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山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

禅と礼法:小笠原氏史跡旅6

2020年03月05日 | 小笠原氏史跡の旅

 礼法誕生秘話

1.清拙正澄

貞宗が出たついでに、小笠原流礼法の間接的立役者というべき渡来僧大鑑禅師清拙正澄(1274-1339)の足跡を追ってみよう。
彼は元の時代の儒家の出であるという。
この出自が清規という礼式に親しんだポイントかもしれない。

1326(嘉暦1)年招聘を受けて来日し、博多の聖福寺に入る。
まずそこで会ったのが同じ貞宗でも九州の武将大友貞宗。

翌年、時の執権北条高時に迎えられ鎌倉建長寺(禅居庵)に住す。
この頃小笠原貞宗(幕府方御家人だった)が帰依したという。

鎌倉円覚寺に三年いて、1333(正慶2)年、幕府滅亡時に後醍醐帝により建仁寺の禅居庵へ招かれる。

そして1335(建武2)年貞宗の招きで信州伊賀良の開善寺へ。
開善寺には清拙正澄の肖像(頂相)がある。
1338(延元3)年京都に帰る。
建仁寺禅居庵を退院するも南禅寺へ再任。
1339(暦応2)年1月17日、奇しくも百丈忌(最初の清規を制定したという百丈慧海の忌日)の日に遷化。
この時の貞宗との親交の深さを物語る伝説もあるが略す。
彼は我が国最初の清規となる『大艦清規』を著した(1332年)。
まさに小笠原流礼法の貞宗に対応する。

聖福寺

栄西が建てた博多にあるこの寺こそ日本最初の禅寺。
来日した清拙正澄がまず入った寺がこの由緒ある聖福寺という。
また唐津の近松寺(→豊前唐津)の開祖となった湖心禅師もここの出身という。
このように小笠原氏とゆかりのある寺なので、「唐津の旅」の帰りに立寄った。
といっても修行道場なので広い寺域の各塔頭(たっちゅう)には入れない。

建長寺・禅居庵

鎌倉五山第一位の建長寺は、1253(建長5)年渡来僧蘭渓道隆の開山による、臨済宗建長寺派の総本山。
いまでも広い寺域に多くの塔頭をもっている。
といっても塔頭は修行道場だから原則非公開。

伝説であるが、建長寺の禅居庵に清拙正澄大鑑禅師が住んでいた時、貞宗は禅師に帰依して、摩利支天の尊像を作って、側の一堂に置いて礼拝したという。
そして出陣前(この頃は幕府側)に禅師に請うてこの像を拝受し、小さな厨子に入れて陣中に携えたという。
現在ここは、その摩利支天を本尊とし、貞宗の木像もあるという(非公開)。

建長寺の禅居庵は建長寺本体とは道路をはさんだ反対側にある。
しかしここも修行場のため立ち入り禁止で、門しか拝めない(写真:秋の宝物風通しの時でも)。
建仁寺の禅居庵も非公開だし、清規を学ぶ所は観光客を入れないのだろう。


2.禅と礼法 との関係

貞宗と清拙正澄は摩利支天信仰によって縁ができたが、長年続いた両者の親交によって、二人とも深いレベルでの触れ合いも可能だったはず。
歴史家は(当時の無教養な武士の)貞宗が清規を参考にして礼法を作れるわけがないと、無下に否定するが、
幕府の招聘で清拙正澄が来日した目的は、日本に清規を伝えることにあるわけだから、彼に帰依する大名クラスの武士(しかも所作の法の家元)に「威儀(作法)即仏法」という清規の精神を語らない方がおかしい。
貞宗が禅師ゆかりの清規の寺・開善寺を、子孫に未来永劫にわたり菩提寺とさせたのも、清規を礼法の思想的根拠としたからこそだろう。

貞宗公と禅師との次の対話が伊賀良の開善寺に残っている(『開善寺史』)。
「公、禅師に問いて云く、宇宙騒乱心王いまだ安からず、いずれの所にか安心立命し去らん。
師払子を竪起す。公云く、不会。師叉云く、一張の弓射乾坤を倒す。公言下に会う所有り」

「一張の弓射乾坤を倒す」とは、「お前の弓法(糾法)こそが、社会的にも心理的にも平安をもたらすものではないのか」という禅師からのメッセージであり、貞宗は師の言でそれを感得したというわけだ。
「威儀即仏法」という視点に立てば、糾法、すなわち戈(ほこ)を止めるという意味の”武”術およびその日常での応用としての礼法(威儀)の存在意義は当然納得できたであろう。

後世の『笠系大系』では、 貞宗は常に大鑑禅師の室に入り、弟子の礼を執って深く禅に帰依し、禅の妙理に達して、打切・桜狩・手綱潅頂の鞭等の馬術を工夫したと記してある。

一方、元禄時代の『大鑑禅師小清規』に、「小笠原家礼というは、想うに禅規の俗所を掩(おお)うと為す」とあり、禅側でも小笠原流礼法との関係を認めている。

実際、和食の作法には禅の清規が強く反映されているし、そればかりか、禅の”茶礼”が茶の湯(茶道)に発展するなど、禅寺での所作は(小笠原流以外にも)幅広く作法の根拠として広がっていった
(禅僧がもたした朱子学も、婚姻の儀式などを中心に武家礼法に影響していく)。
禅は馬術よりも日常の礼法にこそ影響を与えやすいのは容易に理解できよう。

中世武家礼法における禅清規の影響(もちろん禅だけが礼法の影響源ではないが)については、清規の作法学的分析を通して、いずれ明らかにする予定。

では貞宗は礼書を書いたのか。
小笠原氏の分家の赤澤氏にはその言い伝えがある。


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