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無意識日記
宇多田光 word:i_
 



今回注目しているのは、SNSによる"口コミ"の威力とスピードである。SCv2がリリースされたのは2010年。Twitterは随分普及していたが、今のように「スマホ片手に」というスタイルはまだ主流ではなかった。言うなれば『Fantome』はヒカルが初めてスマホ世代に投げかけた新作なのである。

一体どれ位の影響力がSNSにあったのか、定量的な評価はいちばん沢山のデータにアクセスできる梶さんにお任せするとして、つまり何が起こるかという概観を述べてみたい。

スマホ世代は何が違うか。数だ。それまでPCを中心としてアクセスしていたインターネットに、多分一桁多い人間が加わった。もう既にテレビや新聞を上回るメディアになっている筈だ。

次に違うのは、動画だ。ガラケーでも専用サイトにいけばインターネットの情報は手に入った。しかし、スマホは何が違うかってそのままYouTubeに行ける事だ。皆こぞってアクセスできる。

もうひとつ、YouTubeとも関連するが、無料文化。ガラケー世代は何だかんだでお金を払った。代行決済という必殺技が使えたのが大きいのだが、そこで着うたがどれだけ売れたかを二番目によく知っているのが我々だろう。(一番目は青山テルマのファン、でいいんだよね?)

そして、TwitterとLINEである。次々と向こうから情報がやってくるこの感覚は、ガラケー時代とは一線を画す。ガラケーだって最初はセンターにメール問い合わせばっかしていた記憶があるが、いつしかちゃんと勝手に着信するようになった。それがスマホではあらゆるメッセージについて起こる。音鳴らす設定にしてたらうるさくて仕方がない。

こんな感じだ。人数、動画、無料、通知。これらの組み合わせは奇妙な結果を生む。有名な人は更に有名になるが、何も売れないのだ。数千万人の人がヒカルの新譜の発売をプッシュ通知で知る。或いはいつも行くポータルサイト(検索だったりゲームだったり)のニュースで知る。すぐに情報は回る。興味をもった人は動画を見に行くだろう。しかしそこで何かを買うという事をするかというとなかなかしない。iPhoneユーザーですら、すぐ目の前にあるiTunesボタンを押さない。動画で満足してしまう。

何故かといえば、情報過多だからだ。黙っていても幾らでも娯楽はやってくる。適当に有名アカウントをフォローすればくすっと笑える十数秒の動画が次から次へと。消費しきれない。宇多田ヒカルが新曲を出しても、その中で消費されるだけで、自分から手に入れにいこうとはしない。

ここでどうなったか、である。スマホ世代はここからが勝負なのではないだろうか。人の評判である。アルバムを聴いてよかったという評価を友人がしていれば、興味が出る。話題のタネになる。80年代90年代にテレビや雑誌が果たしていた「遅れるな」という役割を直接SNSが、スマホによるアクセスが担う。それが、昔と較べてどうスピードと拡散力が違うのか。それを見極めるのが先週から今週にかけてのチャートアクションだ。どうなったか。

それの解釈は多分難しい。特に、ラジオチャートが伸びていて、明日からは『ファントーム・アワー・ウィーク』だ。今週もう一伸びあるかもしれない。しかも、照實さんがビデオを作ったとか作ってないとか言っている。『Fantome』のミュージックビデオは既に6つ存在している(『桜流し』×2、『花束を君に』×2、『真夏の通り雨』、『二時間だけのバカンス』)のでどういう数え方かはわからないが、もう一山作る可能性が示唆されている訳で、一応目が離せない。各曲の解説をしながら、ラジオの感想も書きながら、更にもう暫くチャートも追おう。今週は忙しいわい。

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『俺の彼女』はヒカルが"演じ"るのが巧くなったから、その台詞をリスナーは宇多田ヒカルの、もっと言えば宇多田光個人の感情や思想を反映したものではないと解釈する、というのが前回の言及だった。

これは、それと最も対照的な『光』と聴き比べる事で明確になる。『光』は、宇多田光個人の名前を冠するまでにパーソナルなステートメントなのだ、と解釈される事が多い。今は兎も角、当時の宇多田光の心情をそのまま率直に唄った歌、という評価である。それに異を唱えるつもりはサラサラないが、しかし、この『光』もまた『俺の彼女』と同じように、男の台詞と女の台詞を唄い分けた歌なのである。

