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山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

下総関宿・国府台 :小笠原氏史跡旅18

2020年03月07日 | 小笠原氏史跡の旅

 小笠原氏最大の墓石

政信ー貞信
2006年3月、2007年5月

千葉県は四方が突端になっている。
南の突端は房総半島が太平洋に突き出た館山野島崎。
東の突端はやはり太平洋に突き出て地球の丸みがわかるという銚子犬吠埼。
西の突端は東京湾に突き出た富津岬。
そして北西の内陸にも突端があり、茨城県と埼玉県の間に深く入り込んだ半島状の陸地が利根川と江戸川の分岐点で岬となっている。
ここが関宿せきやど現在は野田市)。
この地勢上の特徴は軍事的にも重要ポイントとなり、また水運の拠点として交通・流通上も重要地だった。
その関宿に、江戸時代初期に移封されたのが松尾系の小笠原政信だった。


関宿城址

関宿城は、戦国時代に古河公方の重臣簗田氏が造り、古河の支城となっていたが、栗橋城とともに小田原北条氏に落ちた。
さらに1580(天正18)年の小田原の役で豊臣秀吉の軍に落とされた。
徳川家康が関東に来てからは、関東を抑える重要な地だったため、弟の松平康元が入った。

その後、1619(元和5)年古河から移封された2万2千石城主小笠原政信は、この地で関所の管理などをまかされた。
政信は古河城主小笠原信之の嫡子で、大阪夏の陣などにも出陣した。
その政信は1640(寛永17)年に死去。
政信を嗣いだ養子の貞信はまだ満9歳だった。
それゆえ、その年のうちに、幕府の命で、貞信の故郷に近い美濃高須へ転封になった(関宿城博物館内の展示では「貞信は1691年に関宿から勝山に移る」となっているが、それは高須からの転封の年)。
すなわち小笠原氏が関宿に居たのは20年ほどの年月。

関宿城はその後、江戸城の富士見櫓を摸した天守閣が作られた。
今の県立関宿城博物館がそれを再現している(写真:関宿城趾から再現された天守閣の博物館)。

関宿は江戸時代になって河岸・宿場町として栄えたが、明治になると水利がよすぎて鉄道網から敬遠され、水運の衰退とともに町も衰退していく。
位置的ハンディから、現在でも首都圏の通勤圏には入れず、南の野田市に合併された。

ここに行くには上述した通り、鉄道からは遠い。
博物館行きのバスが東武野田線の川間駅からあるが、バスの本数が少ない上に、川間までが乗り換え面倒。
むしろ東武伊勢崎線の東武動物公園駅から30分ごとに出ている境車庫行きバスなら、「新町」で降りて10分ほど歩けばよい。
私は栗橋城趾(→古河)を見学し、そこから5kmほど歩いて達した(2007年)。
博物館の最上階からは江戸川と利根川の合流部が見え、それらの川に区切られた茨城・埼玉・千葉三県の風景が広がる。
本物の関宿城趾は、博物館から5分ほど旧江戸川沿いの堤防を南下した林の中に碑がある。
博物館の北・西側は公園になっていて、休日はピクニック気分の人たちでにぎわっている。


総寧寺

政信とその翌年に死んだ妻は、ともに関宿にあった曹洞宗の総寧寺に葬られた。
ただ小笠原氏本来の菩提寺は開善寺であり、関宿にも開善寺を建てたというから、この寺は城主小笠原政信個人の菩提寺になったようだ(その理由は不明。宗派の違いも関係あるのか)。
そして総寧寺は、1663(寛文3)年、四代将軍徳川家綱により下総の市川国府台(こうのだい)に移された。
その地に広大な寺域を与えられ、非常に格式高く遇された。

下総の国府があった国府台は、戦国時代には房総進出をもくろむ小田原北条氏とそれに抵抗する安房の里見氏との2度にわたる合戦の場となった。
その里見氏の居館の趾が里見公園として残っている。
桜の名所で、私も小学校低学年の時遠足に来た覚えがある。
総寧寺はその里見公園の隣で、京成線の各駅停車で江戸川を渡れば国府台駅に着く。

政信夫妻供養塔

総寧寺移転とともに、小笠原政信夫妻の墓も一緒に移された。
すなわち政信夫妻の墓は彼らが生前居たことのない国府台にある(写真)。
巨大な五輪塔は台座を含めて高さが4.25mもあり、関東屈指の大きさという(鎌倉極楽寺の忍性の墓に次いで2番目とも)。
たしかに巨大で、この「史跡旅」シリーズ(小笠原一族)中最大の墓。
市川市指定文化財になっている。

政信が没した1640(寛永17)年のうちに、美濃高須へ転封になったなら、政信夫妻の墓は転封後になって、あえて政信の死去の地に建てられたといえる。
それにしてもなんでこんな大きな墓にしたのだろう。
その後20年して総寧寺の移転に伴って、墓もこの地に移設された(移動する手間もたいへんだったろうに)。
総寧寺にとって政信はどのような意味をもっていたのか。
松尾小笠原氏は本拠地の飯田松尾から関東の本庄・古河・関宿と渡り、そして美濃の高須に飛ぶ。

ついでにここ国府台は、近藤勇と総州流山で永訣した新選組の土方歳三が、大鳥圭介らの旧幕軍と合流した所でもある(土方は総寧寺に泊ったという)。
彼らはここから北上を開始し、宇都宮・会津と転戦(→会津)、最期となる蝦夷地箱館に達する。歳三と合流してともに戦った中に、元幕府老中・唐津藩主の小笠原長行、そして彰義隊に参加した小笠原胖之助(→唐津)の二人の小笠原氏の姿があった。

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