姪の手術が成功裡に終り、私の採点も順調に進んだので、息抜きとして、
東京国立博物館(以下、東博)でやっている『顔真卿(ガンシンケイ)※展』を観に行った。
※唐代の書の大家(東晋代の王羲之と双璧をなす)。
実は”書”には全く関心がないのだが、台湾の故宮博物院の秘宝が日本に出展されることが中国で問題化されていて、
しかも春節の休暇を利用して中国・台湾から大勢押し寄せるというニュースに接して、
にわかにミーハー的興味が湧いたという次第。
東博は言ってみれば私の散歩圏内だし、 空海の書も展示されるというので、
最近密教に傾いている自分が呼ばれている気がしたせいもある。
顔真卿は高校世界史での記憶しかなかったが、
この目で王羲之の書と見比べることができたのはよかった。
とにかく現代の楷書のベースとなっている書体なので、
われわれ漢字文明圏の者にとっては、影響力絶大である。
彼の書風には「顔法」、その特徴は「蚕頭燕尾」(書き出しが蚕のように丸っこく、跳ねが燕の尾のように二つに分れる)と名がついている。
館内は確かに、中国・台湾人が少なくとも半数は占めている
(家族連れが多いのは、やはり春節休暇旅行か)。
なにしろ、イヤホンガイドも中国語版があるほど。
最大の見所は、甥の死を悼んだ「祭姪文稿」 の肉筆で、ここだけ行列で30分かかる。
次いで人気があったのは、同じ唐代の僧・懐素の「自叙帖」(右図:東博のサイトから)。
その大胆な草書(「狂草」 と称される)は、前衛的書ともいえる筆致で目を見張る。
最後の”日本への影響”コーナーでは、空海の書がいくつかあり、王羲之の影響を受けたものの独自性を確立した様子がみてとれる。
改めて思うのは、空海(弘法大師)って、真言宗ではまるで仏様のようにあがめられているが、かように直筆が残っている実在した人物だったのだ。
ついでに、あの懐素の影響を受けた日本人は、藤原佐理(スケマサ)という人で、
彼の草書はもはや”ひらがな”に達している。
実は、この展示を観て、内容とは別に気になったことがある。
展示物を隔てるガラスのあちこちに人が触れた跡があって、
その汚れによって作品の観覧が妨げられているのだ。
いったい誰が触るのか、観察していると、実際にガラスに指を触れている現場を3度見た。
いずれもオバサン(日本人)である。
このオバサンたちは、同性の連れとおしゃべりしながら、作品を指さして話をしている。
つまり同行者に作品について語ることが、作品の指さし行為を必要とし、
そのため指がガラスに触れるのだ。
いいかえれば、単独で来ている人や複数でも黙然と観ている人は、
指を差す行為自体をしないので、ガラスに触れることはない。
なら、ガラスの汚れはガラス越しに指さすオバサンのせいか、というと、すんなりとそうはいかない。
なぜなら、汚れの多くは、オバサンの指の位置よりは高くて私の目の下あたりだし(だから視野を妨げる)、
しかも視野を妨げるほどに面積は、指先が触れただけの跡にしては広すぎる。
つまり汚れは、オバサンの指先によるものではないようだ(指でぐるぐるなぞるなら別)。
あの高さと広がり具合からみて、おでこが触れたのではないか。
もしオバサンが、おでこにファンデーションを塗ってきて、
それがガラスに振れたなら、あの位置と面積と濃さで汚れるだろう。
おでこの位置とガラスを平気で触れる行為がその可能性を高めている。
というわけで、やはり犯人はオバサンではなかろうか
(現場を押さえていないので推測に留める)。