『光』での唄い分けは結構シンプルで、高音が女性で、低音が男性である。その明確さの割にこの曲は『俺の彼女』とは違いミュージカル風とか何とか言われる機会は少ない。それは、そう、ただ普通に歌っていて、口調に工夫がないからである。たったそれだけかと言われそうだが、試しに『俺の彼女』と『光』の歌詞を文字だけで読んでみればいい。歌で聴くよりこの2曲は随分"近い"と感じる筈だ。

つまり、『俺の彼女』と『光』は、作詞のアプローチ上は共通点に溢れている一方で、前者はヒカルのパーソナリティからかけ離れた内容を唄った歌と解釈され、後者はヒカルのパーソナリティそのものだと解釈されている訳だ。

ただ、『俺の彼女』にはしっかりと『彼女』の方が登場して所謂"女の本音"を語っている。多分、ここでリスナーの見解は二分される。これはヒカルの本音とリンクしたものか、それとも『俺』同様に、そのような心境を"演じ"ているのか。様々な解釈が可能だろうが、ひとまず、ヒカルがテレビで人間活動の契機のひとつとして『私だけれど私じゃない』と『俺の彼女』とそっくりの台詞を残している事を指摘するに留めておこう。それすらも"演じ"ているとみる事もまた、可能である。

この曲のストーリー性は巧みである。まるで星新一の(という枕詞は本来は余計だ、というのも、掌編小説の作法はほぼ彼によって網羅されているからだ)掌編小説のようにレトリックと視点転換に溢れている。それが音楽的な変化と変遷に呼応していて、何だろう、桑田佳祐が辞めたくなる程うちのめされるのもよくわかる。彼がソロでやりたがりそうなタイプの曲を、こうまで高い次元で実現しているのだから。


『俺の彼女』に次回触れる時は、そのドラマティックな構成と展開について触れてみよう。果たして文字だけでどこまで伝わるかわからないが、やってみる。今週はラジオ特番『宇多田ヒカルのファントーム・アワー』がオンエアされる。これで『Fantome』にももう一山が来る事だろう。既に累算は30万枚を突破している。何とか50万枚まで順調に推移して欲しいものである。

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『俺の彼女』の、今までのヒカルの曲の中でも最も特異な点は、歌の台詞を誰もヒカルの本音だと思わない事にある。今までだって曲の中で何らかの"役割を演じる"事はあったが、それでもそこにはどこかヒカルの本音みたいなものが潜んでいるように皆なんとなくでも思っていたのではなかろうか。

それが『俺の彼女』ではそう思われない。何故か。まず第一に、見ての通りだ、一人称が『俺』である。今までに聞かれなかった、非常に男らしい呼称だ。この一言から曲が始まるのは大きい。

それがいちばん大きな理由である事は間違いないと言ってみていいとも思うが、しかし、それだけではない。例えば、ヒカルは歌の中で『僕』という一人称も使う。その場合でも聴き手は、その歌の台詞をヒカルの本音の一部として受け容れる事に抵抗が無い。その代表格が、『日曜の朝』の『彼氏だとか彼女だとか呼び合わない方が僕は好きだ』の一節である。これを聴いたかなりの人は、ヒカルがそう思っていると受け止めている。これは結構影響力が高い。

何故なら、長いファンはこの一節があるから、『俺の彼女』というタイトルを見ただけで「ヒカルちゃん彼氏彼女って呼び方好きじゃないって言ってたのに」という受け取り方をしたのだ。既に種は蒔かれていた、ともいえる。

特異な一人称『俺』に加えてヒカルが好きじゃない『彼女』という呼び方。これらが複合的に重なり合って、聴き手はこの曲でヒカルが"役を演じ"ている事をすんなり受け容れる。

しかし、そういった要素に乗っかって、最終的にトドメを刺したのが「歌い方」であるように思われる。あの、いうなれば「べらんめえ口調」である。無頼漢風とも言えるが、あの言い方歌い方によって聴き手は即座に「あ、ヒカルちゃん演技してる」と直感的に思うのだ。

これは、新しい歌唱法の成果の一つであるように思われる。ヒカルもRAD対談で吐露していたが、『Fantome』以前のヒカルの歌唱を今耳にすると、確かに雑に聞こえるのだ、歌い方が。特に語尾については、「あ、意識して歌ってないな」と感じ取れるまでに。今まで全くそんな風に聞こえた事がなかったので余りにも不思議だが、私もヒカルも示し合わせたように「雑」と言い切り捨てているので、事実である確度はかなり高かろう。

これ、裏を返せば、今のヒカルなら非常に高い精度で語尾の歌い方を工夫できるようになったという事だ。技術とは意識である。存在に気がつきさえすれば、それを何とかしようという気が現れる。変化とは、それもまた意識なのだ。語尾を意識的にコントロールできるようになったヒカルは、この『俺の彼女』で発声から何から、非常に技巧的に"演じ"ながら歌う手段を手に入れたのだ。

