時事問題を扱った社会科学系の本は、
出版されてから少し後に読むと、本当の値打ちがわかる。
予想が当たったか外れたかが判明するから。
『パラサイト・シングル』で一躍現代若者論の第一人者になった山田昌弘氏は、
『希望格差社会』(2004年)で、現代日本の”格差”の本質は、単なる金銭的な収入格差ではなく、社会心理的な”将来への希望”の格差であることを指摘した。
そして、このままだと、希望を失ない自暴自棄になった人が「不幸の道連れ」として死刑になるための凶悪犯罪が発生することを懸念し、その2年後の2006年に出した『新平等社会』でも同じ警鐘を鳴らした。
そしてその懸念は、果たして2008年6月の秋葉原を中心に的中してしまった。
さらにその年の秋に始まったリーマンショック以来、日本の状況は改善されるどころか、
悪化して、格差は拡がる一方。
2010年、大学生の内定率は80%と最低ライン。
この格差拡大は、なにも小泉政権から始まったのではなく、1990年後半から始まった世界的・構造的変化であるという。
少子化の原因もこの希望格差で説明されている。
この構造の現状分析としては、『希望格差社会』で充分でもあるが、
どうすればいいのかという提言を知りたいなら『新平等社会』(2009年に文春文庫版)がいい。
たとえば、家族のあり方の変革も必要という。
具体的には、「育児期の女性が共働きをして、そこそこの生活費を稼ぎ出すという状況を推進すること」
であるという(”そこそこの”に注目)。
これは、男性一人が家庭を経済的に支えるという古い形態からの脱却を意味する。
氏は明確には述べていないが、これは正社員の賃金の抑制をも意味する。
夫婦が広い意味で”ワークシェアリング”することで、女性の社会参加を促進しながら、同時に人件費の高騰を抑制して、雇用者数の拡大と産業の空洞化を抑えることにもつながる。
このためには、家族関係の意識変革も必要で、家計は男性(夫)が支えるものという、
女性が捨てたがらない性役割期待を改める必要があるという。
そのほかに、所得税の累進度の引き上げを主張している。
同じ税率でも「公平」は実現されているので(「平等」なら同じ税額)、
課税の累進性は、持てる者に対してのみ負荷される社会的負担を意味する。
富の社会的再分配が促進されるので、文句はいわない。
ただ、寄付金控除をもっと大きくして、持てる者からの寄付をもっと促進させることも有効だと思う。
心理学は、個人の行動をパーソナリティで説明しようとするのに対し、
社会学は、社会的状況が個人の行動を規定するという視点をもつ。
個人の希望や生きがいというものは、社会との関係が前提とされる。
心理学の視野の外にある社会学の面白さを実感した。
ではこの問題に、大学としてどう対応したらいいのか。
大学が大衆化している現在、大学が育成する人材は、
需要の極端に少ない「知的エリート」ではなく、最も需要のある「スキルをもった社会人」である。
人が大学に進学する理由は、学問のためではなく、キャリアアップのためなのだから、
そのニーズに応えるのが今の大学の社会的機能となる。
ただ、普通の文系学部では、資格に直結するようなものはこれといってないし、
その資格自体が、就職を保証するものにはなっていない。
(今では、司法試験に合格しても安定した弁護士職に結びつかない)
本書から読み取ると、大学生が身につけべきる能力は、
定型的事務能力ではなく、創造性と論理性を兼ね備えた情報創造能力。
私が情報系の学部でずっとやってきたマルチメディア教育は、
いわゆる「コンピューター・リテラシー教育」ではなく、
人間の認知能力をメディアを使って強化するためであった。
それに加えて、いまいる学部のモットーである「人間関係力」を加えれば、
社会に出す人材として文句はない。
特定の学問領域の習得ではなく、このような能力の育成を目指したカリキュラムにしていくことが必要だろう。
出版されてから少し後に読むと、本当の値打ちがわかる。
予想が当たったか外れたかが判明するから。
『パラサイト・シングル』で一躍現代若者論の第一人者になった山田昌弘氏は、
『希望格差社会』(2004年)で、現代日本の”格差”の本質は、単なる金銭的な収入格差ではなく、社会心理的な”将来への希望”の格差であることを指摘した。
そして、このままだと、希望を失ない自暴自棄になった人が「不幸の道連れ」として死刑になるための凶悪犯罪が発生することを懸念し、その2年後の2006年に出した『新平等社会』でも同じ警鐘を鳴らした。
そしてその懸念は、果たして2008年6月の秋葉原を中心に的中してしまった。
さらにその年の秋に始まったリーマンショック以来、日本の状況は改善されるどころか、
悪化して、格差は拡がる一方。
2010年、大学生の内定率は80%と最低ライン。
この格差拡大は、なにも小泉政権から始まったのではなく、1990年後半から始まった世界的・構造的変化であるという。
少子化の原因もこの希望格差で説明されている。
この構造の現状分析としては、『希望格差社会』で充分でもあるが、
どうすればいいのかという提言を知りたいなら『新平等社会』(2009年に文春文庫版)がいい。
たとえば、家族のあり方の変革も必要という。
具体的には、「育児期の女性が共働きをして、そこそこの生活費を稼ぎ出すという状況を推進すること」
であるという(”そこそこの”に注目)。
これは、男性一人が家庭を経済的に支えるという古い形態からの脱却を意味する。
氏は明確には述べていないが、これは正社員の賃金の抑制をも意味する。
夫婦が広い意味で”ワークシェアリング”することで、女性の社会参加を促進しながら、同時に人件費の高騰を抑制して、雇用者数の拡大と産業の空洞化を抑えることにもつながる。
このためには、家族関係の意識変革も必要で、家計は男性(夫)が支えるものという、
女性が捨てたがらない性役割期待を改める必要があるという。
そのほかに、所得税の累進度の引き上げを主張している。
同じ税率でも「公平」は実現されているので(「平等」なら同じ税額)、
課税の累進性は、持てる者に対してのみ負荷される社会的負担を意味する。
富の社会的再分配が促進されるので、文句はいわない。
ただ、寄付金控除をもっと大きくして、持てる者からの寄付をもっと促進させることも有効だと思う。
心理学は、個人の行動をパーソナリティで説明しようとするのに対し、
社会学は、社会的状況が個人の行動を規定するという視点をもつ。
個人の希望や生きがいというものは、社会との関係が前提とされる。
心理学の視野の外にある社会学の面白さを実感した。
ではこの問題に、大学としてどう対応したらいいのか。
大学が大衆化している現在、大学が育成する人材は、
需要の極端に少ない「知的エリート」ではなく、最も需要のある「スキルをもった社会人」である。
人が大学に進学する理由は、学問のためではなく、キャリアアップのためなのだから、
そのニーズに応えるのが今の大学の社会的機能となる。
ただ、普通の文系学部では、資格に直結するようなものはこれといってないし、
その資格自体が、就職を保証するものにはなっていない。
(今では、司法試験に合格しても安定した弁護士職に結びつかない)
本書から読み取ると、大学生が身につけべきる能力は、
定型的事務能力ではなく、創造性と論理性を兼ね備えた情報創造能力。
私が情報系の学部でずっとやってきたマルチメディア教育は、
いわゆる「コンピューター・リテラシー教育」ではなく、
人間の認知能力をメディアを使って強化するためであった。
それに加えて、いまいる学部のモットーである「人間関係力」を加えれば、
社会に出す人材として文句はない。
特定の学問領域の習得ではなく、このような能力の育成を目指したカリキュラムにしていくことが必要だろう。