博客 金烏工房

中国史に関する書籍・映画・テレビ番組の感想などをつれづれに語るブログです。

『源平合戦の虚像を剥ぐ』

2010年05月18日 | 日本史書籍
川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ 治承・寿永内乱史研究』(講談社学術文庫、2010年4月)

「平家物語史観を乗り越える」とかオビに書いてあるので、『平家物語』のココが間違っておる!と細かな史実考証をしているのかと思いきや、当時の武士の戦闘様式といった時代考証が中心の本でした。

武士は地方の領地防衛のために自然発生したものではなく、都で発展した弓馬の芸を身に付けた芸能者の一種であるとか、源平合戦の時代は同時多発内乱の時代で、源平合戦はあくまでその一部にすぎないとか、源頼朝は祖先の中でも特に「曩祖将軍」頼義をリスペクトしており、奥州合戦では前九年合戦を再現することを目指していたといった主張は面白かったですね。

あと注目されるのは、征夷大将軍についてでしょうか。当時の武士達にとって最もバリューのある官職は鎮守府将軍であった。頼朝も鎮守府将軍源頼義の子孫としてその貴種性を主張していましたが、同族の木曽義仲や新田義重、4代に渡って鎮守府将軍を輩出した秀郷流藤原氏(具体的には小山・結城・下河辺・鎌田・山内等の諸氏)、鎮守府将軍平良文の子孫(いわゆる板東八平氏)、あるいは実質的に鎮守府将軍の位を保持する奥州藤原氏と差別化を図るために注目されたのが征夷大将軍の位であった。征夷大将軍とは鎮守府将軍の職務を吸収しつつ、彼ら鎮守府将軍の子孫たちの上に立つための称号であったというのです。

著者はそこで征夷大将軍とははじめから清和源氏と分かちがたいものであったとしていますが、源実朝の死後は足利尊氏に至るまで百年以上摂関家や皇族が征夷大将軍の座に着いており、江戸時代になってからも4代将軍徳川家綱の死後、皇族から将軍を迎えることが提案されたことなんかを見ても、疑問なしとはいかないところです。
コメント (2)
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