これは大変な成長なのだが…ってちょっと長くなったな。この続きはまた次回のお楽しみという事でひとつ。

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『俺の彼女』のサウンドを語る場合、その楽器編成からしてまずジャズ、或いはクラシックの方面からアプローチするのが本道だと思われるが、私はメタラー。ここはロックサイドからこの曲を聴いてみたい。

いきなり歌い出す曲は過去にも幾つかあったが、それは『光』や『Flavor Of Life』のようにサビから始まるケースであり、『俺の彼女』のように"ぬるっと"始まる歌は珍しい。

そこで歌と一緒に始まるのが、あなアコースティック・ベースによる降下フレーズだ。それを初めて聴いた瞬間、即座にレッド・ツェッペリンの「幻惑されて(Dazed And Confused)」が連想された。幻という字が如何にも『Fantome』に相応しいが、なんだろう、そのシンプルな音階から感じるスケールの大きさにツェッペリンと同質の何かがみててらるた。

楽曲は途中、俺パートから彼女パートに移るにしたがい、ベースラインも下降から上昇に転じる。ここらへんの構成力もまたツェッペリン的である。

更に後半、楽曲は少しずつ弦楽器による熱を帯びてくる。この場面でも、レッドのツェッペリン気配に魅了された耳だったからか、同じくレッドツェッペリンの名曲「カシミール(Kashmir)」が思い出された。重いリズムにどこか冷めた視線。盛り上げるのに冷静で沈着なあの感じ。確かに、共通するものがある。


つまり、私からみれば、楽器編成はまるで異なるものの、『俺の彼女』は楽曲構成上とてもレッドツェッペリン的で、前半は「幻惑されて」、後半は「カシミール」を彷彿とさせる楽曲である。よもや、日本語の宇多田作品でこんなにもチャレンジなサウンドが聴かれるては夢にも思っていなかった。フルコーラスを聴き終えた途端に感嘆の溜息を吐かざるを得なかった。本当に、素晴らしい名曲である。海外の人達(非日本語圏の人達)にも、そこそこ受けるんじゃあないだろうか。これから耳にするだろうリアクションが楽しみであります。

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タワーレコード渋谷店の隣でやってる宇多田コラボカフェ、今夜で最後か、24時までやってるって話だから、今から行けば間に合うな、折角だし行こうかな、と思ったがやめておいた。

なんか2回も3回も4回も行った気がするが、本当に素敵空間だった。店内に居る間、ずっとヒカルのミュージック・ビデオが流れる。即ち、宇多田ヒカルの歌声で満たされっ放しの空間だ。それを素敵と言わずして何と言う。最初に行って素直にビックリしたのは、隣のテーブルに座った見知らぬ人たちが何の躊躇いもなくヒカルの話を始めた事だ。コラボカフェなんだから当たり前なんだけど、実際に見聞きすると妙に笑える。立地上ファンばかりが来ている訳でもないのだろうが、テーブルの上にヒカルの載ってるぴあやサンレコを開く時の違和感の無さ。これも笑えた。何だか俺笑ってばっかだな。

何より、仲間と飯を食うのは単純に楽しい。ぶっちゃけメニューには何のコラボ感もないただのカフェで、そこらへんの工夫のなさは世間に溢れるコラボカフェに後れをとった感がある。せめて店内に入ったら「ぼんじゅーる!」と元気よく挨拶して欲しかったが、無理か。いやそれされてもこっちが恥ずかしいか。その時流れる微妙に気まずい空気。ヒカル結構好物かもしれない。

要は、ヒカルを聴きながら仲間と語り合うのはやっぱり楽しい、と再確認できた空間だった訳だ。そこでふと気がついた。それって毎年やってるじゃん。1月にHikkiの誕生日を祝うオフ会で。二次会ではお店を貸し切って『WILD LIFE』を延々流していたりする。店に居る数十人、全員宇多田ファンだ。「おはようさまです」とか「アリガタビーム!!(ノ・_・)‥‥…━━━━━☆」とかのネタが通じる相手ばかりである。そりゃあ、楽しい。

何の事はない、大好評の宇多田コラボカフェだが、毎年オフ会の幹事さんはそれ以上の空間を作り出していたのな。わざわざ確認するまでもない事なのかもしれないけれど。いやはや、別にそこはタワレコの隣でなくてもいいし、出てくるご飯がエキゾチックな必要もない。ヒカルの歌声が流れて、冗談の通じる仲間が居て。それ自体が素敵空間だ。別に期間限定のコラボレーションにこだわる必要なんて無いのだった。という訳で今日は疲れているので素直に家路についている。

