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絵本楊家将 第1章 楊門将帥

2012年01月14日 | 絵本楊家将
第1章 楊門将帥

唐朝が滅亡した後の五代十国の時期に、我が国の北方で契丹と呼ばれる少数民族が勃興し、大遼国を築きました。彼らは中原での連年の混戦に乗じて、しばしば南方に侵入し、東は幽州(今の北京市)から西は雲州(今の山西省大同市)に至る十六州の土地を併呑しました。中原で北方の障壁が失われると、契丹人は長駆して直接侵入するようになり、到る所で放火や殺人、略奪が行われ、中原の人々の苦しみは言葉にできないほどでした。この天下大乱の歳月の中で、北漢の国で天下を震わせる抗遼の名将楊継業が現れたのでした。

楊家は代々山西河曲県でくらし、そこでは常に北方の遊牧民族の侵略を受けていました。楊継業は小さい時から父親に着いて抗遼の戦いに参加し、胆力と識見は群を抜き、智勇は人並み優れていました。二十数歳の時、楊継業と妻の佘賽花は雁門関で二万人あまりの遼兵を大敗させ、有名な「雁門関の大勝利」を勝ち取りました。それ以後、楊継業の威名は四海に広まりました。楊継業のいる北漢の国主劉鈞は人材を大切にし、楊継業を加増して中書令とし、かつ金塗りの大刀を与え、彼の妻佘賽花を鎮国夫人に封じました。人々は楊家を敬愛し、楊継業を「金刀楊令公」と呼びました。

楊令公の武芸は世に抜きん出ており、佘賽花の女傑ぶりは男性にも劣りませんでした。俗に虎の父に犬の子はいないと言いますが、楊令公夫婦の子供たちもそれぞれが百人に一人いるかないないかというほどの、衆に抜きん出た才能を持っていました。夫婦からは全部で七男二女が生まれました。大郎楊延平、二郎楊延定、三郎楊延輝、四郎楊延朗、五郎楊延徳、六郎楊延昭、七郎楊延嗣、八姐楊延、九妹楊延瑛に、義子として引き取られた八郎楊延順を加え、楊家は多士済々であると言えましょう。子供たちが成年になると、楊令公夫婦はまた彼らにそれぞれ結婚させましたが、娶ったのはすべて武門の娘で、八姐・九妹を含めて、楊門女将はみな戦争に慣れていました。楊令公夫婦は楊家将を率いて北方の鋼鉄の長城とも言うべき雁門関を鎮守しました。

西暦960年、後周の大将趙匡胤がクーデタをおこし、皇位を奪い取って、宋朝を築きました。彼こそが歴史上有名な宋の太祖です。宋の太祖は雄才大略を具えた皇帝で、即位するや、東西への征討を開始し、分裂して五十年あまりとなる国土を統一しようとしました。十五年の征討を経て、宋の太祖は次々と中原の小国を滅亡させていきましたが、ただ北漢のみは楊家将が鎮守しているので、進軍するたびに大敗を喫して帰還していました。

そして北方の大遼では、実権が野心満々の女傑の手中に落ちていました。彼女こそが12歳の皇帝耶律隆緒の母親の蕭太后蕭綽です。この女性は武芸こそできませんが、知恵は人より優れていて、手腕は巧みで、世にも稀な女中の豪傑です。彼女は自分の弟である蕭天佐と蕭天佑を抜擢してそれぞれ左右の元帥とし、また武芸に巧みな韓徳昌を丞相として、三軍を統率させ、絶えず大宋を滅ぼして中原の主となる準備をさせていました。

千古より伝えられる楊家将の物語はこのような時代に発生したのです。


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