礼思想を生んだ本国以上に日本に「礼」が実現しているのは、中世に誕生し、近世に庶民にまで広まった「礼法」によってである。
箸を巧みに操ってきれいに食べる食事作法も、中世に完成し、現代でもほとんど変わる必要がない。
その頃のヨーロッパではだいたい手づかみで食べていて、ようやく先進地のイタリアでフォークが普及しはじめる。
作法というのは、他者に不快な思いをさせないのは大前提で、そのレベルに満足するのではなく、より洗練された動作を追究するものである。
それは動物的な欲求を全開にした仕草を否定し、スキのない美意識によって制御された、同席者に感動をすら与える所作を目標とする(茶の湯で客が亭主の点前の所作を鑑賞するように)。
それを自覚したから、中世の武家礼法は、礼法の和語である「しつけ」に「躾」と当て字したのだ。
ここまでの抽象論でもう納得してもらえたら、とてもうれしいのだが、(日常空間すべてに美の実現を求めた当時の日本人と違って)現代の日本では難しかろう。
では具体論に移ろう。
食事中に音を立てないというのは、グローバルな作法で、日本も例外ではない。
そもそも食事でなくとも、不必要な音を立てるのは他者に迷惑であり作法違反である。
世界的にみても厳しい日本の食事作法は、禅の清規(禅寺の作法)に準拠している。
禅寺では食事とて修行であるため、会話をはじめ、あらゆる雑音を立ててはならない。
食事の最後にタクワンを食べるのだが、これも音を立ててはならないのだ!
さすがに武家礼法は、食事=修行とみないため、会話などは許容されている。
だが飲食の音を立てるのは禁止されており、そのための汁を吸う時は「鼻で息を吸いながら、飲め」というコツを当時の作法で教えている(もちろん私も実践)。
ところが作法にも例外が発生する。
まず茶の湯の作法として、泡が立った抹茶を飲むとどうしても最後に泡が碗の中に残る。
表千家のように泡を立てない流派ならこの問題は発生しにくかろうが、泡を立てるのを推賞する裏千家など他の流派(小笠原流も)では、この問題は必発する。
そこで、泡を勢いよく吸って、呑み込むことにするのだが、その時どうしても吸う時の濁った音がしてしまう。
そこでその音を『飲み終わった合図」と作法の中に組み入れたのだ。
それは致し方ないのだが、そのせいで飲料を飲む時に音を立てないという本来の作法が忘れられがちになったのは残念だ。
そしてもう一つの例外がそば(麺類)。
長い麺を下から箸で持ち上げても、全部が口の中に入らない。
途中で歯で麺を切断するという方法がまずは考えられるが、そうすると、一旦口に入れようとしたものが下に落ちることになり、「口の中に入れたものを出さない」という強い禁忌に抵触する。
そこで、箸だけで食べるというこだわりを前提とした次善の策として、一挙に吸い上げて、口の中に入れてしまうという方法がある(フォークを採用したイタリアでは別の解決法がある)。
だがこうすると「音を立てない」という禁忌に抵触する。
結局、回避-回避のジレンマ状態だ。
このジレンマを解決するには、相対的に弱い方の禁忌を選ぶしかない。
人間は聴覚情報よりは視覚情報を重視する。
だから視覚的汚さより聴覚的煩さの方が許容できる。
なのでお茶の場合と同様、視覚的禁忌より聴覚的禁忌を許容することになった。
すなわち音をたてて蕎麦をすするのはOKとされたのだ。
だが蕎麦については、茶の湯のように「合図」という積極的効果は付加されなかった。
すなわちあくまで消極的許容(Badではない)であって、積極的推奨(Good)ではない。
だから、蕎麦をすするのはいいが、本来は不作法なのだから、できるだけ小さい音にするように、というのが作法的発想になる。
「そんなみみっちい食べ方だと蕎麦が不味くなる」というのは味覚的快だけを追究する”通”と称する人たちの見解であって、自身の味覚的快よりも周囲に対する上品な美を優先したい作法の発想ではない。
ちなみに、かつて私は、公立図書館の食堂で同じ卓に居合わせた若い女性のうどんを食べる所作の美しさに見惚れてしまったことがある。
本当に美しい所作は他者に感動を与えるのだ。
どうせなら、他者から見惚れられる所作をしようではないか。