日本人は本当に「限定」に弱い。供給を絞られれば途端に欲しくなる。でもそれって、みんなわかっているように、幻想だ。いつも常に自分が欲しいものを探していられれば、それの供給量なんて関係ない。いつも言う事だが、溢れるほど余っていてもそれでも選んでしまうものこそが、自分のいちばん欲しいものなのではないか。人はついつい「限定」に目が眩んでしまって、自分の人生の時間が非常に限定されている事を忘れがちだ。そこから目を逸らす為に限定品に血眼になっているのかもしれないが。

話が説教臭くなったな。仲間と飯を食いたくなったら、食えばいい。そのシンプルな事実を再確認できただけでも、コラボカフェの意義は、深かった。まだそれをした事がない、してみたい、という人は上記のように来年の1月に関東でオフ会があるから来てみるといい。無意識日記の目次の「始」のボタンを押せば、何か書いてあるよ。「始」の字、ちっちゃいけれど、見つけられるかな? それが君と私が出会う為のスタートボタンだよ、っと。いや、私に会いたくない人も来ればいい。案外隅の方で静かにしてる方だから俺。話し掛けなきゃ印象に残らない位影が薄いよ。ハンドルネームが影なくせにね。

特に誰にも頼まれた訳でもないけど、以上ステキなマーケティングでした。タイトルはその略ねw

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『俺の彼女』は語るべきところが多過ぎてどこから手をつけたらいいかわからない。まぁそれはどの曲も同じなんだが、この曲は特に。

昨夜の「News Zero」でのパフォーマンスは素晴らしかった。どうもこの『真夏の通り雨』は直立不動で歌うイメージで居たからピアノの弾き語りと知って面食らったが、なんの、なんの。非常に集中力が高かった。生の歌唱でも(番組は収録ですが)あの新しい"丁寧な発音"を堪能する事が出来た。当たり前だけど、ちゃんと歌えるもんだねぇ。

生歌でのアプローチ、という事でいえば、『俺の彼女』は一体どうなるんだろうという期待はある。男役と女役を歌い分けるのに、ステージをどういう風にアレンジするか。ミュージカル風とすら言われる同曲の齎す見所のひとつだろう。

そうやって男側の言い分と女側の言い分をわけて、指ぱっちんサウンドで詰め寄られるとどうしたって"Poppin'"を思い出してしまうのだが、そちらはLIVEでは普通に歌って普通に盛り上がっていた、というか元々LIVE向けの曲なのだ。どうしたってGirlsの勢いがついてBoysが肩身の狭い思いをするのは仕方がないのだけれど。

『俺の彼女』は、その点、どこか"芸を見守る"感じが出てきそうな気配がある。息を詰めるようなというか、楽曲に独特の緊張感がある。

ヒカルがこんな風に男役と女役を演じ分けるのは珍しい。というか初めてかもしれない。

勿論、『光』と『Simple And Clean』という代表曲中の代表曲をはじめとして男の視座と女の視座の両方が歌われる歌は幾つかある。しかし、そこでは極端な歌い分けをしていない。恐らく、聴き手の感情移入を阻害しないように、各々の立場で自由に解釈して貰う余地を与えているのだろう。「これってもしかして」程度に思って貰えるように調整しているのだ。

翻って『俺の彼女』には、余地がない。歌い出しからの暫くは正真正銘の"男"だし、その後に続くのも正真正銘の女だ。これはある意味当然で、タイトルが『俺の彼女』だから、はぐらかす意味がほぼないのである。『俺』という一人称も珍しい、というか初めてかな、だし、かつて『日曜の朝』で『彼氏だとか彼女だとか呼び合わない方が僕は好きだ』と歌った人がいきなりタイトルに『彼女』を使ってきているのだから、「何か特別なもの」「何か新しいもの」が出てくるのではと感じさせる。果たして、結果は斯様な名曲である。

聴き手は、その新鮮さに引っ張られる形で、この楽曲の歌詞のもつレトリックな構成に引っ張りこまれていく。その詳細について分析するのは…とても時間がかかるのでまた稿を改めて。そうこうしてるうちにどんどん時間が過ぎちゃっていって、どしたものか。

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『Fantome』についてどこから語り始めればいいかわからない。あれも触れるこれも触れると欲張る程何も書けなくなってゆく。それでも結局何か書くんだけど。

