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山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

小笠原氏史跡旅:トップ

2024年03月05日 | 小笠原氏史跡の旅

本シリーズ記事は、山根一郎のサイトに掲載されていたもの(2024年3月で閉鎖)の転載版です。
小笠原流礼法を、その家元である小笠原氏の史跡(東北から九州に及ぶおよそ21箇所)を訪ねながら、確認するものです(2005年〜2016年)。
本記事は小笠原流(惣領家)礼法を教室で学んでいる人を前提としており、礼法をより深く理解する一助としての小笠原氏の歴史紀行です。

日本史に登場する小笠原長時(武田信玄に負けて信濃支配を許す:奥州会津)、
幕末の老中・小笠原長行(肥前唐津)、さらに小笠原の中で一番有名なあの小笠原諸島の由来(三州幡豆)にも触れています。


「小笠原流礼法史跡の旅」の記事は時代の古い順(さらに総領家→分家の順)
記事の執筆時期は記事本文に記し、ブログ記事の投稿日時は順序化のための便宜上のものである。
以下に記事のインデックス(リンク)を示す。

総領家(礼法的伝の家系)明野小笠原櫛形小笠原伊賀良(飯田)伊豆木(飯田)京都
禅と礼法:貞宗と赤澤氏信州松本奥州会津下総古河播州明石前小倉豊前豊津東京
唐津家(長行を輩出)三州吉田肥前唐津
勝山家(もう一つの礼法家)武州本庄下総関宿・国府台美濃高須越前勝山
庶流幡豆家(小笠原諸島の由来)三州幡豆
年譜:小笠原氏事跡年表(csv形式)
索引:人物・城・社寺など
伝説集:小笠原家にまつわる伝説
資料・研究論文:本記事の資料と小笠原流礼法についての研究論文の紹介


概要

小笠原氏は、清和源氏の系統で、平安時代に甲斐の小笠原庄を発祥とし、
初代小笠原である長清は頼朝の推挙で信濃国司となり、やがて子孫は信州飯田に居を構え、
そこで貞宗の代(南北朝時代)にそれまでの糾法(弓馬の法)に礼法を加える。

さらに信濃守護として松本深志を本拠とするも、飯田松尾の家系と宗家の座を争い、
長時の代に甲斐の武田信玄と争って破れ、苦難の流浪(この期間が礼書成立に重要)を経て、
貞慶の代で徳川方について古河を経て、秀政の代で再び信州へ帰り、
江戸時代に入って忠真の代より豊前小倉藩主を務めた。
その後も改易されることなく幕末を迎え、長州戦争に敗れて豊津で最後の藩主となる。

小笠原総領家は 礼法家というよりも鎌倉幕府創設期の有力御家人、室町幕府時代の有力守護大名、
そして徳川幕府の信任厚い譜代大名として重きをなしていた。

その間、飯田松尾を本拠地として惣領の座を争った家系は、古河・関宿を経て、越前勝山の城主となり貴重な史料を残している。

分家となった唐津藩主からは老中小笠原長行を輩出し、幕末史に名を残した(その家からはなんと新選組隊士も輩出している)
また貞宗の頃に分家した赤澤氏も江戸時代に小笠原姓にもどって弓法・礼法家として現代に至っている。
小笠原一族はこのほかに東北の南部氏から、土佐の岩崎家、九州まで全国にひろがっている。


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