今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

マインドフルネスからトランスパーソナルへ

2020年05月04日 | 心理学

このブログでは、市井の一人としての身辺雑記のほかに、研究者として論文化する以前の、アイデアレベルの思索を開陳したい。
それは、個人的アイデアの公開であると同時に、そのアイデア表現の洗練の場となるためだ(自分のハードディスク内だけで文章化するより、こうして不特定の読者が存在しうる場での文章化は、緊張感=本気度が高まる)。
ちなみに、本文で使われる「システム」という用語は、私の「心の多重過程モデル」の用語なので、システム1・2(既存の二重過程モデル)以外は私オリジナルの使い方である。→詳しくは、心の多重過程モデルで理解する仏教:序


さて、私は、茶臼山高原(カエル館)や自分自身に”パワー”の存在を認めている(”パワースポット”のパワーは無批判には認めていない)。
われわれの科学的知性(最も洗練されたシステム2)では説明できないこの現象は、システム2を(2段階)超越したシステム4の存在を想定させる。
システム4は私の中でもまだ曖昧な内容で、科学的心理学ではまったく認められていない心の領域。
ここではこの話をしたい。

実際、私が茶臼山カエル館での来館者の反応の科学的解釈に困っているように、われわれの既存の論理では説明できない現象というものがある。
これは古典力学では説明できない量子現象(半導体などでわれわれの生活に応用されている)の問題とも通じている。
実際量子力学では、量子現象の数式での説明に虚数を使わざるをえない。

私の「心の多重過程モデル」では、人間の通常の心(無自覚行動のシステム1、明晰意識のシステム2の二重過程)に加えて、まずはより高次のシステム3(メタ認知、現象学的態度、瞑想・マインドフルネス)を想定している。

システム2を1段階超越したシステム3(仏教的/療法的マインドフルネス※)の視点では、システム2の作用である思考とイメージ表象は、人間の最高位の理性的活動として賞賛されるのではなく、むしろ苦しみの原因としての妄想と位置づけられる。
※心理学では、臨床の方向からマインドフルネスは認められている。ただしそれが心のモデルの中にきちんと位置づけされていない。

システム2では、思考主体の自我が最高位の制御主体であるため、思考を自らはコントロールできない。
すなわち思考が、妄想に落ちることを制御できない。

そこでシステム3という、思考を客体化して観照する、新たな心の主体(自我からの自極の分離)が必要となる。
この一種の自己乖離(≒解離)法は、すでに2500年前に北インドの地で見出された。

だがシステム3が人類の心の到達点ではない。
システム2が実現した思考・表象の力そのものをより高次元に活かすことが可能であることも、人類は見出している。
たとえば、プラシーボ効果は、システム2の思い込みの力が、システム0の心身一元機能(自律神経系・内分泌系・免疫系)に作用し、身体の自然治癒能力を活性化することとして知られている。

人類が獲得したシステム2のこのすごい能力(意味づけ、物語化の能力)の暴発を防ぎ、抑制的に制御するのがシステム3だ。
だが、システム3が自己の最高位だと、システム2の能力が充分発揮されないままになる。
人類の一人として私は、人がもっている心の能力をフルに発揮する方向を志向したい。


システム3による抑制を踏まえながらも、システム2の”思い込み”能力をより望ましい方向で活性化するのが、
システム4(自我を脱した自極の行き先=トランスパーソナル、心の脱自化)である。
ただし低次を捨て(否定し)て高次に向うのではなく、低次〜高次をすべて十全化するのが多重過程モデルの目標である。

システム4の開発訓練は、システム3の修行で一旦は否定された、思い込みの力をつけ、それを”心的エネルギー”化することである。
気功の訓練がその典型で、自分の身体の内外に”気”が流れていると思い込むことではじめて、気を触覚的に実感することができる(ただしカエル館来館者は、この思い込みがなくても触覚反応を訴える。それはカエル館内の”気”が特異的に強いためらしい)。
あるいはシステム3が、システム2の未制御な雑念活動(モンキー・マインド)を完全抑制する”無念無想”の達成を目指すのに対し、システム4は、実在しない鮮明な表象(観想)を必要とする(阿字観など)。
極端に言えば、システム3が人格解離で、システム4が幽体離脱だ。


「多重過程モデル」の多重(多層)性を担うサブシステム群(システム0〜4)は、低次のサブシステムの拡張とその反動(バランス化)、すなわち肯定と否定の二重の方向性で高次のサブシステムが創発される、という相互関係にある。
すなわち、システム3の能力はシステム2の能力の拡張であると同時に、その否定でもある。

そしてシステム4もシステム3の拡張(瞑想の進展)であると同時にその否定であり、それは論理的にシステム3が否定したシステム2の二重否定すなわち肯定となる。

ここで注意したいのは、システム3を経由しない、システム2の妄想的思考の無批判な拡張にすぎない、疑似(エセ)トランスパーソナルが、世界のあちこちに跋扈していることである。
これらは修行が必要なシステム3でなくても理解できるため、通常のシステム2で受容しやすい。
ただその陥穽に落ちると、自分のすべてが吸い上げられ、人生を台無しにされる。

真のシステム4は、システム3を経由したものであり、システム2の単なる暴走とは、厳密に区別されなくてはならない。
ただこの区別が可能なのは、システム3、4の心である。
科学的思考のように自己検証をしない”素朴な”システム2に留まっている心では、願望の投影や話の辻褄が合うだけで、いとも簡単に自他の妄想的思考にはまってしまう。

システム2から3への自然な流れは、日常的(定性的、辻褄整合的)思考→科学的(定量的、実証的)思考→現象学(無前提的)的思考→正見・正念(八正道)という流れだといえる(科学的思考は日常的思考の批判であり、現象学的思考は日常的思考と科学的思考の両方の批判である。すなわち思考活動に付随する諸々のバイアスを取り除いていく過程)。

この流れを経ずして、安易に「トランスパーソナル」に近づかない方がいい。


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