『道』の齎す安心感は格別である。変態的な曲が居並ぶ中(なんせ2曲目が『俺の彼女』だからな)、『花束を君に』と並んで今作の良心ともいえる存在だ。アップテンポでわかりやすく、サビのリフレインは一度聴いたら忘れられないシンプルなもの。歌詞は率直で直接そのまま心に突き刺さる。切ないメロディーを歌うヒカルの歌声のPreciousさも存分に味わう事ができる。

何より、何となく聴き流せる。これがデカい。どうしても今作は個性的な展開をもつ曲が多く、曲が流れてきて暫くするといつのまにか「お?」と身を乗り出して聴き入ってしまう。しかし『道』は、勿論そういう風に聴く事も出来るが、何も考えないでプレイボタンを押して「いつぁろ〜いつゃろ〜いちぁろりいちぁろんりふんふんふん♪」と殆ど無意識日記に鼻歌を歌える。これこそ"Pop"なのだと思う。

曲がPop Songになる為には2つの方法がある。ひとつめは、最初っからPopになるように狙って曲を書く方法。これは、『Fantome』でいえば『二時間だけのバカンス』がそれにあたる。自身の特性と周囲の求める役割とのギャップに苦しみながらヒカル不在の世の中を「Jpop最後の良心」みたいな立ち位置で慣れないハレの場に相応しい曲を書いてきた林檎嬢を優しく労わる為に、この曲は「Popsかくあるべし」という態度で作られている。お陰で、歌詞も編曲も何から何まで計算づくで隙が無い。どこまでもかっちりハメられるように狙って作られている。

一方『道』は、作っているうちにPopsに収束していった曲だ。制作過程を見てた訳でもあるまいにどうして私はこんな風に断言してるんだか。まぁいい。自分の言いたい事は何か、この楽想の焦点はどこかを突き詰めていくうちにサウンドはイントロのシンプルなパーカッシブ、歌は思った事を捻らずにありのままを表現し、そのまま最も言いたいこと『Lonely but not alone』が曲のリフレインになっていった。サウンドの無駄を削ぎ落とし、言いたい事を簡潔にまとめていく、という過程を経てシンプルな編曲とシンプルな歌詞とシンプルなリフレインに到着した。目指した訳ではないところに辿り着くその感覚は、歌の中で歌われる『人生の岐路に立つ標識はありゃせぬ』そのままである。どこを目指したというよりは、自らの歩いた軌跡が『道』となったのだ。名は体を表すとはまさにこの事である。

斯様な『道』が1曲目というのが何よりも心強い。これと最後が『桜流し』であるという事実の組み合わせが、このアルバムの印象を決定付けている。つくづく、この曲があってよかった、そう思う私なのでした。まる。

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事前にプロモーションが殆どなかったと思われる北米であれだけ初動が動いたのは『This Is The One』をはじめとするUtada Hikaruの過去の実績とそこからくる期待の賜物だろうが、そこから先のチャート・リアクションについては、いよいよ『Fantome』の中身自体が問題になってくる。的外れな各種レビューが意味を為し直すのはここからだ。

昨今はSNSの普及により一昔前より口コミの威力がぐっと増している。映画でいえば、ネット上の好評なくして「シン・ゴジラ」や「君の名は。」の大ヒットは生まれなかったのではないか。前者については私自身もその罠に見事に引っかかったクチである。かかってよかった罠だったが。

アルバム発売から一週間。その口コミの成果もいよいよ出てくるだろう。日本国内では追い風が向かい風を追い越しているようにみえるが、北米ではどうだろうか。

残念ながら、今のところ強固なファンベースから外には波及してなさそうだ。しかし、それでも十分である。コミュニティーに入っていたって作品を購入するとは限らない。そこに一押しがあれば「話題に入れる」と購入に至るケースもあるだろう。その地道な一枚々々が大ヒットに繋がるのである。護身用にでも買わない限り、大抵は一人で一枚買うだけだろうし。


そういう状況は、しかし、北米に関して言えば非常に勿体無いとしか言いようがない。なぜかというと、『Fantome』がかなり北米にウケ易いサウンドを孕んでいるからだ。

最初は、『今回のテーマの1つは日本語』とヒカルが言うもんだから、随分と国内志向の強いアルバムになるんだろうな、ならばサウンドもきっと日本市場に違和感のないものになるんだろうな、そう思っていた。

