別の、民間信仰の場となっている。

実は貞宗も摩利支天を信仰していた。
摩利支天とは、観音菩薩が人々を救うために姿を変えた応化身の一つであるが、武家の間で武の神とされていた。
貞宗は、鎌倉幕府滅亡・南北朝の動乱で活躍する武将の一人であり、さまざまな戦さに参戦している。
だから武の神の守護を期待して験を担ぐという気持ちも強かったろう。

小笠原家の礼書『仕付方萬聞書』には、「十月のいのこを祝ふ事…中略…猪は猛獣なり。摩利支天の使者と云。其上、子を繁昌するもの也。武家に祝うべきもの也」とあり、
摩利支天自体より猪の方が信仰の対象になっていた観がある(稲荷信仰の狐と同じ)。

ちなみに、小笠原氏の故郷甲斐の巨摩(こま)郡にそびえる甲斐駒ケ岳は、その南面に「摩利支天」という怪峰を従えている(木曽御嶽の摩利支天山も、最高峰剣が峰に次ぐ高さの衛星峰である。これら摩利支天は本峰の守護神という意味だろうか)

そしてこの建仁寺に入った歴代渡来僧のうちで最高格の清拙正澄(大鑑禅師)も、偶然摩利支天を自身の守護神としていた。
まずはこの摩利支天が貞宗と清拙正澄の縁を取り結んだようだ。
ここ建仁寺禅居庵の摩利支尊天堂こそ、まさに両者の結縁の場であり、貞宗が開基・清拙正澄が開山となっている(1329年)。


貞宗の墓

その摩利支尊天堂に貞宗が眠っているという(故郷信州にも供養塔らしき墓があるが)。
ただし案内板などはない。

受付けのおじさんに尋ねたら、裏手の墓地にあるというので行ってみた。
墓地といっても1部屋くらいの狭さ。
しかもほとんどが歴代住職の卵塔。
でも奥に石鳥居のついたやけに立派な五輪塔がある。
これぞわれらが貞宗公の墓。

ここの墓参りが目的で京都に来たので、途中の縄手通りで仏花を2束購入してきた。
墓の左右に花を献じて合掌し、膝まづいた姿勢で目の前の大きな五輪塔を見上げる(写真)。

塔は650年を経て摩耗はしているが今でも風格があり、小笠原貞宗という存在の歴史的な重みをにじみ出している。
日本最古級の禅寺にこうも厚く葬られている貞宗公はやはり相等な人物であったはず(摩利支尊天堂だけでいえば小笠原貞宗が開基だから当然)。
合掌しながら「あなたの価値をもう一度世間に広めます」と心に誓う。

貞宗の墓の隣に、同じ材質の石で形の変わった塔状の墓がある。
気になったので受付けに戻っておじさんに尋ねると、ここの開山の墓だという(写真)。
ならば貞宗が厚く崇敬し禅を学んだ清拙正澄(大鑑禅師)の墓ではないか!
二人の墓が仲良くならんでいることは、やはり言い伝えのとおり二人の生前の深い親交の証しだろう。

貞宗が新たに武家礼法を構想できたきっかけは(弓法を知っていたからでもあるが)、禅の作法である清規(しんぎ)を日本に伝えた清拙正澄の影響があったからだ。
この関係を否定する(公的証拠がないと、保留ではなく否定してしまう)学者もいるが、いずれ私が作法(礼法と清規)の内側から実証してみせる。

公の三十三回忌は建仁寺禅居庵で清拙の弟子天境霊致を拝請して営まれたという。
また貞宗は建仁寺禅居庵に長清碑を建てたという(未確認)。
堂にもどって本尊の(正澄も貞宗もともに信仰していた)摩利支天を拝み、貞宗公にあやかるつもりで、摩利支天の使いである猪の置物と御影札とお守りを買った。
小笠原流礼法にとって最重要者の墓参ができて大満足。


以降の小笠原氏と京都

ちなみに貞宗公以降も小笠原氏との京都との関係は続く。
貞宗の後では、長秀(10)が1392(明徳3)年、義満創建の相国寺落慶供養で先陣隋兵の一番を勤めた。
また長秀の兄長將の子持長(12)は深志で惣領職を主張する(→伊賀良)前は、京にいて将軍の奉公衆だったともいう。

持長だけでなく、小笠原氏には足利将軍の近習の家系がいた。
それを便宜上、「京都小笠原氏」といい、貞宗の弟貞長が祖である。
この家系は長高を経て孫の氏長から備前守となる。
その子満長を経て持長の時、1430(永享2)将軍義教の"的始め"で剣を下賜される
(この持長民部少輔は惣領家の持長民部太夫(12)と同時代の同名人物なので、事跡など混同されがち。
『射礼私記』はこちら持長の著。あるいは同一人物?)。
この時将軍の弓術師範となっていたらしい(満済准后日記)。
その子持清は1442(嘉吉2)年将軍義勝の弓術師範となる。

以上のことから、研究者の二木謙一氏は“小笠原流礼法”の本家は京都小笠原氏だという。
そして元長、元清と続いて応仁の乱を迎える。
乱後、幕府が衰微すると、元続は小田原北条氏に仕えるようになる。

その小田原北条氏だが、初代北条早雲(伊勢宗瑞)は小笠原元長(元続の祖父)の娘を妻に迎え、彼女は北条2代目氏綱の母となる。
そして早雲自身、伊勢氏の出であり(彼自身は備中の伊勢分家出らしいが、京都で幕府の申継衆(取次役)をやっていた)、妹を駿河の今川家にやり、自分も一時期今川に仕えた(また今川義元の子氏真は3代北条氏康の娘を妻にし、後氏康を頼る)。

『三議一統』が記すように、小笠原・伊勢・今川が当時の三大礼式家であったなら、小田原北条氏はその三家の礼法を統合できる位置にあったといえるのでは…(司馬遼太郎も早雲を主人公にした『箱根の坂』で同様な事を述べている)。
尤も、戦国時代の当主は小笠原総領家がそうであったように、戦乱を生き残るのに必死で、礼法どころではなかったろう。

戦国の世になると、まず長時(17)が1552(天文21)年、建仁寺禅居庵の摩利支天に戦勝を祈願した。
しかし願いかなわず信濃を追われた長時は1555(弘治1)年、同族三好長慶を摂津に頼り、将軍義輝の糾法指南をしたという(→会津)。

その子貞慶(18)も父とともに京そして越後に同道したが、1580(天正8)年から父と離れて京都に戻り、「洛陽に家を為し、公武の儀ともに相改む」(溝口家記)という(私は、貞慶はこの期間に最新の儀礼故実を吸収したとふんでいる)。

その嫡子秀政はすでに1569(永禄12)年宇治山田で生まれ、1576(天正4)年、京都五条の本国寺で手習い読書を学び、豊臣秀吉と懇意になり、聚楽第に5年住んだという(秀政の秀は秀吉からもらう)。


引用文献
二木謙一『中世武家儀礼の研究』吉川弘文館

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