しかし蓋を開けてみるとまずそこには『道』である。パーカッシブなギターのイントロダクションからサビの『Fu Fu Fu Fu』のコーラスが入るところなんぞまさに最近の北米チャートの上位にありがちなサウンドである。しかも、あれだけ日本語と言っていたのにサビのリフレインは『It's a lonely...』と思いっ切り英語だ。サビさえ英語なら他のパートが日本語でも北米人は結構聞いてくれるだろう。ズバリ、『道』は、今の日本ではそうではないかもしれないが、今の北米に対してはとても"チャート・フレンドリー"な曲調である。

『道』を聴いて即座に『This Is The One』を思い出したのは、そういう理由もあったのだ。同作は当時のメインストリーム・ポップのサウンドをバックにHikaruの得意な切ないメロディーを載せて送り出した北米仕様のアルバムだった。時を経て具体的なサウンドは変わったが、コンセプトはそれと同質なものだ。Hikaruがどこまで狙ってやったのかはわからないが、北米で『Fantome』のリーダートラックを選ぶなら、まずこの『道』が第一候補に上げられるだろう。

斯様な訳で、もし仮にiTunes初日のリアクションで『Fantome』に北米での注目が集まっているというのなら、運がよければ細々とロングセラーになるかもしれない。そう、アルバムの試聴に来た時に、我々もよくやるように一曲目から流してみてくれれば、だが。取り敢えず今はそんな事を期待しているところなのですよ。

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アジア諸国に関しては特に驚きはない。なんていう風に言われると他のアーティストとレコード会社はたまったものではないが、実際昔からHikaruは強い。既に前作、前々作の時点でアジアで10の国と地域で宇多田ヒカルの国内盤が発売になっている。即ち、現地のレコード会社がしっかりプロモーションをする事も可能なのだ。こうやって1位を10ヶ国近くでとっているのをみると、大して情報は入って来ないがやはりしっかりしたファンベースと各国内レコード会社の存在が窺われる。更に、Utadaからのファンもここに加わっている筈だから事態は更に盤石だ。こちらは順当な結果といえる。

意表をつかれたのはホンジュラスとバーレーンでの好リアクション、そしてフィンランドでの1位獲得である。いやはや、本当に世界中で売れているな。次はチュニジア、マリあたりでも売れて欲しいもんだ。勿論、私はこれらの地域で何故こんなに売れたのかさっぱりわからない。せいぜい、在留邦人が買ったんじゃないのと外務省や大使館のデータもみずに呟くのみだ。特にフィンランドは寝耳に水過ぎる。もともと小国として音楽を大事な輸出産業として育成に気合いを入れている国だから音楽に対してグローバルな態度ではいてくれる。メタラーとしては「世界で最も(相対的に)メタルが盛んな国」で宇多田ヒカルが大ヒットしているときくと現地の仲間たちが買ってくれたのだろうかいやそんな事はないよなと考えたり考えなかったりである。結局、売れた原因はさっぱりわからない。嗚呼、情けない。


兎も角、事実として売れてしまったのだから、もうそれを前提に考えるしかない。目指すは国内50万枚、全世界で100万枚であろうか。決して荒唐無稽な数字ではない。

そこで注目が集まるのがツアーとネクスト・シングル・カットだ。しかしツアーはあの口ぶりだと何も決まっていないようだから"ダヌパ待ち"ってとこだろう。アルバムセールスの追い風にするタイミングでのツアーというのは、ヤツら(笑)がしらばっくれていない限り、ありそうもない。

ではシングルカットはどの曲がいいか。いや、寧ろこれは無理だろうというのを挙げた方が早いか。『人魚』は無理だろう。ヒカルは最も誇らしい曲と言っていたが、地味過ぎる。『海路』の人気からしてもシングルカットはファンですらピンと来ないだろう。アルバム曲として末永く愛でていこう。

『忘却』も難しいか。元々インスト曲として作り始めただけあってちょっとエキセントリック過ぎる。あと、こういう曲調は日本でウケない。寧ろイギリスやカナダあたりで当たるかもしれないが、取り敢えずシングルカットは日本について考えようか。

となると、『俺の彼女』『ともだち』『荒野の狼』『人生最高の日』の4曲が候補になる。本命は『荒野の狼』だ。チームウタダは『First Love』の時『Another Chance』のシングルカットを考えたそうだから、『荒野の狼』でも同様に考えるだろう。アルバム内でのポジションも大体同じだし。あとはタイアップに恵まれるかどうか。トレンディードラマ(死語)のエンディングに切り込んできて欲しい、ってこの80年代脳がっ!

一方CMソングに使えそうなのは『人生最高の日』だろう。このまま『道』のあとを引き継いで南アルプスの天然水のCMに起用されるとうまくハマると思うがどうか。

『ともだち』は何といってもサビがクセになる。脳内エンドレスループソングだ。ラジオでかけてもらうと案外車の運転手たちに好評な気がする。LGBTイベントのテーマソングとかもいいよね。

そして大穴が『俺の彼女』だろうな。ミュージカル風ともいえる同曲、大金をかけて豪勢なミュージック・ビデオを作って話題になってみて欲しい。正直、偏った映画くらいしかタイアップ先が見当たらない気がするが、アーティスティックなステイタスの為にはこの歌詞の映像化は必須、チャレンジングな試みになるだろうな。

ちと話を詰め込み過ぎてしまった。目次代わりだと思って読み流しといてくれ。

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一方日本では初週25万枚。とんでもなく売れたなぁ。タイミングを逸して今回の売上予想をすっかり書いていなかったが、12万〜20万枚の間のどこらへんかと思っていた。これだけ幅をとって予想も何もないもんだが、それですらかすりもせんくらい売れた。異常事態だよこれは。

当初は同週のEXILEのベスト盤にすら勝てるかどうかという雰囲気だった。実際17〜8万枚だか売ったらしく、自分の最初の予想からしてもこういう数字を上回るのはかなり険しいかと思っていた。何つっても複数枚商法は固定ファンが何種類も買っていくから下げどまる。"通常盤仕様1形態"を貫いたヒカルは若干不利に思えた。負けたとしても「1形態でこれは凄い」と言う準備すら出来ていた。

それがまさかねぇ。2010年のSCv2の初動23万枚すら上回ったんですよ。累計で前作を上回るのは『HEART STATION』が初めてだったが、初動でも前作を上回る作品が出てきたという訳だ。Utadaは含めないのかとかシングルコレクションを同一に扱うのはどうなんだとかツッコミどころは色々あるけれど。

海外の売上とは異なり、国内での売上は収録曲の評価がまず最初に来る。事前に公開されてプロモーションしている訳だからね。皆それを目当てに買うだろう。いちばん大きいのは『花束を君に』だろうか。朝ドラ主題歌としてテレビから数百回、ひょっとすると千回以上流れてきたこの曲の知名度抜きに今作の売上は語れまい。多くの人にとってはこの曲が宇多田復活の狼煙だった事だろう。いや狼煙を上げるなら『荒野の狼』の方がいいかな。それはさておき。

『真夏の通り雨』も勿論はずせない。多くの人がHave-a-nice-dream tuneとして就寝前にテレビから流れてくる同曲を耳にしていた。一度フルコーラスで聴いてみたいと思っても不思議は無い。

そして、発売前の怒涛の攻勢である。『桜流し』を披露したMステは20時台後半といういい時間帯の出演だったし、『花束を君に』『ともだち』『道』を歌った「NHK SONGS」は2010年の「今の私」を大きく上回る好試聴率を記録した。金曜日夜放送のLOVEMUSICも週末の売上に貢献した事だろう。

そして、『二時間だけのバカンス』だ。椎名林檎姐とのカップリングは、いわば90年代デビュー組からの「古き良き時代」の復権の象徴である。あの頃に音楽を聴いていた世代がこのデュエットに大きく反応したと想像するのはそこまで荒唐無稽じゃないだろう。

そしてトドメは『道』の101局パワープレイだ。メジャーレーベルならではの大胆な施策だった。

こうしてみると、梶さんの今回のプロモーション・コンセプト、「一曲に頼らず総力戦で」というプランは見事に結実した。彼の作戦なくして25万枚は有り得なかっただろう。勿論ヒカルの歌う楽曲のよさが大大大前提だが、今度ばかりは彼に平伏するしかない。参りましたm(_ _)m

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『Fantome』はなぜ全米Top10に入れたかという話。まずは、『This Is The One』と『In The Flesh 2010』までに培ってきたファンベースが7年経っても崩れていなかった、そして、彼らの多くはUtadaも宇多田ヒカルも同じように愛していた為、Utada Hikaruの新譜も偏見無くチェックしてくれた。

更にここに加わるのが過去のタイアップ群である。『This Is The One』では様々な苦労を潜り抜けてボーナストラックに『Simple And Clean』『Sanctuary - opening version』『Ending Version』の3曲が収録された。そう、「KINGDOM HEARTS」シリーズである。同シリーズはまだまだ海外での人気も衰えていないようで、Hikaruの上述3曲(いや2曲か)の新しいリミックスにも注目が集まっていた。当然、Utada Hikaruという名も知れ渡っている筈だ。そのうちの0.1%でもアルバムを買ってくれれば相当な数になる。

更に、「EVANGELION Q」のファンだ。もしかしたら彼らにとっては、サントラ以外で初めて『桜流し』を手に入れるチャンスだったのではないか。とはいえ、EVAQがそんなに派手に上映されたという話は聞かないし、上乗せされてもせいぜい数百ダウンロードだと思うが。


以上のような複合的なファン層がこぞって発売日に『Fantome』を買い求めてくれた事が全米6位という好成績に繋がった、で話をしめられればよいのだが、多分、全然足りない。せいぜい、『This Is The One』と同程度といったところか。

いや、それは少し低評価が過ぎるな。というのも、『This Is The One』は2009年3月24日にデジタルダウンロードが開始、フィジカル(CD)は5月24日の発売だった。そうやって分散したのに前者が18位、後者が69位だったのだ。今回、北米で『Fantome』のCDが国内発売されたという話はきかない。もしかしたらこっそり売っているのかもしれないが、多くのファンが私同様「そんなん知らんがな」になっているのではないか。即ち、7年前にフィジカルを購入した層も今回は諦めて(?…日本からの輸入盤はバカ高いし、アジア各国からの輸入盤を仕入れれる体制が出来ているかも未知数だ)配信購入に踏み切っていると考えられる。となると、7年前を上回るダウンロードをベーシックなファンだけで成し遂げている可能性もある。

なお、『Fantome』の内容が評価されたから、という理由には懐疑的にならざるを得ない。北米でそんな早い段階から『花束を君に』や『真夏の通り雨』が話題になっていたのか? もしそうなら、YouTubeの国別アクセスで北米が突出する現象がみられた筈で、梶さんがあんなに今回の結果に驚くのはおかしい。まさか、しらばっくれてるとか?(笑) いやいや、そんな小手先の人じゃないよね。

『This Is The One』は違う。『Come Back To Me』が先行シングル、リーダートラックとして全米ではリズミック・チャートを中心に結構なオンエアを獲得していた。当時普通に「名門・アイランド・レーベル期待の新人」としてそこそこ注目を集めていたのだ。それでも流石に18位には驚いたが、そうなってもおかしくない下地が当時の米国国内に出来上がりつつあったようにこちらから見えていたのは事実である。

今回は、そういうのがあらへんねん…せやのに、6位や3位やゆうてるから不可思議なんやわー。もし次回までに何かに気がついたら続きを書きますが、何も思いつかなかったら話題を変えると思いますw

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『Fantome』疲れ(笑)。

まぁ幸せな疲労ですよ、えぇ。

同作のiTunesUS総合6位(乃至は3位)の"衝撃"の余波まだまだ覚めやらぬといったところだが、この順位は瞬間風速だ。『This Is The One』の時も総合18位まで上がり、この時は本丸たるビルボードTop200にもランクインした。181位か2位か忘れてしまったが、要はまぁギリギリ滑り込んだという具合。あれから時代も変わったので一概には何も言えないが、少なくともTop200には入っているだろうから今週のビルボードランキングの発表が楽しみだ。こちらが"後々まで残る"方の記録なのだし。

ではなぜそこまで売れたか、という話だが、これは当然ベースはその「『This Is The One』を総合18位にまで押し上げた人たち」が担っている、と仮定する所から始めなければならないだろう。『Come Back To Me』の当時のチャートアクションからすれば、リズミックチャートを熱心にチェックするようなソウルファンはUtadaの名前を幾らか覚えている筈だ。

問題は、それが7年以上前の話であるという事である。そこからのファンの増減、入れ替わりを考慮に入れなければならない。

『In The Flesh 2010』のビデオを見ればわかる通り、海外のファンは日本以上に熱狂的だ。更に、そのうちの相当数の日本語曲に対しても歓声を上げている。実際、『First Love』の盛り上がりは一番人気の『Come Back To Me』に迫るものがあった。あの様子だと、ITF2010まで「10年待った」熱心なファンがかなりの数含まれているとみていいのではないか。つまり、「10年待てたんだから7年待つなんて何でもない」という層がかなり居てもいいんじゃないかと。

及び。先述の『Come Back To Me』のYouTubeでの再生回数は、公開時期が1年以上早いというアドバンテージがあるとはいえ、他の宇多田曲と混じってもTop10にあたる高水準にある。この認知度の高さは、海外でも細々とでも新規ファンを獲得していかなければ維持できないものだ。

よって、『Fantome』のチャートアクションは何よりもまず、「『This Is The One』を買ってくれた人たちがまた買ってくれた」という所から分析をスタートするべきだ。ITF2010の動員数からしても、その数は1万をくだらないだろう。そこをベースに、更に細かい話はまた次回のお楽しみ。

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